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| 証 し |
| 「きよめの証し」 (S姉) −婦人会会報 2005年1月号より− |
| 私は、平成元年6月11日に、救いの恵にあずかりました。それまで、何をしてもむなしく、心の平安もなく、孤独で、暗闇の中を彷徨っていたものですが、神様の一方的な恵によって、新しい命を頂くことができました。それまで、神様抜きの人生は、どうあがいても本当の満足は得られず、刹那的な楽しみも終われば非常にむなしく、どうしていいか分かりませんでした。そして、すがるような思いで行った教会で十字架のメッセージが語られていました。「イエス様が自分の罪の身代わりとなって、死んでくださった」それを信じるだけで、救われるということでした。私は、思いにおいても行いにおいても罪人であると、その時素直に認めることができました。これも、聖霊様のお働き、また、救霊の尊いお祈りが積まれていたからだと思います。 救われた時にいただいた御言は、第一ペテロ2章24節の「そして、自分から十字架の上で、私達の罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は癒されたのです。」というものです。嬉しくて、嬉しくて、しばらくの間、天にも昇る気持ちで、まわりの景色すら違って見えるこらいでした。自分のようなものをまるごと愛し受け入れて下さった神様にただただ感謝でした。それから聖書をむさぼるように読み、集会にも励み、霊的書物も次から次に読んでいきました。けれど、喜びに満ちた信仰生活も、そう長くは続きませんでした。神様に示された事で、これはやめないといけないとか、捧げないといけないとか、人に謝らないといけないとか、そういうことをしたつもりではありました。自分なりに悔い改めたつもりでありました。 しかし、これはやめるわけにはいきませんとか、これは捧げることはできませんとか、そこまではできませんとか、たくさん出てきたのです。私はその二面性に大変苦しみました。自分は確かに救われているという確信はあるのに、聖書で言う本当のクリスチャンではないという思いが、日増しに強くなっていきました。聖書には、そこかしこに、聖くなければならないという御言があるけれど、私はその場所を読むととても嫌な気分になりました。それは、自分が神様の言われる聖い標準とはかけ離れているとだんだんわかってきたからです。寛容さが求められてもすぐ怒る。自分は赦されたものなのに、人をすぐに赦せない、神様が喜ばれないと思っていることをしてしまう。そんな資格もないのに人を裁いて見てしまう。都合の悪い事は神様に眼をつぶってもらっているつもりでいる。(そんなわけはないのに)自分をとことん犠牲にしたくなくて、自己正当化する。書けばきりがありません。それでも、教会では、クリスチャン面して、もっともらしい顔をしている。 私は、死ぬほどむなしい思いから、生きる力と、糧を与えて下さった神様から、決して、離れたくありませんでした。確かに、あの救われたときの平安と喜びは本物でした。今まで味わった事のない、他では味わうことができなかったものです。神様が、御言によって、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」と言ってくださったことがどんなに慰めとなったかわかりません。それなのに、自分の中に、その神様をしめ出しかねない、離れようとする思いがあるのです。それに気付いてから、神様と私の間には、もやもやとした霧があるような感じでした。 私のようなものの祈りが本当にきかれるのだろうか?こんなことが起きるのは神様が罰しておられるのではないだろうか?他のクリスチャンの方が、何かで自分を誉めでもしたら、自分の実情を暴かれるのではないかと尻込みする思いでした。私は偽者だ。でも、クリスチャンをやめるわけにはいかない。けれど、聖められなさいと言われても、そう簡単に、聖められるわけがないと思う自分がいたのです。 私はずっと逃げました。きよめの為に、口で「自分を全て捧げます。」というのは簡単だったけれど、本当はそうなった時に一体どうなってしまうのか、とてつもなく重い荷をくくりつけられたらどうしよう。息苦しい人生となってしまうのではないか、いろいろな思いが、湧き上がってきて、きよめを受けないと、前に進めないとわかっているのに、なかなか本気の決心をするまでには至りませんでした。 そんな状態でクリスチャン生活を送ってきたので、イエス様の十字架を信じていますから、喜びや、恵みもありますが、浮き沈み、敗北の多い信仰生活でした。何よりこのままではいけないと思いながら、罪を示されながら、解決もせず、葛藤している状態が辛かったのです。その状態は10年も続きました。それでも、信仰から離れずにいられたのは、神様の忍耐とご愛に他なりません。 あるとき、私の最も近しい信仰の友が、罪を犯しました。それはあまりにも思いがけないことであり、信じられないようなことでした。私は傷つき、そればかりか実質的な損害も受け、驚きよりも恐怖を覚えました。私は、その時その人を責めましたが、神様から自分をさぐられ、また、試されていると感じました。その人を赦すというよりも、自分がずっと、きよめを受けることから逃げてきたことを思わされました。その友もきよめられていません。私がもしきよめられた心で態度でその人に接していたら、そういう罪を犯さなかったのではないだろうか、そのとき私はその人に対して非常に高慢で、高飛車な態度で罪を犯したことを責めている自分を神様の側からはっきりと見せつけられました。その自分の姿に愕然としました。罪赦されたはずの自分が、平気で神様より偉くなって人を裁いている。私はこれ以上聖くなることを求めるのを延ばす訳にはいかないと強く思わされました。でないともっと恐ろしいことが起こるのではないかと思ったのです。 それから決心して、本気で祈り、聖書を読み、神様に求め続けました。これまでも、何度も求めては失敗し、受け取る事のできなかったきよめの恵みをなんとしてでも受けなければと思いました。そして、私は捧げよと言われて、まだ捧げてなかったものを捧げ、心にある思いも神様にさぐっていただき、まずきよめを受ける条件を果たしていこうとしました。そうして、大決心して、きよめの恵み求めたのに、なんと言う事か、それをすぐに放り出したくなる誘惑が強くせまってきたのです。しかも、それは、きよめを受けるまで、もう絶対に退かないぞと、決心してたった1日しか経っていない時です。なんというなさけなさ、みじめったらしさかと、ほとほと自分が嫌になり、そのときはもう死んでしまいたいような絶望感におそわれました。神様が、こんな自分をどんなに長く耐え、忍んで、愛し守り導いてきて下さったか、いろいろな出来事がオーバーラップし、感謝しながらも、それに反する態度をとってしまう自分。ロマ書7章24節の「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の体から、この状態を救い出してくれるでしょうか。」という御言が迫ってきました。神様どうぞ、この状態から救って下さい。聖くしてください。誓うような思いの決心も、もうひっくり返そうとする者をあわれんでください。と心の底から叫びました。涙が滝のように、流れて、救われたといってもこんな惨めな信仰者なら死んだ方がましだと思いました。そのとき私は、自分自身を捧げるといいつつ本当は捧げたくない自分、きよめられたいと言いつつ実はきよめられたくない自分に気付かされたのです。捧げますと言って祭壇に載せても紐をつけて、ひっぱり降ろしている自分。私は、神様に対して、これ以上かかわって欲しくない、自分の権利を全部は明け渡したくないと、実は反抗していたのです。これが罪なんだ、きよめられないといけないものなのだとはっきり示されました。私はかみさまに赦しを請い、まな板の上の鯉のように、自分ではどうすることもできないので、神様どうぞこんなものをどうにかしてくださいとお祈りしました。それから、その夜は平安に眠りにつくことができました。それから2週間毎日祈り、聖書を読み、きよめられることを待ち望みました。そして、平成11年9月15日の朝、エゼキエル書36章25節から28節までの御言が静かに心に満ちてきました。それは、私がずっと入信後から引っ掛かっていた箇所で、自分はまだそうなっていないと感じていたところでした。その中に、「石の心を取り除く」とありますが、まさにきよめられたくない、きよめられるはずがないと、心の奥底に隠されていた罪の心が石の心だったのです。 私は、いまきよめを受けるのを拒否する理由は何もないと感じ、そのみわざがなされたと、信仰によって信じ受け取りました。長く長くあった心の葛藤が止み、神様と自分の間にあった霧もなくなり、神様に対する後ろめたいような思いもなくなりました。新約聖書のあちこちにあるきょめの御言にもひっかからなくなりました。ロマ書8章11節「自分は罪に対して死んだものであり、神様に対してはキリストイエスにあって生きたものだと思いなさい。」にアーメンということができるようになりました。きよめを受けてから、私は弱さや、いたらなさや、失敗を神様の光に照らされた時、ありのままに認めることができるようになりました。何か試練のようなことがあっても、罰ではなく、自分にとって必要な訓練であると、神様を信頼し、神様のご愛を疑わなくなりました。とても楽になりました。しかし、きよめを受けた時のように自分に死に続けないときよめの恵から落ちてしまうということも経験しました。それを認めたときイエス様の血潮を仰いでもう一度立ち上がらせていただきました。信仰は日々、イエス様の命に生き続けないといけないのだなといろいろな事から教えられます。少しでも神様のご愛に応答できるものに変えていただきたいと願っています。 |
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