図 : 聖書の人間観
普通は心と体と言います。また、普通は精神と肉体とよく分けますね。この言い方が多く使われます。だけど、精神と呼ばれている、あるいは魂、両方で霊魂。霊に属するものと魂(コン)に属するものが、明らかに違うものがあるんです。何遍もお話しするんですが、体の中には何があるかと言いますと、一番下ですが、肉体的な機能が宿っています。食物の消化機能などです。それから本能の働きがあります。食べたい、眠りたい、結婚したいなど、色々なことがあります。知りたいなどの知識本能なども肉体的な本能で、この体の中に宿っています。それから特筆したいのは、同じ働きでも五感というものがあってですね、見る、聞く、味わう、触る、嗅ぐ、そうですね。これも肉体に属しているものです。体の中に属しています。それからソウル(魂)の中には知性と感情と意志があります。これは明らかに心の働きなんです。ソウルの働きなんです。これは体の働きなんです。心の中に知性があり、感情があり、意志があるのです。心の働きの中にマインド(mind)とハート(heart)とウィル(will)という、そういう働きがあります。そして、知性があるから人間は教育ということができるんですね。私が今話していることも、これは皆さんに知性がなければ絶対分かりません。どんなに話しても分からない。人間は教育ということをすることができるんですね。ただ体だけのことを言うならば、人間よりも丈夫な動物は一杯います。人間より長生きをする動物は一杯います。走っても何をしても人間より腕力も足の力の強い動物はいます。亀は人間より長生きをするそうです。像は人間より何十倍も大きいです。だけども人間には知性というものがあるので、その知性は絶対他の動物と違うんですね。こんなにして私が話をすることができ、それを聞いて納得していただくこともできます。感情の中には非常に美しい芸術などがありますが、これは感情の働きです。色の美しさや姿・形の美しさを人間は作り出したり鑑賞したりします。音の美しさ、音楽ですね。言葉の美しさと言ったら文学・文芸ですね。もの凄い、美しい美に対する深い感動というものが人間の中にはあるのです。こんなものは動物には絶対ないです。人間だけが美しいものに感動したりすることができます。そして美を創造することもできます。意志の働きの中に、これが自我、ここに自分、自我、己、我、エゴと言いますね。意志の働きです。自分でものを決めたりする自由意志というものはここに住んでいます。これらをひっくるめて心の働きなんです。ソウル(soul)の働きです。だから知性の豊かな人と一緒に生活すると楽しいですね。感情の豊かな人と一緒に生活すると深い喜びがありますね。感動がありますね。意志の強い人と一緒に生活すると、随分助けられたりすることができます。教えられたりすることができます。心というものは人間の生活に必要なんです。人間との交わりのために心が必要なんです。体はこれは動物の世界です。領域です。心は人間の領域です。ところが聖書をよく読んでみると分かりますが、霊の領域があるんです。その霊の領域というのは宗教性あるは道徳性あるいは悟性、感性と言ってもいい。理性と言っても結構です。これは実は単なる心の働きではなくて霊の働きなんです。だから頭がいいということと道徳的であることとは別ですね。知性が優れているということと、理性がちゃんとしているということとは別なんです。英語や数学などで抜群に頭がいい・・・
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・・・ まあリースみたいに貸してくれたものです。強いて言えば。その霊が心を通して働くのです。霊だけでは働けないんですね。霊は心を通して働くのです。心は体を通して働くんですよ。私達の体はそうですね。かわいそうだなと思っていても、心で思っているだけではだめですね。ああ、かわいそうだなと思って体が出ていって助けてあげる。おいしいご馳走を作ってあげたいという愛の心があると、手が動いておいしいご馳走を作ることになるんです。心は体を通して生き、具体化する訳です。体は心の道具なんです。ところが、体の方に引きずられると、食べたい飲みたいなどと自分の本能的・肉体的な欲望が自分の心をゆがめていくんです。そして心の中に罪が入ると霊が死んでしまいます。死ぬというのが少し強かったら、眠るんだと私はいつも言っています。例えば良心の働きが鈍くなるでしょ。でも、働きが鈍くはなるけれども、良心の働きが無い人はいないんです。いないですね。全然良心の働きを感じないなんて人がいたら見せて欲しい。人間は誰でも良心の働きを持っているんです。それから人間は誰も、見るとか聞くとかいう以上の第五感、六感の存在があります。第六感なんていうのは明らかに感性の働きです。これはね、心よりもむしろ霊の働きです。だから極端に言えば、見るだけならこれは肉体の働きはレンズに過ぎない。聴音機に過ぎない。このマイクロフォンと耳は同じ性質です。だけれども、心がものを見、心がものを聞き、心が話をするんです。同じように本当は霊が心を使い、霊に依って生かされた心が体を使ったら、それは聖人の生活です。本当に宗教的な素晴らしい生活ができるんです。私を含め普通の人は、みんな体の方に引きずられて生きているんです。それが動物的な生き方ということです。霊的な生き方もできるし動物的な生き方もできるというのは、霊が目覚めて神様に近づくとですね、霊の方が活発になるんです。人間の魂は元々神様のものなのです。その霊が私固有の、私独特の心というものを与えられているんです。着ているんです。持っているんです。そして私は植竹利侑という人格なんです。私という性格、性質が生まれてきます。背が高いとか低いとかの体の性質もありますが、その人の本質は矢張り心の領域です。その心が、霊が生きていると素晴らしい心になれるし、霊が眠っていると、まあ私程度のことになっちゃう訳です。霊が生きているということは素晴らしいことです。人間は誰でも神様から霊を与えられているんです。そして、その霊は何よりもですね、するどく知性ではなく、もっと深い感性の領域で、非常にね、何かをわきまえるんです。本当に知らなくてはならないことが何であるかとか、一番大事なものが何であるかとか、人生において一番貴重なものは何かとかね、他のものを何を犠牲にしてもこれだけは大事にしなくちゃあいけないとか、ってことを悟るのは感性の働きです。そうですね。何が良くて何が悪いかということをピっと判断するのは、これは道徳性、理性の働きです。良心の働きと言った方がいいかも知れません。
感性の働き、良心の働き。と同時にですね、一番大事なことは人間には宗教性、神への想いというものが必ずあります。肉体的な欲望とか渇きとかいうものは、水を飲んだりおいしいものを食べたり、あるいは結婚したりなんかすれば本能的なものは満足させることができます。あるいは人によっては映画を観たり、きれいな詩を読んだり、音楽を鑑賞したりして心の満足をすることができます。しかし、人間は霊の満足は、魂を造ってくれた神様に触れないと満足できないようにできているんです、本当は。「全てこの水を飲む者は、また渇く」というのはそういうことですね。私が与える水を飲む者は、というのは霊が神様によって満足することは、満足すればということなんです。だからその霊が人間にはありますので、どんなに不信心な人でも悪党でも、霊の働き、すなわち宗教的な働きを全然持っていない人は一人もいません。三〇才になってもまだ神様のことを一つも考えたことがない人がいたら、その人は馬鹿です。馬鹿ではなく、人間ではなくサルです。四〇才になっても、まだ永遠のことを、神様のことも、魂のことも一度も考えたことのない人がいたら、そういう人は特別な人間としてカプセルの中へしまってですね、博物館へでも置いた方がいいです。絶対いないんです、人は。人間である以上は、必ず神を想うことがあるんです。神は人の心の中に永遠を想う心をお授けになった、と書いてあります。聖書がそう言っています。神が無いと言う者は愚かな者であると言っています。愚かな者は心の内に神無しと言う、と詩篇の記者がうたっています。神様が有るとか無いとかと言うことは霊的なことですから、いわゆる心や体の世界のことではないのですね。だから神様は目で見えたりはしません。目に見えるという意味においては神様は無いのと同じです。しかし神は霊ですから、人間の霊は神様を想うことができ、悟ることができ、信じることができるように人は造られているんです。だから神様のことを全然想わないってことは、ないんです。人には霊があるから、人は遅かれ早かれ必ず神のことを想う時があります。だから私は、今その人が無神論者でも結構です。今信仰心がないからといって、その人を駄目だと言っちゃあいけないんです。来年は持つかも知れないんです。一ヶ月の内には俄然アア神様、と言うかも分からないのです。そう言うように出来てるんです。造られているんです。ただ霊が眠っているとか、肉体的な関心ばかりとか、若い頃のように社会的な仕事に全精力を注ぐ時期があるとか、人間には段階がある訳です。だけども、全然こういうことに目覚めることがないかって言ったら、無いとは断言できません。人間であれば誰でも可能性があります。だからスターリン時代の秘密警察長官であったベリヤという人がいますが、この人は死ぬ時には、死刑が確定した時はクリスチャンになったそうです。また、ニキタ・フルシチョフというソ連の首相ですね、あの人は死ぬ時には洗礼を受けて死んだそうです。バプテスト教会で洗礼を受けて、魂の救いを確信して死んだそうです。進化論を書いたダーウィンがですね、これは有名な話ですが、自分はよく確かめもしないで聖書にわざと逆らうような進化論を書いてしまって本当に悪かったと言って、本当に悔い改めて死んだそうですね。死んだ時、自分の財産は英国聖書教会に全部寄贈したと言われている。人間はどんな無神論者でも、どんな非宗教的な人でも、何時、俄然魂が、霊が開けるとですね、神様を信じることができるように造られています。いつか霊的なものに目覚める時があります。しかし、水子地蔵さんなんかで目覚めた霊なんてたかが知れてるんです、本当のところを言うとね。そうじゃないです。本当に生ける真の神様の霊によって目が覚めたら、その人は本当に永遠のことが分かる、神様のことが分かる。神様のことが分かると、宗教的に目覚めると、良心の働きがパチっと目が覚める。そしてですね、今まで感じることのできなかった事をピっと感じるようになります。感性の働きも鋭くなってきます。そうすると知性も活発になり感情も豊かになり、そして意志も強くなり誘惑に負けないようになりますしね、神様のことが分かるから喜怒哀楽の怒と哀の方ばかりだったのが、霊が生きると喜びや感謝や希望という大変美しい感情が働き始めます。そして今まで分からなかったことが分かるようになってきますね。しかも体まで元気になってきます。本当に神様を信じたら体まで元気になるのが当たり前です。人は必ず霊の満足を求めて神様を求める時があるのですね。人間には霊があるから、くどいようですが今無神論者でも結構です。その人を馬鹿にしゃちゃあいけない。裁いちゃあいけないです。どんな人でも、今がどんなに惨めな状態でも、人間はお金があるとか無いとか、失業中であるとか、そんなことは外側のまた外側のまた外側のことなんです。ほんと言うと。体だけでも随分外側ですが、聖書は「内なる人を強くして下さい」、とパウロは祈っています。内なる人とは霊のことです。外なる人とは心のことです。もっと一番外なる人が体です。そのまだ外なる人が身分とか地位とか名誉とか財産とかを指し、これは一番外の話です。人間にとって一番大事なのは、その人の霊が神様によって目覚めているかどうかということなのでございます。
そこで最後に申し上げたいのです。こんなに素晴らしい人間がどうして自然の産物だと思いますか。どうして自然のサルから進化した程度のものと思うのでしょうか。そうじゃないです。こんなに素晴らしい人格や自由意志や霊というものは、神様が特別に造ってくれたからあるんです、できたのです。スペシャルなんです、人間は。本当に人間はサル一万匹より人間一人の方が素晴らしいでしょ。人間の心の働き、霊の働き、魂の働き。それは実に素晴らしい豊かな強いものを持っています。だから、物からできたものは、どこまでいっても物です。しかし人間は物ではなく者です。人格を持った人格者である神が、ご自分の人格を人々に分け与えてくれた、と聖書は言っています。私はその方が正しいようにどうしても思うんですね。だから人間は神様と対応できるような人となったのです。もう一度申しますが、肉体は動物の領域、心は人間の領域、霊は神の領域です。人は肉体を持っていても、霊的に生きようと思えば霊的に生きることができます。霊を持っていても霊を殺してしまって無視して、肉体的、動物的に生きる人もいます。どちらも人間には可能性があります。そういう風に人間は造られています。だから一番大事なことは霊を開発することです。肉体も頭も訓練が必要です。同じように魂を訓練すること開発することが一番大事なことです。人間の教育の中で一番大事なことは学校教育じゃないです。実は家庭における宗教教育ということです。小さな子供は本当に純粋に神様が分かるように造られていますから、小さな時に子供に神様を教えることに失敗すると非常に難しくなりますね。だから一番大事なのは霊の教育だということが分かります。
時間がまいりましたので、本日はこれでお話を終えさせていただきます。
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