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証 し


人間には神様が必要であるか
−神様の子か金銭の奴隷か−


ペンネーム:大草原 

(壮年会会報寄稿文 2008年2月18日記)
 

「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(ルカ福音書16章13節

 中国には「人は財(たから)で死すものなり、鳥は食で亡(し)すものなり」という諺があります。これは人間も動物もあくまでも生計のために生きているに過ぎないという意味で、そのエコノミックアニマルのような生き方を厳しく諷刺する一方、生存生活という無情な現実の前にそれもやむを得ないと嘆かれるものです。また、もう一つよく言われる諺は「富を為す者は仁にならず、仁を為す者は富にならぬ」ということで、即ち、金銭と哀情が両立できないとの例えです。

 確かに生命生存の基盤は経済です。人間にも動物にも食物がないと生きられないし、会社が売上収入で成り立ち、役所が財政税金で機能を果たし、われわれのクリスチャンに親しまれる教会も例外ではありません。神様へお祈りするからと言って、教会に必要な運営経費はぽこっとどこからか出るのでなく、主イエス様を信仰する姉妹兄弟たちからの熱心な献金で賄われています。金がないと何もできないという現実は、目に見えない神様へ祈るよりも、目に見えるお金を拝むほうがよほど大事であるという不信者たちの世俗的な心理を支える最大な根拠でもあります。
  
 私の女房は不信者です。彼女も人生の頼りになるのは神様信仰よりも金銭にしがみ付くことです。信仰の私と不信仰の女房の間にあったギャップもありますが、私生活だけでなく、仕事の場でも同じようなジレンマに悩んでいます。仕事を通して、ビジネスの世界は利己主義が原則的で、主イエス様のように僕となる奉仕主義は通用しないということが痛感されました。商品販売やサービスの場合は、裕福階層なら歓迎し、貧困階層なら敬遠することや、事業の場合は、メリットがあれば手を出し、メリットがなければ手を引くなどは業界の常識です。「適者生存、弱肉強食」というダーウィンの進化論に唱えられた理論は合理的であるか残酷的であるかは別に、その法則通りに実行する人間は、草原で獲物に群がった食い争う野獣たちのような姿と変わりがありません。信仰が自由か不自由かは民主主義の国か独裁主義の国かによって異なりますが、「地獄の沙汰も金次第」というように拝金主義からの挑みへどう対応するかは人類共通の難題です。ある意味では、牢獄での試練よりそれと戦うほうがわれわれクリスチャンにとって、もっと難しいかもしれません。「貧しかったひとは金儲けを目的として生きる。金を持つと人間は変わる。金がないときは清かったのに金を持つと金の奴隷になる」と植竹先生はメッセージの中で何度も言われました。確かに、人間の倫理や道徳心を問うには金銭ほどの試金石がありません。金銭欲に淡白な私でも、エゴの一面も否定できません。よそのために自分の財布を叩く場合は、心が痛むほど抵抗感も時々あるからです。施すのは義であることがよく分かりますが、金銭主義に捕虜されたことに甘んじてしまいます。

 人間社会の富は人間の勤労と知恵によって創造されたものであり、紙幣の金銭よりも建物、食物、衣類、電気製品など数え切れないほどの物質文明で構築されたものです。私たちは人間社会でそれぞれに費やす自分の智恵と労力は、どれほど社会に認められたり、評価されたり、報われたりしたりするかは、金銭報酬で表わされます。もっとも、過大評価(儲けすぎると言えるか)と過小評価(搾取されると言えるか)の違いがありますが、金銭自体は罪ではありません。しかし、金銭を手に入れれば何でも出来るという誘惑は人間の心霊を汚したり、多くの人々に犯罪させたりすることも事実です。去年の11月に、中国国内にある不動産の社長が顧客たちから集められた16億円ほどの金融資金を秘密裏に外国の個人銀行口座へ不正送金を行った上、外国へ逃走したことで、千人ほどの社員を抱えた会社が倒産したという衝撃の事件が起こりました。リック・ウォレンさん(Mr. Rick Warren)が書いていた「人生を導く五つの目的」(The Purpose Driven Life)の中には「永遠の世界に移される時、あなたは何もかも置いていかなければなりません。持っていけるのはあなたの人格だけです。」と述べました。この社長は確かに一生涯に使いきれないほどの大金を手に入れましたが、このように騙し取った財産が本人に幸せをもたらすどころか、犯罪の恐怖感が余剰の生涯に付き纏うことに違いありません。この大金も永遠な世界へ持っていけず、罪だけを持っていくものです。

 富は「生より持ち込めず、死へ持っていけぬ」ものである以上、せっかくこの世に生まれたので、自分の人生が苦しまないようにするため、金に困らない人生を如何に築くかことは多くの人々にとっては、最大な夢でしょう。キリストの一信者になる前に、昔の同僚、同窓生、知人などがそれぞれの努力で、会社を起こしたり、蓄財したりして、それなりにゆとりのある人生を悠々と過ごすことを見て、何故、自分にはそれが出来ないかといつも自己責めにしていましたが、事業家にならなければ、一人前にならないとか、ある程度の財産がなければ、人生には不安がったりするとかと長い間に焦ったり、いろいろな手を考えたりしていましたが、ビジネスセンスに弱い私は恐らく、この生涯には金持ちになることがあり得ないと諦めていますが、その悩みにずっと苛まれました。その苦悩や不安、いわゆるエコノミックアニマルのような人生観から抜け出し、私に安堵感を与えてくださったのは聖書に書かれたこのような御言葉です。「朽ちる食物のためでなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これはひとの子があなたがたに与えるものである。父なる神は、ひとの子にそれをゆだねられたのである。」(ヨハネ福音書6章27節)。確かに、生前に幾ら蓄財しても、それはいずれも朽ちる食物になり、永遠の世界へ持っていけません。この御言葉が私の金銭観と人生観を正しく導かれるように、金銭の獲得よりも人間への奉仕を念頭に置きます。自分の限界と能力をよく認識した上で、生前に淡白な生活を暮らしていても、それなりの報いに感謝し、主イエス様に恵まれたという充実感を身につけば、歓喜と自信は人生と伴うことはできます。

 力の尽きる限りで、神様に喜ばれる行為を施すことで、朽ちない財産を未来の天国へ積み立てるようなことは最も大事な生命保険ではないのでしょういか。ハレルヤ!


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