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広島キリスト教会  〒734-0042 広島市南区北大河町39-1 TEL : 082-285-6006  FAX : 082-285-4043

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■入門講座@■ 聖書の神 植竹利侑牧師

●説教音声はここをクリック →  [Time 61:04]



 これから聖書の基本について、ご一緒に学ばせていただきたいと思っております。そこで今夜は、先ず聖書の神様についてご一緒に学びたいと思います。そしてその次には、人間、あるいは罪の問題、愛について、そしてイエス・キリストについて、あるいは聖書についてといった具合に、段々と回を重ねる毎に、聖書の核心にふれた問題について学んでいっていただきたいと思っております。毎回黒板を使いますので、大変高い所から失礼でございますけれども、これからしばらくご一緒に学びたいと思います。

 日本人の神観、神様に対する考え方は、普通の場合ですね、どうも私達の知っているところでは、自然を崇拝するのですね。ほとんどの場合、自然崇拝です。だから例えば、ある人は太陽を拝みます。ある人は太陽を拝んだり、月や星を拝んだりしています。本当の神様がどういうお方であるか、ということが分からないままで、ある人はまるで右を向いたり左を向いたり、一生懸命こうして四方八方を拝んでいらっしゃる人もよくいらっしゃいます。本当の神様に対しての理解がないもんですから、いろんなものを拝みます。山の神様、山の神といったら、よく奥さんのことを言いますけど、山の神とか海の神とか、大きな木があれば、大木大明神といって祈ったりといった具合で、本当に聖書が言っているような神様の信仰からみると、作られたもの、自然を拝んでいるということが分かります。あるいは、第二番目に祖先崇拝ですね。祖霊礼拝とも言いますが、祖先を崇拝します。天照御大神という神様を初めとして、私達の信仰は、例えば出雲神社は天の大黒様だとかですね、どこどこ神社はなんとかの尊とかいった具合に、祖先の誰かを拝んでいます。あるいは功績のあった人、あるいは国の一番偉い人、そういうような人の霊を神様として祀っているようです。第三番目には、ほとんどの日本人の宗教観は御利益追求です。御利益を追求するために神様を拝んでいる。神様の宗教というものは、御利益の追求であることが多いいんですね。おとりさまですか、広島では胡講というのがありますけど、胡講に行きますと、熊手が商売が繁盛するようにと置いてあります。ですから信仰はほとんど無病息災、家内安全、商売繁盛、天下太平、といったようにですね、自分達のできないことを神様にお願いするというような形になっています。だから有名なお話ですけれども、ある方が初めて教会に行ったんです。そしてですね、何かこの教会はどういう神様を信じているのだろうかと思って教会に行ったけれども、びっくりして帰ってきたそうです。なんでびっくりしたかというと、どうも教会に行って驚いたことに、おいなりさんの親戚だと言って帰ってきたそうです。馬鹿なことを言うな、お前、なんで教会がおいなりさんの親戚を拝むかと言ったら、おいなりさんは狐を拝むけど、教会では狼を拝む。そんなことあるもんか、狼なんか拝まないと言ったら、いや確かに牧師が「おおかみよ」と祈った、という話ですね(笑)。これはどうか私もちょっと作り話みたいな気もしますけどね。そういうような冗談が通用するほどですね、神様を知らない方が大勢いらっしゃるようです。そういうように日本の宗教というのは偶像崇拝、偶像を拝んでいる。何かの形をしたものを拝むことを偶像崇拝と言います。偶像を拝んでいる、ということが多いんですね。広島にCLCといってクリスチャン文書伝導団という本屋さんが、キリスト教の本屋があるんですけれども、この本屋さんが初めて教会に行った時、牧師さんが話をしている後ろにきれいな襖があったそうです。あの襖の後ろにご本尊さまがいるに違いないとかねがね思っていたそうです。それでいつかご本尊様を拝ませてくれると思って、なんべんか教会に通ったんだけれども一度もご本尊様が出てこないので、いつか見たいと思って教会にたまたま遊びに行ったら誰あれもいなかったので、ソーとその唐紙を開けてみたそうです。ご本尊様は何が祀ってあるかと思って開けてみたら物置だったという話です(笑)。後ろに物置があってですね、何にもなかった。なんだ、この教会は何にも拝むものがないのかと思ってですね、そう言ってブツブツ独り言を言ってましたら、後ろから牧師さんが帰ってきて、やあ、君何してるんだねと言われて、ドキマギして、実はこれこれと言ったら、はあそうかね、神様はね、目に見えるお方ではない、聖書の中に神は霊であるから、礼拝をする者も霊と誠とをもって礼拝すべきであると書いてある、と言われたそうです。それから、その牧師さんが青年であった河合先生と一対一で神様について初めて話をして下さった。そして、この牧師先生から河合先生の心が開かれて、その時本当に神様のことが分かったと言ってらっしゃいました。今日はですから、そういう訳で聖書の神について、今から是非ご一緒に学びたいと思います。

 先ず一番最初に、「使徒信条」、教会の礼拝でいつもお話を一緒にお読みいたします使徒信条というところを見ていただきたいと思います。その第一行目に「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と書いてあります。我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。これが聖書の神様なんです。いつも何の気なしに使徒信条を読んでいらっしゃる方もあると思いますが、我は天地の造り主、全能の父なる神。これはですから、聖書の神観、聖書の神様に対する考え方です。聖書は何と言ってるでしょうか。天地の造り主であり全能である、とこう書いてあります。更に、父なる神であると書いてあります。だからこの三つの言葉だけでも随分、第一は「創造」ということ、それから第二は「全能」ということ、第三は「父なる神」ということ。ここにもう三つのことが書いてあります。

 先ず、神様の神の本質ということから考えてみたいと思います。神様の本当の性質は、本質は何であるかと言いますと、その第一は、聖書によると「自存性」ということです。自存性っていうと、何かよく意味が分からないかも知れませんが、これは自分自身だけで自分で存在しているということ。ちょっと聖書を調べてみましょう。聖書の一番最初のところが創世記と書いてありますが、その創世記の次に出エジプト記というところがありますのでご覧いただきたいと思います。これはいつか日山さんが司会の時にちょっと引いておられましたが、旧約聖書の七六頁の第三章十三節から十四節というところから見ていただきたいと思います。七六頁の一番下の段の終わりの方です。

† モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名は何と言うのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしは有る』というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました」と。

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 私は有りて有る者である。有りて有る。これが神様の名前だと神がモーセという人に自己紹介しているんです。大体名前というものは一体なんでしょう。名前というものは、その人の実体を、本質を表すものです。本来、日本では名前にそんなに深い意味を考えずに付けますけれども、美しい名前だとかきれいな名前だとか、強そうな名前だとかいって、名前にそれほど深い意味を考えませんけれども、聖書の時代、ユダヤの人々は名前というものには非常に大きな意味を持たせたんです。ですからその人の名前は、その人の実体を表すものであるという考えだったんです。従って、名前を付けるということに対しては非常な神経を使った訳です。名前というものは誰が付けるかといいますと、これは造り主が付けるものです。造り主か創造主か、あるいは発見者が付けるんです。だから例えば関・池谷水星といってですね、関さんと池谷さんが発見した関・池谷水星。ばい菌でもバセドー氏病だとか、あるいはハンセン氏病だとかっていうのは、みんなその病気の病原菌を発見した人の名前が付いていますね。従って、ユダヤの国では名前を付ける権限はお母さんにあったんです。母親にあったんです。産んだ自分の子供に名前を付けるのはお母さんの責任だったんですね。特権だったんです。日本では男親が付けるのが普通ですが、ユダヤでは、女の、まあお母さんが付けたんですね。これは非常に意味があると思います。何故なら、子供を産んだ産み主だからです。名前を付けるのは偉い人が自分より下の人に名前を付けるんですね。従って、神様の名前っていうものは聖書を見てみると誰も付ける人がいない訳です。神様に名前を付けるっていうことはできない訳です。だから、あなたは一体何ていうお名前ですかといってモーセが神様に聞いたら、神様はわしの名前か、わしの名前は有りて有るという名前だよ。我有りという、それが私の名前だよ、って言ったと書いてある。大変面白いですね。英語の聖書を読んでみますと、I am that I am. と書いてあります。何て訳したらいいでしょうかね。やっぱり大変微妙ですね。私はそれ自ら私なのだ。私は私自身というのが私だと、こういう訳ですね。何て言ったらいいでしょうかね。私というものは私自身で初めから私であったのだ、とこれが神様です。何故ならば、他の全てのものは自分自身で初めから存在する、自存するということはできないんです。私達は全部、他存的存在です。他存的存在です。誰かが産んでくれたか有る訳です。あるいは作ってくれたからここに存在している。この黒板は決して自存的ではなくて他存的です。誰かが作ってくれたからここにある訳です。だから神様の名前って、これより素晴らしい名前はないんですね。我は有りて有る者である。神様は一番最初から、存在として自ら存在しておられる。だから神様を造ったっていうことは考えられない。神は造り主であって、神は自ら第一原因であるためのもの。あらゆるものの第一原因が神です。あらゆるものの第一原因は神です。他の物は全部、自分よりも前に原因があるんです。そして存在しているんです。名前というものは、大体これは相対的なものの特徴です。何故なら、私は植竹といいますけれども、植竹という名前は他の人と区別する、辻さんと区別するために私は植竹です。辻さんは宮崎さんと区別をするために辻さんですね。みんなそうです。名前ってものは相対的なものにのみ必要なものです。絶対的な物には、お方には、そもそも名前というものの必要性がないですね。だから、神様は何というお方だといったら、「有り」という名前です。初めから存在し、有った。我は我有りという私があなたを使わすのだ、と言っています。ですから神様の自存性っていうのが第一の神の本質です。何をどこまで遡っていっても結構です。日本人の祖先は何か、あるいはユダヤ人かも知れないっていう説がありますが、ユダヤ人かも知れない。そのユダヤ人の先祖は何か、もっと先祖は、もっと先祖は、もっと先祖は何かといって、一番最後は、ある人はサルだと思ってるかも知れませんが、一番最初は、何かアメーバみたいな単細胞だと思ってらっしゃる人がいるかも知れませんが、それでもそれでもそれでも・・・、なおなお遡っていくと、地球の前に太陽があったのか何があったのか知れませんが、あらゆるものの一番最初に遡っていくと、我有りという神がおいでになったと私達は信じる。その神の第二の性質は何かと言いますと、永遠ということです。「永遠性」です。神は永遠です。神様はきのうも今日もとこしえに変わりたもうことのない、あるいは不変性と言ってもいいかも知れない。神様が変わるということは絶対ない。神様が成長するとか、年をとるとか衰えるとか、あるいは変化していくということはない。それだったら、それはもう神ではない。もし変わるんだったら、それは神ではないんです。神様は永遠であり、全く変わりたまわないお方です。これが神様の本質ですね。第二です。時間、永遠に対する言葉は時間です。時間です。時間というものはですね、これは本当はごく最近なんです、時間ができたのは。何故ならば、太陽というものがあってその太陽と地球ができて、そして地球が自転し始めて初めて太陽の周りを公転し始めて、初めてですねそれから時間というものができたんであって、時間なんてものはごく最近できた。これは哲学的に言ってもそうです。時間っていうものはごく最近できたんです。時間ていうものの観念さえも何にもない時に、永遠から神はお出でになったお方だと聖書は言っている。だから、私達は時間的なものですけど、神は永遠的なものです。あらゆる時間を超越しておられる。永遠の初めから永遠の終わりまで、変わりたもうことのないお方だということができます。第三番目の神様の性質は、だから「無限」ということです。第四番目は「絶対」ということです。従って哲学の世界では、神様のことを第一原因者とかですね、あるいは永遠者とかですね、あるいは無限者とか絶対者とかと呼びます。そういう永遠性・無限性・絶対性というのが、これが神様の性質ですね。神以外の全てのものは有限なものです。限りあるものです。神以外の全てのものは相対です。神以外の全てのものには限りがあるし唯一ではない。だから第五番目に神の性質は「唯一」ということです。永遠であり無限であり絶対であり唯一のもの、お方、それが神です。私達は世界の中で複数であって、いつでもですね相対しているものです。神のみが絶対性を持っていらっしゃるんです。だからよく私達は「絶対よ」とか言って、なんかでもって言ったりしますけど、それは間違いですね。絶対ということは人間の中にはあり得ないのですね。人間はいつでも相対です。相対するものです。そして更に神様の本質は「偏在」といいますかね、いまし給わざるところがない。これはあまねく存在している。神がいない場所、神が行き届かない場所、神様の愛や神経やその精神が行き届かない、存在が行き届かない場所はどこにもないという意味で、神はあまねく存在したもう。従って神というお方は、あくまで第一原因であるところの自存的なお方であり、永遠にして無限・絶対・唯一で、いましたまわざる所のないお方、というのが、しかもですね、そういう「霊」である。霊的なお方である。霊であるってことは物質ではない、物ではない、目に見ることのできないものであるということ。だから神様を何かの形で表すということはいけないことです。だからユダヤ人にしてもマホメット教のアラブ人なんかにしてもそうですが、ユダヤ教やマホメット教の人達は像というものをもの凄く嫌うんです。写真を撮ることをさえ嫌うと言いますね。何故ならば、形を作るということは偶像になるからです。神を形で表してはいけないということをもの凄く厳しく言うんですね。この間家内が言うんで私が買ってきて、まだ私は読んでいない内に家内が読んでいましたが、トケイヤという人の書いた日本人とユダヤ人のことを書いた本があるんです。その本によると、シルクロードを通ってユダヤ人が流れ流れてきて、最後に留まった所が日本だっていう説なんです。日本人とユダヤ人はもの凄くよく似ている、あらゆる点でよく似ている。もう思想・考え・神観、神様に対する考え方、あらゆるものが日本人とユダヤ人は本当によく似てるんです。恐らく日本人の祖先は聖書の民族であるユダヤ人であろう、というのがそのトケイヤという人の説なんです。その中に何故ユダヤ人がそんなに遠くまで、あのパレスチナから日本まで昔来られたかというとですね、他の民族は宗教を神様を祖先だと思っていた。だから祖先の霊というものは、その故郷の国・土地、土地というものから離れることができない。だから、さすらいの民になるということがですね、異境の人にとっては一番恐ろしいことなんです。昔はそうですね。よそ者、他国民。よそ者の一番恐ろしいところは何かと言うと、その土地の神様に見放されるということなんですね。昔はそうです。今でこそどこへでも旅行したりしますけどね、昔はその自分の先祖の土地に居ればこそ神様の保護があるけれども、そこから離れたら、もうよその民族、国へ行ってしまったら、もう神様の保護はないと考えたんですね。だから他の民族はみんな自分の土地から離れることができなかったんです。よその国へ放浪に行ったら、もうよそ者になるということは、放浪者になるということは、もう同時にね、命に影響するほど恐ろしいことだと思ったんです。ところがユダヤ人だけはですね、今言ったように自ら自存的であられる、しかも永遠でいらっしゃり、無限・絶対で唯一でいます、いましたまわざる所がないというですね、そういう神様を信じていたんですね、ユダヤ人というのは。だからどこへ行こうとね、よその国へ行こうとね、航海をしようと、どこへ放浪して行こうと、どこへ行っても彼らはそこで神様を信じたんです。何と言いましょうか、これは場所です。場所を超越します。これは永遠なる神は時間を超越するんですね。だから私達は今クリスチャンでキリスト教の信仰もそうですけれども、いつでもどこでも神がそこにおいでになるんです。私達はそうです。それこそ地獄へ行ったっても神はまだそこにもいらっしゃるかも知れない。もうどこへ行っても、地の果てに住んでも、黄泉に床を設けても、あなたから離れることはできません。詩篇の一三九篇というのは有名ですけどね、どこへ行っても神はそこにおいでになる。一人で荒野を旅する時でも、誰の居ない砂漠の中でも、あるいは荒れ狂う怒濤の海原の中でもですね、そこでも神様を今私の助け主として神を信じることができるんです。ユダヤ人の旧約聖書の聖書の神様はそういう神様な訳です。従って彼らは、どこへ行っても、ユダヤ人というのは今でもそうですね、世界中どこへ散っていっても、そこで逞しく強く大成功して生きている訳です。行った先々で小さなね、まず会堂を作ったらもうそこでいいんです。像を造らない。偶像を造るとその偶像の前にいる時には、こう敬虔な気持ちがするけれども、離れたらもう神様のことなんかパアで忘れてしまうということですね、神様のことを全然想い出さない。しかしユダヤ人達はそういう神様を信じていましたから、道を歩いても何をしていても、仕事をしていても神の臨在、神はここにおいでになる、否私の心の中にまで来て下さるというような信仰を彼らは持つことができたんだ、だから日本まで来られたんだ、とトケイヤさんはそういう説を採っています。以上申し上げたことは大体神様の本質です。

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 二番目に聖書の神様の神の属性と言いますかね。本質でなく性質です。性質と本質は違いますね。属性と言ったらいいでしょうか、まあ性質です。属性。所属しているところの性質ですね。属性と言います。神の属性は何かって言いますと、先ず最初はですね、「全知」ということです。だから、いましたまわざる所なき、しかも死にたまわざるところなき、全き知識を持っておられるお方。そして能わざるところのない全能の神っていうのがそうです。我は天地の造り主なる全能の父なる神を信ず、といったその全能というのは、神にはおできにならないことは絶対何一つありません、ということなんですね。あらゆる絶対性・無限性・永遠性というものを尽く持っておられる。具体的に言うなれば、全知全能であるというのが私達の神様に対する考え方です。信仰です。更にもう一つ大事なことはですね、人格性を持っていらっしゃる。すなわち神は霊であって、いましたまわざる所がないという風に言いますと、まるで空気のようなですね、酸素のような煙のような、何かそのつかみ所のない、ある種の霊的なホワホワとしたものであるという風に考えやすい。ところが聖書を観ると、聖書の神様は「我汝よ」と呼びかけて下さる。「私」はあなたを愛しているとか、「私」はあなたを造ったとか、「私」はあなたを守る、とか言ってですね、非常に強い人格性、すなわち意志を持っているということです。ホワホワとした様なもんじゃないんです。「私は」という、こういうですね、全知で知り給わざるところなく能わざるところなき強い宇宙を創造し、これを保持しておられるところの強い意志を持ったお方です。

 その意志の内容はどういうものであるかと言いますとね、これは普通は道徳的属性とか言うんですけれども、これはですね神は聖であるということと、神は愛であるということ。神は愛である。これはですね神様の道徳的な性質です。正しいとか、あるいは清いとか優しいとか愛があるとかということ、これは段々と次に一項目を設けて、こういうことはお話しないといけませんので、今日はただ簡単にそう言ってお話するだけで終わりに致しますけれども、神の道徳的な性質は聖と愛ということなんです。もう、だから聖書に書いてある神様っていうお方は、もの凄いそういうことなんですね。当時旧約聖書の時代に普通神様っていうと、なんだか訳が分からないけれども、何かまあ造っておかなきゃあいけないだろうという程度でですね、何かをこう偶像を、怪しげな獣(けだもの)だか鳥だか人間だか分からないような、何か巨大な像を造ってですね、そうしてそれにお酒を捧げたり、地の産物を捧げたり、何かを犠牲にして生け贄にして捧げたりといった真似事はするんですけれども、神のご性格・ご性質というようなものは何にも分かっちゃあいなかった。何にも分からない。私達日本人でも今そうですね。どっかの神社に行って拝がんでも、その神社の神様はどういうお方であるやらですね、昔心中した男女であったりですね、中には甚だしいものでは牛だの馬だの豚だの狐だの狸だの拝んでいるかも分からないですね。そんなようなものを、私達は何だか分からないものを、神として拝んでいたんです。そしてしかも昔は牧畜とか農業・農産とかいうことが主だったもんですから、もう産めよ増えよという風なことでですね、神様を礼拝するっていうこととね、男女の不道徳・セックスというようなことが結びついているところが多かった、昔は。だから礼拝をすると、その帰り道には変な男娼とか女娼とかいうようなものがあってですね、そういう淫売窟のようなものがあって、そういう所で楽しんで帰ることが宗教行事だなんていう宗教が多かった。だから宗教といっても道徳性もなければ倫理性も何にもないですね。ただ、金が儲かればいいとかですね、楽しめばいいといったような、そういうものしかなかった。ところが聖書の神様は、「我聖なれば汝らも聖なるべし」とこうおっしゃっている。そしてですね、人間は生きるためにどうでなければならないか、っていう清きと愛に立脚した律法というものを神は、旧約聖書の神様は人間に与えていらっしゃったんです。その律法というものは本当に素晴らしいものです。例えば律法の中に、安息日をおぼえてこれを清くしなさい、と書いてあります。安息日をおぼえてこれを聖としなさい、清くしなさい。私は六日間働いて天地を創ったのだから、七日目に私が休んだのだから、あなたがたも安息日を守りなさい、って書いてあるんです。なんと旧約時代の人々はそれをきちんと守りました。新約時代のイエス様の頃には、もう少しおかしくなって、考え方がおかしくなってましたけれども、六日働いて一日休むというのはですね、これは律法だ戒めだ命令だと思うと、変なものをつくって、もうめんどくさいと思うかも知れませんけれども、その当時は奴隷なんていうものはですね、休むなんていうことは死ぬまでできなかったんです。朝眼が覚めたら夜寝るまで、ぶっ倒れるまでこき使われて、病気になったらそのまま捨てられて死んでったんです。そうですね。昔はそうです。牛や馬よりもっと酷使された時代です。そういう時に奴隷も牛や馬にいたるまで、その日は煮炊きしちゃあいけない、掃除もしてはいけない、ただ礼拝をして後は静かに過ごしなさい、っていう律法です。これは過酷な律法でしょうか。不道徳な律法でしょうか。そうじゃないですね。本当に人間の健康から言ってもですね、その時代のユダヤ人はどんな奴隷でも馬でも牛でもね、六日働いたら後の一日はちゃんと礼拝するだけした後はちゃんと休ませてもらう。動いちゃあいけないんです。奥さんが掃除してもいけないんです。洗濯もしちゃあいけないんですよ、昔は。炊事もしゃちゃあいけないんですよ。前の日にちゃんと全部準備を整える。それは決して律法じゃあないですね。厳しい律法じゃあないです。むしろこんなに人間的なヒューマンなですね、律法はないです。殺してはいけない、盗んではいけない、むさぼってはいけない、姦淫してはいけない、と簡単に書いてますけれども、これは本当に昔は人を奴隷を殺すなんてことはなんでもない時代ですね。どんな理由があっても殺してはいけない、盗んではいけない。そういう律法が聖なる神様の御心を守るということがですね、イスラエルの人々をどんなに清く保ったか分かりません。ですから、世界の精神的なもの、ヨーロッパをはじめとする世界の文化に絶大なる影響を及ぼしたものの第一は何かというと、旧約聖書の宗教だと言われている。聖書の宗教です。第二は何かと言いますと、それはヘレニズムと言ってギリシャの文化です。第三は何かと言えば、それはローマの政治です。近代国家の政治はその端をローマに発しています。だからヨーロッパ文明というものは全部聖書の宗教、すなわちヘブライズムと言いますが、ヘブライ民族、ユダヤ人のことをヘブライ人と言ったもんですから、ヘブライズムとヘレニズム、ギリシャ文化ですね、ヘレニズムとそれからローマの政治です。これが今日の世界の精神的なものを形作っていると言われています。だからそれ程、今から何千年という昔に、こういう神様に対する信仰がイスラエルの人々にはあったのでございます。更にこの神様のもう一つ ・・・


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・・・ 神は父なる神、そこには厳しさとか強さとかいうものが非常に強く現れています。注意して読んでみますと、旧約聖書の中には神様を父と呼んだことが殆どないんです。旧約時代にはさっき申し上げたように、神様の名前は有り様。有り様というと変だけど、「有る」というのが神の名前だと言いましたけれども、モーセの十戒の中に「みだりに神の名を、私の名を呼んではいけない」と神が仰せになったと書いてあるんです。そういうことからイスラエルの人々は神様の名前を呼ばないようになったんです。その内に段々忘れてしまったんです。それでユダヤ人達は神様のことをエルとかエロヒムとかいう、神と呼ぶことは止めてしまって、主と呼んだんです。主なる神ですね。主と呼んだんです。主のことをヘブル語ではヤーウェと言います。昔はエホバとも呼んでいました。今エホバの証人というのがありますが、エホバと呼んだんです。あるいはヤーウェと呼んだんですね。これは主という意味です。ロード(Lord)ですね。で例えば、「ハレルヤー」と言いますね、よく。キリスト教で「ハレルヤー」という風に言います。ハレ・エル・ヤーウェ。エルとは神です。ハレ・エル・ヤーウェですね。ヤーというのはヤーウェのことです。だから主なる神にハレるというのは、栄えあれーっていうことです。「ハレルヤー」って言うのは、要するに「主なる神様に栄光あれ!」って言うと、「ハレルヤー」と言うと全部入っている訳です。そういう具合にヤーウェと呼んだんですけれども、さっき歌った聖歌の中にありましたね。「ハレルヤー、ハレルヤー」というのは、そういう意味ですね。「神に栄えあれ。神に栄えあれ。」って言う意味で「ハレルヤー」と言うんです。それでイスラエルの人々は神の名を呼ばないことになって、主と呼ぶようになりました。ところが、これは天地の造り主のこの「主」です。

 ところが新約聖書になってきますと、イエス様、イエス・キリストというお方が、これはなんべん目かにイエス様について詳しくお話しするつもりですけれども、イエス・キリストというお方が現れてイエス様は何て言ったかというと、「あなた方は天にいます父なる神にお祈りしなさい。」と。今皆様がお読み下さっておりますマタイ福音書の第五章、六章、七章に、山上の垂訓というのがある筈ですが、その中のイエス様の言葉の中に「主なる神、父なる神に祈れ。」と何度も出てきましたね。そしてあなた方はこう祈りなさい。「天にまします我らの父よ。願わくば御名をあがめさせ給え。御国を来たらせ給え。」主の祈りですね。礼拝でいつもいたします。初めてイエス様は、神様を父なる神として紹介して下さった。従ってクリスチャン達はユダヤ教の人は別として、クリスチャンは神様を呼ぶ時、かつては主なる神と言ったのを、今では父なる神と呼ぶようになったのです。我が父すなわち汝らの父、あなたがたは今まで神様を呼んだことがなかった、父なる神様に今度は祈りなさい、私を見た者は父を見たのと同じである、私は父の御心を行うためにこの地上に来たのだ、そうイエスは何遍もおっしゃっておられる。だからイエス様が、天にまします我らの父よ、と祈り始めてから、私達は神様を父と呼ぶようになったのです。さっき何故聖歌の八五番を歌ったかと言いますと、その八五番の中にそのことが言われているからです。イエス様は父なる神様の長男で、私達はその兄弟だということがこの八五番で歌ってあった訳です。そのように私達は神様を父として呼びます。それはヨハネ福音書の第一章に詳しく書いてありますから、ちょっとご覧いただきたいと思います。聖書の終わりの方の新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四番目です。その第一章十八節、一三五頁です。

† 神を見た者はまだ一人もいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが神をあらわしたのである。

 安心して下さいませ。神様を見たと言う人がいたら嘘です(笑)。神様は目に見えるお方ではないからです。神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐においでになったひとり子なる神だけがこれを現された。私達は旧約聖書の時代にはどうであったかというと、もう少しずっと後の方を見ていただきますと、ヘブル人への手紙というところがあります。それは三四三頁になります。ヘブル人への手紙の第一章一節から三節です。

† 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。

 ここに父なる神様と御子との、イエス・キリストとの関係がよく書かれています。他にも何ヶ所かありますけれども、イエス・キリストというお方は神の御子であり、永遠の初めから神が産みたもうた神のひとり子なる神である、と聖書は言っています。さっきは唯一だと言ったのに、なんだ子なる神がいるのか、ってことになりますが、子なる神というのはこれはキリストのことです。三位一体と言い、それに聖霊という神がいるんですけれども、今日はもうそのことは時間がありませんから、今日はお話しないで次の機会に譲りますが、父・子・聖霊なる神という方がおいでになる。しかも三位一体。このことはかなり難しいので時間がかかりますから、今日はこれで終わりたいと思いますけれども、その子なる神、イエス・キリストというお方を通して初めて見せていただいた、教えていただいた神様は、恐ろしい怖い神様ではなくて、私達の父なる神であったということ。本当に私達を愛していて下さる私達の天のお父様だった。あなたがたは神様を父と呼びなさい、と聖書は言っています。しかもその父っていう言葉は、御父上(おんちちうえ)よ、というような難しい言葉じゃないんです。おとっちゃーんという言葉です。本当にヘブル語を読んでみますと、ギリシャ語でもそうですが、おとうちゃーん、パパーというのと同じです。ある宣教師が日本へ伝道に来て日本語を一生懸命覚えている時に、ある家庭を訪問して「お父様いらっしゃいますか」と言ったら、「ああ親父は今仕事ですよ」と言われたそうです。ああお父さんのことを親父と言うのか。それからこの宣教師は夜の祈祷会で「天の親父よ」と祈ったものだからみんな笑い出してから、しばらく困ったという話があります(笑)。天の親父でいいんです、本当に。神様は私達の親父でいらっしゃるんです。そういう風にですね、本当に御子イエスを通して知った神様は、驚くべき愛の父なる神様であったということが分かった。イエス様を通して知らない時には神は怖い恐ろしい聖なる神様ではあっても、本当の愛の神という風にはユダヤ人達はもう一つ信じられなかったのだと思いますね。だから律法を今でも守っています。律法を守らなければ救われないと思っているんですね。そういうところから来ているんだろうと思います。ここのところは今日はちょっとまたいつかの機会に、三位一体のイエス・キリストや聖霊のことについてはやがてお話をしなければなりませんので、その時にまた詳しく学ばせていただきたいと思います。

 今日は、創造主なる神について、もう少し時間をいただきたいと思います。私達は何でも人間ていうものは、私というものを中心に考えるんです。そして私の家とか私の国とか私の住んでいる大陸とかいった具合に、中華思想といって、人間はみんな私の友達、私のお父さん、私のお母さん、私の先生といったように、何でもものを私を中心にして考えるんですね。それは当然のことです。だから昔の人は自分の住んでいる所がこの地球の中心だと思っていました。そして地球はこうして平らな、どっか一番最後の所に行ったらバアーと落ちて、下には大きな魚が口を開けて待っていてみな飲み込まれてしまう、と昔の人は考えた。ところが段々と科学が進歩してくるに従って、地球は丸いということが分かってきましたね。地球は丸いんだと。聖書の中にはヨブ記というところを読んでみますと、今から四千年前に書かれていると言われてますが、神様は地球を雲、空、空間に架けておられると書いてあります。ところがですね、地球は平らだなんていうことは聖書には初めからないんです。そして地球は丸いんだけれども、地球の周りを太陽が回っていると考えたんです。これが天動説です。ところが有名なコペルニクスという人が今から四百年位前になるんでしょうかね、いやそうではない、太陽が実は中心で地球はその周りを回っているんだ、とこれは地動説です。簡単に言えば地動説ですね。太陽が中心なんだと彼は言ったんです。ガリレオ・ガリレイっていうような人はですね、この望遠鏡を発明しましてですね、そして望遠鏡で天体を眺めてみたところが、どうも色んな星の動き具合でですね、どうも矛盾が一杯あってですね、太陽さえもが、実は宇宙の中に他に色んな恒星があって、色んな星があるということが段々分かってきたんですね。普通太陽のことを恒星と言いますね。地球のことは惑星です。地球の周りを動いている月は衛星ですね。ですからそういう具合に、太陽があってその太陽の周りを地球が回っているということが段々分かってきたんです。ところがその当時の法王達は、カトリックのお坊さん達は、とんでもないことを言う、地球はこの宇宙の中心であると言ってですね、地動説を唱えたコペルニクスを牢獄に入れちゃったんですね。それでもう脅かしたもんだから自分の説を曲げて、そして出てきた。それでコペルニクスは小さな声でつぶやいたそうです。「そうしろといったからそうしたけど、それでも矢っ張り地球は動いている。」と言ったというような話があります。誰にも聞こえないようにつぶやいたという話がありますが、とにかく地球はいつでも自転しながら太陽の周りを公転しています。そういうことが段々分かってきたんです。ところが段々もっと分かってきたことは、太陽そのものも実は自転しながら公転しているんですね。ずーっと太陽も公転していることが分かったんです。そして太陽と地球と同じ様な惑星の中には、火星とか金星とか木星とか土星とか天王星、海王星、冥王星なんていう星まであってですね、太陽を中心に色んな星がこう回っているってことが分かったんですけれども、そういう惑星達を子分に従えながら太陽が回っている。その太陽自体がまた他の恒星、太陽と同じように群をなして公転しているのが、これがですねどういうものかと言いますと、横から見ると薄いものです。縦から見ると上から見るとこう風にですね丸いものであって、大体地球は太陽はどの辺にあるかと言うと、これは銀河系宇宙と言うんですね。皆さんもよくご存じだと思います。銀河系宇宙の島宇宙と言いますが、小宇宙とも言いますが、島宇宙の大体地球はどの辺かと言うと端からこの辺の所です。七と三位の所です。そしてこの直径が十万光年。一光年が、光は一秒間に確か三十万キロ走る訳です。地球は一週四万キロですから地球の周りを七・五回回るんですね、一秒間に。その光の速度で大体直径が十万年かかるって訳です。そして太陽はこの辺にあることが分かりました。しかも厚さは約一万光年。直径が十万光年の星のグループです。そして太陽と同じ様な恒星がこの銀河系宇宙にいくつあるかって言いますと、一千億あると言われています。凄い世界ですね。太陽が一千億です。ひしめき合っている。その島宇宙が更に大宇宙の中にはいくつあるかというと一千億あるんです。だから太陽というのは一千億分の一の一千億分の一が太陽です。その太陽の切れっ端みたいにして回っているのが地球ですね。その地球の一番端の方の、日本の地図で見ると日本はいい所に書いてありますけれども、ヨーロッパの人の書いた地図で見ると、日本は東の方の一番端の方にちっぽけに書いてありますね。そのまた日本の端の方の広島の少し端の方に私達はいるわけですけれども、とにかく宇宙というものはこんなにとてつもなく大きなものです。だけれども、この宇宙を支配しているものは何かと言いますと、この銀河系宇宙が大宇宙の中で更に公転していて、そして前の所に帰って来るのは二億八千六百万年かかる。凄いですね。島宇宙は大宇宙の中を公転しています。帰ってくるのに三億年かかるんです。これは天文学の人がそう言っているんです。宇宙というものはそれ程広大無限です。今もなお膨張している。縮小しているという説と膨張しているという説があるそうですが、今でもなお広がっている。もの凄い勢いで。そして他の島宇宙の中には、例えばアンドロメダ大星雲なんていうのは、この直径が約九十万光年あると言われています。銀河系宇宙の九倍です。直径だけで。そんな宇宙がざらざら一千億個もあるというんですね。そんなに広い宇宙であるけれども、科学者の言うところによると、この宇宙を支配している原理・原則というものはただ一つである。唯一の原則で動いている。決してですね、他のどんな原則があるのではない。全部ただ一つの原則で運営されているんだ。その原則は何かと言うと、万有引力の法則です。万有引力の法則以外ではない。他の法則があるんじゃあない。たった一つの法則でお互いの勢力を、均衡を保ちながら自転しながら公転しているのに過ぎないのだそうです。

 たった一つの法則で、別の法則は一つもない。全部これはアイデアと言いますかね、アイデアは一人のお方から出ているということが分かる。絶対別のもんじゃあないです。日本人は日本人の神様とかアメリカ人の神様とか言いますが、とんでもない話で、もし神がおいでになるとするならば、そういう天地万有の創造主なる全知にして全能であり、いましたまわざる所なき永遠であり無限であり絶対である唯一のお方が、この宇宙を支配しているとしか言いようがない。そして、万有引力の法則というのは、ご存じのようにニュートンが英国のイングランドの片田舎のリンゴの畑で、リンゴが木から落ちるのを見て引力の法則を思いついたといいます。今ニュースに載っているソ連の衛星ですね、原子炉衛星のことが載っていますが、人工衛星の原理なんて、もの凄く簡単ですね。地球の引力を突き抜けるだけの秒速がある、そういう推力を発見したということ。そして、それをコントロールするコンピュータ、計算力ができたということ。推力と計算力で回っているに過ぎないですね。地球の引力を突き抜けるだけの推力がなければ絶対飛び出すことができない。飛び出した後は、地球の引力あるいは月の引力など色んな引力を計算して、その速度をちゃんと合わせればですね、遠心力と地球の引力のバランスでいくらでも回ることになる。原則は極めて簡単です。人間が新しい何かの原則を発見して飛び出した訳ではありません。むしろ人間は、この宇宙を支配している唯一の原理・原則に忠実に従うことができる力ができたから月へ行ったり還ったりしているだけの話です。そういう知恵が発見できたから火星に行ったり還ったりしているだけですね。別段、新しいことを人間がやっている訳じゃあありません。人間には残念ながら一番軽いと言われている一番基になる水素の原子一個でさえも、人間は創造ということはできないんです。創造なんてことは人間は絶対できないんです。人間がしていることは、既に神が与えたもうた原子を、物質の基である原子を、加工したり分離したり化合させたり変化させたりして、利用しているだけです。人間がしているのは全部そうです。水素爆弾の原理なんてものは、太陽が昔から輝いているその原理を、人間がただ発見して利用している、それが科学です。人間は本当は実に無力なものですね。だから、科学はもっともっと本当は謙虚でなければならない。だから本当の科学者にはクリスチャンの人がもの凄く多いですね。本当に科学した人は謙虚な人が多いです。当教会員が広島大学で師事しておられる物性科学者の中にも、神を恐れるといいますか神を愛する心といいますか、そういう心をちゃんと素晴らしく持っておられる科学者がおられます。本当に物を突き詰めていくと、あらゆる物の基であるところの神は唯一であるということが分かります。例えば生物、人間を頂点とする生物だってそうです。あのダーウィンが『種の起源』という本で進化論ということを唱えましたが、進化論という考えに至ったのも無理はないと思います。何故なら単細胞に過ぎない精子と、複合体であるもっと複雑な卵子と結びついて妊娠すると、短期間の内に単細胞から僅か十月十日の間に人間になってしまう。その間にはアメーバみたいな時もあるかと思うと、まるで毛虫みたいな時もあるし、どんどん進化していって、終いにはカエルみたいなところもあるし、その内猫やネズミみたいな時もあるし、生まれた時はサルみたいな顔をしている。それがやがて人間になっていきます。人間は最も頂点として、一番進化した動物だと考えるのは無理ないと思いますね。人間は僅か十ヶ月で単細胞からこの人間になってくるんです。だけどもね、どんなに考えてみても、種から種へ移るということはできないんです。種から種へ変わっていくということは進化論では説明がしきれないんです。例えばサルから人間へ変わるってことは説明がつかないんです。どんなにしても説明がつかないんです。そして種と種を掛け合わせたら、例えばロバと馬とはよく似ているけれども、両者の掛け合わせではラバができるだけです。そしてラバはもう妊娠能力がないんです。出産能力はないですね。一代限りです。レオポンなんてのもありますが、これも同様です。人間は人間として進化したでしょうし、サルはサルとして進化したでしょうが、サルから人間に変わるということは無理なんです。進化論では説明つかないですね。突然変異だと言いますが、突然変異ではないです。二、三週間の内に人間とは何かということについてお話できると思いますが、人間というのはそんなに簡単なものではありません。もの凄く素晴らしいものです。

 創造ということは一体どういうことかと言えば、神の愛の本質なんです。愛というものは絶対に単独・単一ではいないんです。愛は必ず愛の受取手を作っていくものです。神様は人間なんてものを造らなければ、神様はもっと随分楽だったと思うんですけれども、これは人間論の時にお話したいと思いますが、神は人間を造らざるを得なかったんです。親は子供を造らざるを得ないんですね。子供ができると子供によって親は制限されます。いくら偉そうなことを言っても息子があれじゃあ、とこう言われようになります。それでも、永遠・無限・絶対なる神が有限な人を創ることによって自らを限定していらっしゃいます。親は子供ができると、どんな立派な学者でもお魚のことをタイタイだのと言ったり、植物のことでも子供に合わせて口をききます。子供に合わせて知識を使いますね。神は人間を創ったために人間に制限されていらっしゃいます。有る意味で。遂には、そのひとり子さえも犠牲にするというようなことさえも、なさらなければならなかった。神は本来、愛の故に創造ということをなさったんです。万物の造り主は一つですよ。その創造のアイデアは一つです。月で採ってきても火星で採ってきても土は土です。他のどんな物体に行っても、恐らく水素は水素です。酸素は酸素です。間違いない。地球環境という成り立ちも、極めて驚くべき奇蹟の上に成り立っていることが分かります。地球に対する神の特別な配慮には驚くべきものがありますね。太陽と地球の位置関係だってそうです。そういう神様のことが分からなければ、人はただ「自然」だと思っています。この自然には意志がないんです。自然には何の力もないんです。そのように自ずからしかるべくなるように、神が造られたのです。決して偶然では、秩序というものは保つことができないんです。私達の世界では偶然というものは一つもないんです。物質の世界でも、絶対ごまかしがありません。この宇宙、何もごまかしがないんです。人間が作ったものは小さくなるとごまかしていますね。だけども、野に咲くどんな小さな花でも、電子顕微鏡で観なければ分からないような極微の世界でも、ごまかしがあるでしょうか。絶対ないんですね。全部必要なもの、雌しべも雄しべも花弁も全部揃っています。あらゆる物質の世界がそうです。この白墨の粉一つでも顕微鏡で観たら分かりますね。絶対にごまかしがない。実に美しい秩序と美しさ、調和が保たれているんです。その自然界の素晴らしさといったら驚くべきものがありますね。それが何でもない自然に、そんなものがあるんだと言って片づけてしまえるでしょうか。もしそれが自然なら、自然は神です。本当に自然は素晴らしい全知全能です。もしそれが神ならね ・・・

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