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■入門講座A ■ 「聖書の人間観」 植竹利侑牧師

説教音声はここをクリック →  [Time 45:22]



 ただ今から入門講座の第二講、「聖書の人間観」ということについて、ご一緒に学ばせていただきたいと思っております。

 人間とは何であるか、色んな人が色んなことを申します。例えば人間は立って歩く動物であるとか、言葉を使う動物であるとか、道具を使う動物であるとか、色々なことをおっしゃる方もおられます。確かに人間はこれを生物学的に見ますならば、人間というのは霊長類の中の人類、ホモサピエンスと呼ばれる一つの生物に過ぎません。あるいは生態学的に、あるいは生理学的に言いますならば、人間がどういう体をもち、どういう性質をもち、どういう生活行動をしているかという風なことは、生態学とか社会学とかっていう分野で学ぶことができると思います。人間の心がどういう動きを持つかということは心理学という学問がございます。その他、人間の生き方について、例えば倫理学という風なものがありまして、人はどういう風に生きなければならないかということを学んだり致します。しかし、それだけでは、本当の人間が何であるかということを言い尽くすことはできないと思います。今日私が申し上げたいと思っております、人間とは何か、聖書はどのように人を観ているか、ということについてお聞き下さいますならば、新しくまるで目が開けるような感じをお持ちいただくことができると思うものでございます。

 大体、科学(サイエンス)というものは、物質の世界に力を持っています。例えば飛行機や自動車を作るのは科学の力です。しかし、その自動車がどこへ行くかってことは、どこに向かって運転するかとか、どういう走り方をするかということは、最早科学の問題ではなくて、そこに乗っている運転者の品性や人柄が影響してきます。原子力を作ったのは科学者ですけれども、それを何のために使うかということになると、これは精神の問題になるのでございます。従って科学は物の世界、科学は力ではあるけれども、宗教は心の世界であり、その力の方向づけをするのが宗教の仕事です。原子力を作ったのは科学ですけれども、それを人類の破滅のために使うかも知れません。その科学の力、原子の力をどのように人が良いことに使うかっていうことになると、これは人間の精神の世界の問題になるのでございます。従って宗教というのは力を意味づける、あるいは目的づける、方向づけをするものが宗教です。科学と宗教とは決して相争うものではなくて、むしろ相補い合うものであると思います。そこで今日は、生物学的とか生理学的・心理学的・社会学的、あるいは倫理学的な人間というよりは、宗教的な聖書の人間像、人間の見方はどのようなものであるか、ということをご一緒に学びたいと思います。

 旧約聖書の創世記の第一章というところをお開き下さると幸いです。二六節と二七節を読んでみます。

† 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 同じ頁、第二章の七節です。

† 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

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 創世記の第一章をずっと読んでみますと、神様は天地の創造をされて、そして色々な生物を造られた後で、最後に人間を造ったということが分かります。実は神様にとって、先週お話しましたような偉大な宇宙、果てしない大宇宙というものも創造の目的ではなくて、それは一つの手段なんです。神様の創造の目的はどこにあるかと言うと、私達人間を造るというところにあるんです。天地の創造が目的ではなくて、そこに住まわせて下さる人間を造るということが神様の御業の目的であるということが分かります。それまでの創造の働きは全部準備の段階に過ぎません。それは恰も自然は花婿を迎えるために花嫁が装いをしているようなものだ、それが自然です。全ての舞台が整って、そして生物が現れ最後に動物が生まれ、一番最後に人間が造られています。神様は人間以外のものはできてしまえば、人間以外のものには聖書の関心はありません。それはもう自然ですから。あと聖書の関心は人、人間にだけ注がれています。太陽も月も星も森羅万象、あるいは自然のあらゆる物も神が造られたままに運営されています。もっぱら神様の、聖書の関心は最後に造られた人の、人間の上に集まっていると言ってもいいと思います。その人間がどのような生き方をしていくか、ということが聖書の中心的な問題でございます。すなわち、人間とは天地万有の創造の目的であり冠であったということが分かります。今お読み致しました第一章の二六節に、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」それから二七節に「神は自分のかたちに人を創造された」と書いてあります。それまでの被造物は全て神様の一方的な命令でできているんです。例えば「光りあれ」と言えば光ができたと書いてある。ところが人間の創造の時だけは、神様ご自身が、我々は我々の形に似せて人を造ろう、と。どうでしょうか、神様自身が自問し、問答し、決断し、大きな決断によって人を造ったということが分かります。人間の創造の時だけは、神様ご自身の決意と決断が述べられているんです。神様は「我々」と言って複数なのはどういう意味なのかと、この前ご質問がありましたので今日はそのことは深くは触れないことに致しますが、神様は「我々」と自分のことを言ってらっしゃる。これは偉大なものは複数で書くという習慣がユダヤ人にありましたし、父・御子・御霊という三位一体の神様が唯一の神ではありますけれども、三位の神ですから、神様は「我々」とここで言ってらっしゃいます。そして神はご自身の中で自問自答し、熟慮し、決意して、人を造るという行動をしていらっしゃるのです。それ程の熟慮の結果なので、僅か二七節一句の中に「神は自分のかたちに人を創造された、すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあり、創造という言葉が三つも出てきます。二六節にも造ろう、造ろうと、こういう風に神様は言ってらっしゃいます。そして第二章七節にも「主なる神は土のちりで人を造り」と書いてあります。ここで「造る」という言葉と「創造」という言葉は全然意味が違うんです。造るという言葉は加工するということなんです。この場合「造」ですね。これは原料があって何かを形作っていくことを造るといいます。創造というのは無から有をつくられる時だけ使われている言葉なんです。すなわち神様は人間の体は材料を使って造りました。土の塵で造る、と書いてありました。しかし人間の中に吹き込まれた命の霊、あるいは神の形と呼ばれているもの、これはね、神様が無から有を創造されたものなんです。物で造ったもんじゃないんです。これは物質の問題ではなくて霊の問題なんです。それでありますから、神様はある人、タムルッドというユダヤ人の学者がいるんですが、このタムルッドの物語に依りますと、神様が天地を創造する時に天使長達を三人呼び集めて、そして協議したという面白い寓話があるんです。どういう協議をしたかって言うとですね、神様が三人の天使に申します。「私は自由意志をもった人格をもった人というものを造りたいと思うのだが、あなた方はどう思うか。」と言って聞いたそうです。そしたら三人の天使の内第一番目が正義の天使ですが、正義の天使は「主よ、それはおよしなさい。自由意志だの人格だのというものを持っているのはあなただけで結構です。そんなものを迂闊につくって人に与えたりすると、必ず後で災いが起きますから。」と言って神様を諫めたそうです。次に真理の天使が「何卒人を造るのはおやめ下さい。恐らく人はあなたに背くでしょう。」と言ったそうです。しかるに、慈悲という天使は目に涙を浮かべ跪いて神様を礼拝しながら、「神よ、お造りなさいませ。もし、その人が罪を犯したら、私がその罪のために責任を負いましょう。」そう言う天使がいたので、神様は神様と同じ性質を持った人を造ったという、そういう話がユダヤの国の話の中にあるそうです。これは聖書に直接書いてある話ではありませんけれども、神様は大いに満足して、「人よ、汝は慈悲の子である。慈悲の天使の子供である。」と言って、神様はですね三番目の天使の子供として天使の保護の元に人を造った、という寓話があるそうです。神話みたいな話があるそうですね。確かに人間は神様が自分に似せて造った。それは人間の本姓は神の形なんです。この短い言葉、二六節と二七節の中に三つのことが書いてあります。すなわち一つは、神は自分の形に人を造ったということ、第二番目は、これを男と女とに創造されたということ、第三番目は人間に課せられた任務があるということ。動物とか植物とか全ての物を管理するという仕事を人間に与えた、と書いてあるのです。

 本日は、男・女に生まれたということや性の問題や労働や仕事の問題はさておきまして、第一番目の神の形に造られた人間のことについてお話したいと思います。神の形とは何でしょうか。これは容貌とか容姿とかスタイルとか、こういう形態のことを言ってるんじゃないんです。むしろ人間の体の形はサルの方に似てるんです。誰を見てもそうです。神様に似てはいないですね。人間の形はサルに似ています。人間の霊が、魂が、心が神様に似ているんです。だから、ここで神様が自分の形にと言ったのは、一メートル六〇センチだとか七〇センチだとか、目や鼻や口があるという形が似ているんじゃあないということを知っていただきたい。そうではなくて、神が霊であるように人も霊的なものに造られた。神様が人格をもっておられるように、人間も人格者として造られたのです。この形というヘブル語はセーレムというものですが、セーレムという言葉は裁断したもの、あるいは裁断されたもの。布を裁断するとか使いますね。そういう形作られたもの、かたどられたもの。もう一つの意味は英語のシャドー、影です。だから神様と同じ形を神は人間に写された。現代風な言葉で言うとコピーされた。それが人間の性質なんです。人間と神様とは全く同形。ただ人間は被造物であり、有限性をもっており、例えば食べたり飲んだり排泄したり生殖ということがあったり、病気があったり、老化現象があったり死んだりするのが人間の特徴です。そうですね。神様はそんなことはありません。神様は永遠に生きておられるお方です。だから、その意味において、神は絶対で人間は相対です。神は永遠で人間は時間的存在です。神は無限で人間は有限です。そういう意味において人間と神様とは全く違うものなんだけれども、その形や性質は人間と神様とは全くよく似ているというんです。面白いですね。人間と神様とは、だから、親戚か親子か兄弟か、親子みたいなもんです。ただ、何度も申しますが、人は造られたものであり、被造物であり有限性をもったものです。どこが一番似ているのか。それは神の形、霊が似ているんです。イスラエル民族という民族の歴史をみたり、遺跡をどんなに細かく調べても世界の精神史上、甚大な影響を及ぼしたイスラエル民族のどの遺跡を調べてみても、住居跡を調べても神殿の跡を調べてみても、イスラエル人っていうのは一切神様を形で現すということをしていないんです。面白いですね。だから偶像とか仏像とか、とにかく神様を形で現すってことは一切ユダヤ人はしていないんです。面白いですね。他の宗教や民族は必ず神様を形で現しますね。仏像に刻んだり、獣の形を作ったり、怖い神様を作ったり、日本だったら弥勒菩薩のように優しい美しいきれいな美の表徴のようにそれを作り上げたり、何か形を作ります。だけどもイスラエル人は絵でも形でも絶対に神様をかたどるということをしなかったんです。だから厳密・厳格な正しいユダヤ人達は写真も嫌がるんですよ。写真も像ができるから。それが偶像になるといけないから。そう言ってユダヤ人もマホメット教徒も写真に撮られるのをもの凄く嫌がるんです。それは像というものを作ると、それを神のように祀る危険性が出るからだと言われています。人間は肉体の方からみると霊長類の中のサルによく似ています。しかし、その霊的な性質をみるとサルとは全く違う。神様に似ている。むしろ霊長類なんて名前を付けるよりは神人科っていうのを作ってですね、神様と人間を同じ科目に入れた方が本当は良かったのではないかと思うのですが。サルと人間を同じ科目に入れるのは、どうも問題が、不平を感じるところです。では神の形とは何かと言うと、一番大きな点は人格です。人格とはラテン語でペルソナと言うんです。それ自ら一つという意味なんです。それ自ら一つとはどういうことかと言うと、絶対に私は私という自意識を持っているということです。私は私なんです。絶対に私であって他の人ではない。妻でさえも子供でさえも私ではない。私なんです。その私という自意識、これが人間の人格の一番の中心です。だから、我、私はかく思う、考える、意識する、決断するっていうのは、みんな人格の一番大きな特徴です。それから私という人間はかけがえのないもの、他に絶対替えることができないものなんだということ。人間の価値というものは、かけがえがないというところにあるんですね。他の人でもいいんだったら価値がないんです。だから例えば、会社にお勤めに行って「お前なんか居なくたっていいや、いくらでも他に有能な社員がいるわ。」って言われたら、それは最も非人間的な扱いをされていることになります。そうですね。あなたでなければどうしてもダメなのだ、夫婦や親子はみんなそういう関係です。それを人格関係というんです。そういう人格関係がないと、これは利害関係ということになります。打算関係ということになります。ですから私達人間が人格的であるということは、その人だけが持っている固有の固さ、個性というのは人偏に固いという字を書きますが、個というのはそうですね。その人だけしか持っていない固有のものが個性なんです。その個性を持っているもの、かけがえのないものが人間です。そういう人間が人格を持っているということは、しかも、その強い個性が自由な意志を持っているというのが人間の特徴です。人間は自分で決断するんです。結婚するにしても、商売をするにしても、朝目が覚めたらどの着物を着ようかとか、どういうおかずを作ろうかとか、そのご飯を食べようか食べまいか、全部決断するのは私達人間です。自分です。自分の意志です。人に勧められても最後に自分が決断しなければ食べないですね、人間は。面白いですね。嫌と言ったら嫌です。それでも無理に食べたなら、食べようと最後には決断したから食べているのです。人間というのは全部自分の意志で決断する動物なんです。ですから、人を人格的に扱うということは、その人の決断を尊重するということです。その人の意志を尊重するということですね。そしてそのように神様は、人間を神様だけが持っている人格を人間に写して下さったんです。鼻から神様の霊を吹き込んで下さったので、人間は霊的な生き物となったのです。ゼカリヤ書の第十二章の第一節というところを見ると、人の中に霊を与えた神様、ということが書いてあります。人間は神様から霊を与えられたんです。だから人間の心の中には霊があるのでございます。従って創世記の第二章七節のところは、「主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられたので、人間は霊的な生き物になった。」と訳すべきです。ただ呼吸をする人間になったんじゃあないのです。霊の生き物になった、と訳すのが正しいのです。ですから人間は、何度もくどいようですが、人間は天の使いと同じように、言葉が言える、頭がいい、立って歩ける、目に鋭い光がある、とある人が言いましたが、人間が天使とよく似ているところはそれだけだ。ところが人間は動物とも似ている。例えば、食ったり飲んだり排泄したり、あるいは年をとったり病気をしたり、それから最後に死んだりするからだ。結婚して生殖作用というものがあるから。これは動物とよく似ている。ほんとにそうです。だから人間は動物的に生きることもできるし霊的に生きることもできる。体をもちながら霊的に生きようと思えば霊的に生きることができます。霊を持ちながらも霊のことはあまり考えないで、物質的に生きようと思えば動物と同じように生きることも人間にはできます。人間は両方に股を架けて存在している。神様にも似ているしサルにも似てるんです。そういう風に神様は人間をお造りになったのでございます。

 そこで前にもどこかでお話したと思いますが、テサロニケ人への第一の手紙の第五章というところを見ていただきたいと思います。そこに人間のことについてもっと詳しく書いてあります。新約聖書三二三頁です。その二三節。

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† どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

 これが聖書の人間観なんです。先ず人間の一番の中心は霊だと言っているんですね。何度も繰り返しになりますが、霊というものが、人には、人の心の中にはあるんです。これはスピリット(spirit)と英語で言います。この霊が人間にとって一番大事な、その人自身というのはこの霊の中にある。そしてそれは神様のものです。神が人間に与えて下さったものです。これが人間の中核です。中心です。その霊が心を着ています。霊と心と体。心を着ているのです。この心はハート(heart)というよりもソウル(soul)、魂(たましい)です。だからこれはコン(魂)とも言います。霊・魂・体と言うこともできます。これは魂なんです。その霊と心が更に肉体を着ているのです。これが最後、一番外側です。これは言うまでもなくボディーですね。人間はこういう具合にですね、これが体です。そしてこの体の中に鼻があったり口があったり目があったりしてですね、耳があったりするんです。体が一番外側でその中に心が宿っています。その心の一番中心には霊があるんです。霊・魂・体というのが聖書の人間の分け方であるということを、どうぞ覚えていただきたいと思います。 
  

図 : 聖書の人間観

 普通は心と体と言います。また、普通は精神と肉体とよく分けますね。この言い方が多く使われます。だけど、精神と呼ばれている、あるいは魂、両方で霊魂。霊に属するものと魂(コン)に属するものが、明らかに違うものがあるんです。何遍もお話しするんですが、体の中には何があるかと言いますと、一番下ですが、肉体的な機能が宿っています。食物の消化機能などです。それから本能の働きがあります。食べたい、眠りたい、結婚したいなど、色々なことがあります。知りたいなどの知識本能なども肉体的な本能で、この体の中に宿っています。それから特筆したいのは、同じ働きでも五感というものがあってですね、見る、聞く、味わう、触る、嗅ぐ、そうですね。これも肉体に属しているものです。体の中に属しています。それからソウル(魂)の中には知性と感情と意志があります。これは明らかに心の働きなんです。ソウルの働きなんです。これは体の働きなんです。心の中に知性があり、感情があり、意志があるのです。心の働きの中にマインド(mind)とハート(heart)とウィル(will)という、そういう働きがあります。そして、知性があるから人間は教育ということができるんですね。私が今話していることも、これは皆さんに知性がなければ絶対分かりません。どんなに話しても分からない。人間は教育ということをすることができるんですね。ただ体だけのことを言うならば、人間よりも丈夫な動物は一杯います。人間より長生きをする動物は一杯います。走っても何をしても人間より腕力も足の力の強い動物はいます。亀は人間より長生きをするそうです。像は人間より何十倍も大きいです。だけども人間には知性というものがあるので、その知性は絶対他の動物と違うんですね。こんなにして私が話をすることができ、それを聞いて納得していただくこともできます。感情の中には非常に美しい芸術などがありますが、これは感情の働きです。色の美しさや姿・形の美しさを人間は作り出したり鑑賞したりします。音の美しさ、音楽ですね。言葉の美しさと言ったら文学・文芸ですね。もの凄い、美しい美に対する深い感動というものが人間の中にはあるのです。こんなものは動物には絶対ないです。人間だけが美しいものに感動したりすることができます。そして美を創造することもできます。意志の働きの中に、これが自我、ここに自分、自我、己、我、エゴと言いますね。意志の働きです。自分でものを決めたりする自由意志というものはここに住んでいます。これらをひっくるめて心の働きなんです。ソウル(soul)の働きです。だから知性の豊かな人と一緒に生活すると楽しいですね。感情の豊かな人と一緒に生活すると深い喜びがありますね。感動がありますね。意志の強い人と一緒に生活すると、随分助けられたりすることができます。教えられたりすることができます。心というものは人間の生活に必要なんです。人間との交わりのために心が必要なんです。体はこれは動物の世界です。領域です。心は人間の領域です。ところが聖書をよく読んでみると分かりますが、霊の領域があるんです。その霊の領域というのは宗教性あるは道徳性あるいは悟性、感性と言ってもいい。理性と言っても結構です。これは実は単なる心の働きではなくて霊の働きなんです。だから頭がいいということと道徳的であることとは別ですね。知性が優れているということと、理性がちゃんとしているということとは別なんです。英語や数学などで抜群に頭がいい・・・


■録音空白部分■

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・・・ まあリースみたいに貸してくれたものです。強いて言えば。その霊が心を通して働くのです。霊だけでは働けないんですね。霊は心を通して働くのです。心は体を通して働くんですよ。私達の体はそうですね。かわいそうだなと思っていても、心で思っているだけではだめですね。ああ、かわいそうだなと思って体が出ていって助けてあげる。おいしいご馳走を作ってあげたいという愛の心があると、手が動いておいしいご馳走を作ることになるんです。心は体を通して生き、具体化する訳です。体は心の道具なんです。ところが、体の方に引きずられると、食べたい飲みたいなどと自分の本能的・肉体的な欲望が自分の心をゆがめていくんです。そして心の中に罪が入ると霊が死んでしまいます。死ぬというのが少し強かったら、眠るんだと私はいつも言っています。例えば良心の働きが鈍くなるでしょ。でも、働きが鈍くはなるけれども、良心の働きが無い人はいないんです。いないですね。全然良心の働きを感じないなんて人がいたら見せて欲しい。人間は誰でも良心の働きを持っているんです。それから人間は誰も、見るとか聞くとかいう以上の第五感、六感の存在があります。第六感なんていうのは明らかに感性の働きです。これはね、心よりもむしろ霊の働きです。だから極端に言えば、見るだけならこれは肉体の働きはレンズに過ぎない。聴音機に過ぎない。このマイクロフォンと耳は同じ性質です。だけれども、心がものを見、心がものを聞き、心が話をするんです。同じように本当は霊が心を使い、霊に依って生かされた心が体を使ったら、それは聖人の生活です。本当に宗教的な素晴らしい生活ができるんです。私を含め普通の人は、みんな体の方に引きずられて生きているんです。それが動物的な生き方ということです。霊的な生き方もできるし動物的な生き方もできるというのは、霊が目覚めて神様に近づくとですね、霊の方が活発になるんです。人間の魂は元々神様のものなのです。その霊が私固有の、私独特の心というものを与えられているんです。着ているんです。持っているんです。そして私は植竹利侑という人格なんです。私という性格、性質が生まれてきます。背が高いとか低いとかの体の性質もありますが、その人の本質は矢張り心の領域です。その心が、霊が生きていると素晴らしい心になれるし、霊が眠っていると、まあ私程度のことになっちゃう訳です。霊が生きているということは素晴らしいことです。人間は誰でも神様から霊を与えられているんです。そして、その霊は何よりもですね、するどく知性ではなく、もっと深い感性の領域で、非常にね、何かをわきまえるんです。本当に知らなくてはならないことが何であるかとか、一番大事なものが何であるかとか、人生において一番貴重なものは何かとかね、他のものを何を犠牲にしてもこれだけは大事にしなくちゃあいけないとか、ってことを悟るのは感性の働きです。そうですね。何が良くて何が悪いかということをピっと判断するのは、これは道徳性、理性の働きです。良心の働きと言った方がいいかも知れません。

 感性の働き、良心の働き。と同時にですね、一番大事なことは人間には宗教性、神への想いというものが必ずあります。肉体的な欲望とか渇きとかいうものは、水を飲んだりおいしいものを食べたり、あるいは結婚したりなんかすれば本能的なものは満足させることができます。あるいは人によっては映画を観たり、きれいな詩を読んだり、音楽を鑑賞したりして心の満足をすることができます。しかし、人間は霊の満足は、魂を造ってくれた神様に触れないと満足できないようにできているんです、本当は。「全てこの水を飲む者は、また渇く」というのはそういうことですね。私が与える水を飲む者は、というのは霊が神様によって満足することは、満足すればということなんです。だからその霊が人間にはありますので、どんなに不信心な人でも悪党でも、霊の働き、すなわち宗教的な働きを全然持っていない人は一人もいません。三〇才になってもまだ神様のことを一つも考えたことがない人がいたら、その人は馬鹿です。馬鹿ではなく、人間ではなくサルです。四〇才になっても、まだ永遠のことを、神様のことも、魂のことも一度も考えたことのない人がいたら、そういう人は特別な人間としてカプセルの中へしまってですね、博物館へでも置いた方がいいです。絶対いないんです、人は。人間である以上は、必ず神を想うことがあるんです。神は人の心の中に永遠を想う心をお授けになった、と書いてあります。聖書がそう言っています。神が無いと言う者は愚かな者であると言っています。愚かな者は心の内に神無しと言う、と詩篇の記者がうたっています。神様が有るとか無いとかと言うことは霊的なことですから、いわゆる心や体の世界のことではないのですね。だから神様は目で見えたりはしません。目に見えるという意味においては神様は無いのと同じです。しかし神は霊ですから、人間の霊は神様を想うことができ、悟ることができ、信じることができるように人は造られているんです。だから神様のことを全然想わないってことは、ないんです。人には霊があるから、人は遅かれ早かれ必ず神のことを想う時があります。だから私は、今その人が無神論者でも結構です。今信仰心がないからといって、その人を駄目だと言っちゃあいけないんです。来年は持つかも知れないんです。一ヶ月の内には俄然アア神様、と言うかも分からないのです。そう言うように出来てるんです。造られているんです。ただ霊が眠っているとか、肉体的な関心ばかりとか、若い頃のように社会的な仕事に全精力を注ぐ時期があるとか、人間には段階がある訳です。だけども、全然こういうことに目覚めることがないかって言ったら、無いとは断言できません。人間であれば誰でも可能性があります。だからスターリン時代の秘密警察長官であったベリヤという人がいますが、この人は死ぬ時には、死刑が確定した時はクリスチャンになったそうです。また、ニキタ・フルシチョフというソ連の首相ですね、あの人は死ぬ時には洗礼を受けて死んだそうです。バプテスト教会で洗礼を受けて、魂の救いを確信して死んだそうです。進化論を書いたダーウィンがですね、これは有名な話ですが、自分はよく確かめもしないで聖書にわざと逆らうような進化論を書いてしまって本当に悪かったと言って、本当に悔い改めて死んだそうですね。死んだ時、自分の財産は英国聖書教会に全部寄贈したと言われている。人間はどんな無神論者でも、どんな非宗教的な人でも、何時、俄然魂が、霊が開けるとですね、神様を信じることができるように造られています。いつか霊的なものに目覚める時があります。しかし、水子地蔵さんなんかで目覚めた霊なんてたかが知れてるんです、本当のところを言うとね。そうじゃないです。本当に生ける真の神様の霊によって目が覚めたら、その人は本当に永遠のことが分かる、神様のことが分かる。神様のことが分かると、宗教的に目覚めると、良心の働きがパチっと目が覚める。そしてですね、今まで感じることのできなかった事をピっと感じるようになります。感性の働きも鋭くなってきます。そうすると知性も活発になり感情も豊かになり、そして意志も強くなり誘惑に負けないようになりますしね、神様のことが分かるから喜怒哀楽の怒と哀の方ばかりだったのが、霊が生きると喜びや感謝や希望という大変美しい感情が働き始めます。そして今まで分からなかったことが分かるようになってきますね。しかも体まで元気になってきます。本当に神様を信じたら体まで元気になるのが当たり前です。人は必ず霊の満足を求めて神様を求める時があるのですね。人間には霊があるから、くどいようですが今無神論者でも結構です。その人を馬鹿にしゃちゃあいけない。裁いちゃあいけないです。どんな人でも、今がどんなに惨めな状態でも、人間はお金があるとか無いとか、失業中であるとか、そんなことは外側のまた外側のまた外側のことなんです。ほんと言うと。体だけでも随分外側ですが、聖書は「内なる人を強くして下さい」、とパウロは祈っています。内なる人とは霊のことです。外なる人とは心のことです。もっと一番外なる人が体です。そのまだ外なる人が身分とか地位とか名誉とか財産とかを指し、これは一番外の話です。人間にとって一番大事なのは、その人の霊が神様によって目覚めているかどうかということなのでございます。

 そこで最後に申し上げたいのです。こんなに素晴らしい人間がどうして自然の産物だと思いますか。どうして自然のサルから進化した程度のものと思うのでしょうか。そうじゃないです。こんなに素晴らしい人格や自由意志や霊というものは、神様が特別に造ってくれたからあるんです、できたのです。スペシャルなんです、人間は。本当に人間はサル一万匹より人間一人の方が素晴らしいでしょ。人間の心の働き、霊の働き、魂の働き。それは実に素晴らしい豊かな強いものを持っています。だから、物からできたものは、どこまでいっても物です。しかし人間は物ではなく者です。人格を持った人格者である神が、ご自分の人格を人々に分け与えてくれた、と聖書は言っています。私はその方が正しいようにどうしても思うんですね。だから人間は神様と対応できるような人となったのです。もう一度申しますが、肉体は動物の領域、心は人間の領域、霊は神の領域です。人は肉体を持っていても、霊的に生きようと思えば霊的に生きることができます。霊を持っていても霊を殺してしまって無視して、肉体的、動物的に生きる人もいます。どちらも人間には可能性があります。そういう風に人間は造られています。だから一番大事なことは霊を開発することです。肉体も頭も訓練が必要です。同じように魂を訓練すること開発することが一番大事なことです。人間の教育の中で一番大事なことは学校教育じゃないです。実は家庭における宗教教育ということです。小さな子供は本当に純粋に神様が分かるように造られていますから、小さな時に子供に神様を教えることに失敗すると非常に難しくなりますね。だから一番大事なのは霊の教育だということが分かります。

 時間がまいりましたので、本日はこれでお話を終えさせていただきます。

■録音終了■
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