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広島キリスト教会  〒734-0042 広島市南区北大河町39-1 TEL : 082-285-6006  FAX : 082-285-4043

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■入門講座H ■ 「人はどこまで救われるか」 植竹利侑牧師

●説教音声はここをクリック →  [Time 61:19]



 今日は「人はどこまで救われるか」という主題で、ご一緒に学ばせていただきたいと思っております。

 人間はどこまで救われるのか。例えば救いといっても、色々な救いがあると思います。一番簡単にいえば、病気の人が救われるといえばお医者さんが救ってくれます。経済的に困っている時に友人がお金を貸してくれたと言ったら、それは経済的な救いだと思います。あるいは、精神的に悩んでいる時に誰かがアドバイスしてくれて、それにより非常に力づけられたといったら、それは精神的な救いです。あるいはまた、国家が、民族が、その敵から救われたといったら、それも確かに救いであるかも知れません。

 ところが聖書の救いは、人間を罪と死から救うことにあります。今日は救いということについていくつかお話していきますが、聖書には先ず一番最初に、大きな意味での救いについて、一般的なことが書いてあります。第二番目はきよめということが書いてあります。第三番目は神癒という神の癒しがあります。最後の第四番目に再臨があります。これらを普通、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」といい、人間が救われることを四つの段階に分けて書いてあるんです。これらを私達クリスチャンの世界では四重(しじゅう)の福音といって、聖書の救い(福音)は、ただ救われるだけではなくて、このように私達を徹底的に救ってくれる四重の福音なのだと一般的に言われております。ですから、私共がイエス・キリストを信じて救われるといっても、実はその救いの中にはこういう色々な段階があるということを知っていただけると幸いです。

 図 : 人はどこまで救われるか

 先ず最初に救いということについて、第一段階目の救いのことからお話致します。よく私達クリスチャンは、救われた、救われたと言いますね。救いの具体的な内容は、先ず罪がゆるされるということです。罪のゆるしです。ある家庭集会での話です。あるご婦人が自分は心の中に罪の意識を持ってしまってどうすることもできなかった、誰かその罪をゆるしてくれる人がいないだろうかといつも心の中で願っていた、と話しておられました。その人はお地蔵様や様々な宗教を訪ねました。どういうことかといいますと、子供を人工流産でおろしたり、先夫の子供を連れて次々と結婚したのです。自分はそうやって誰かに頼らなければ生きていけないから、次々と結婚していったけれども、子供達はみんな不幸になっていったのだそうです。なさぬ仲というんでしょうか、そういうことで今自分には不幸な子供がいる。その子供のことを考えると、自分の心が責められて責められてどうすることもできなかった。その時に、ある教会員がその奥さんにゆるしのことを話して下さった。その人から神様はゆるして下さるんだと聞かされた。その話を聞いてこの奥さんは飛びつくようにして教会にいらっしゃった。誰にお詫びしていいのか、誰がゆるしてくれるのか、誰が私の心に安心や平安を与えてくれるのか分からなかったそうです。被害者がはっきり分かっていれば、その被害者の所へ行って、悪いことをしましたと詫びを入れ、その人が許してくれれば、許されたと安心感を持つことができるかも知れません。しかし、その場合、その人が死んでしまったら誰にお詫びすればいいでしょうか。あるいは、私がもし人殺しをしてしまったら誰にお詫びをすれば良いのでしょう。死んだ人にはお詫びのしようさえもありません。このご婦人は、ゆるしということを渇望していたんだということを話しておられました。

 ところで聖書を読んでみますと、キリスト教の最大の特徴は罪のゆるしということです。良心はその咎めを去って、心からゆるしを確信することができるんです。イエス・キリストの生涯の中で一番顕著なことは、罪をゆるしたということです。イエス・キリストは出会った全ての人に対して、あなたの罪はゆるされた、安心しなさい、そう言ってらっしゃる。あの罪深い女性に対しても、ヨハネ福音書の第八章を見ると、姦淫の現行犯で捕まった女に対し、当時の宗教家達がイエスに石打の刑の是非を問うというこころみの場面があります。その時イエスは、わざと答えないで地面に字を書いておられた。もしイエスが女をゆるせと言ったら、当時の律法であるモーセの律法を自ら犯す人だと言ってイエスを訴えよう、もし罰せよと言ったら、お前は愛とか救いを説きながら我々と違わないペテン師ではないかと言って、何れの場合にもイエスを陥れるために宗教家達が画策したことが書かれています。その時イエスは黙って地面に字を書いておられた。それを見た当時の人達は勢いづいて、流石のイエスも行き詰まったに違いない、いよいよ罠に落ち込んだと思ってイエスに返答を催促すると、イエスは一言おっしゃった。有名な言葉です。あなたがたの内の罪のない者が先ず石を投げなさい、と。すると当時の人々は誰一人として自分に罪が無いとは思えなかった。みんな人間である以上、少なくとも心の中で罪を犯します。だから、みんなその場を逃げ去ってしまって、イエスと女だけが残ったと書いてあります。その時イエスがおっしゃった言葉は、あなたを罪する者はどこへ行ったのか、いないのか、私もあなたを罪しない、安心して行きなさい、そう言ってこの女性をゆるして帰してあげたという記事が書いてあります。その他、イエス様の生涯の中で中風の人が担ぎ込まれてくると、その男を見るやいなや、あなたの罪はゆるされた、安心しなさい、と言っています。イエスの生涯の最も大きな特徴の一つは人の罪をゆるすということでございます。ヨハネの第一の手紙の第一章の八節から十節を読んでみます。これは最も有名なところです。三七六頁です。

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† もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言(ことば)はわたしたちのうちにない。

 もし罪がないと言うなら、その人は偉い人ですね、と書いてあります。もし罪があると言うならば、そいつはとんでもない悪い奴だ、とは書いてないんです。そうじゃあないです。もし罪がないと言うならば、それはうそつきなんです。何故なら、罪のない人は一人もいないからです。それでもなお私は罪がないと言い張るならば、第十節に、それは神を偽り者とするのであって、神の言葉はその人の中にない、と書いてある。罪がないなんて人は一人もいないんです。だから本当に自分の罪を認めて告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その人の罪をゆるして、きよめて下さると約束されています。

 更に第二章の一節です。

† わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちの助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

 私達が信仰を持つということは、もう罪を犯さないようになるんだ、だが、それでも人間は弱いから罪を犯すことがあるだろう、しかし、もし罪を犯すことがあれば、罪を犯す者がいれば、父のもとには私達の為に助け主、即ち、義なるイエス・キリストがおられるのだ。

 二節。

† 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

 十二節。

† 子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。

 こういう所を引用したらきりがありませんが、イザヤ書の第一章十八節、九四三頁です。先日引用した部分です。

† 主は言われる。さあ、われわれは互いに論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

 緋とは何遍も真っ赤に染めて燃える炎のように赤い色のことです。聖書のこの部分は、神様の愛が私達人間の罪に対して挑戦される、ということだと言われています。

 あるいは、もう一箇所。エレミヤ書の第三一章三四節、一一〇〇頁です。

† 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、「あなたは主を知りなさい」とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。

 ゆるすということは、忘れるということ、もう二度とあなたの罪のことを私は忘れる、思い出さない、とこう言ってらっしゃる。よく申し上げるように、ゆるされるということは、忘れてくれるということです。ゆるしてはやるけれども、忘れるな、なんて言われたら、ゆるされたことにはなりません。神様は最早あなたの罪のことは思い出しもしない、と言っておられるのです。それ程に神による罪のゆるしは徹底したものだと聖書は言っているのです。

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 救われるということの第二番目です。それは義とされるということです。義と認められるということから義認とか、義と称えられるということから称義と呼ばれています。これらはすくいの一つの面です。罪がゆるされるというのは、罪があるにもかかわらず恵みによってゆるして下さったということ。義とされるということは、これは唯単にゆるされただけではなくて、本当に正しい者と見てくれるということなんです。疑わしいけれどもゆるすというのではなく、これは完全に無罪とされるということです。罪のない、正しい者と見てくれるということです。だから義とされるということは、先程申し上げたゆるし以上のものです。裁判そのものがなくなってしまう。起訴されていたこと自体が間違いであって、有罪ではない、全く無罪の正しい者だと、神様の方が私達に罪のないことを宣言して下さるということなんです。何故かと言いますと、先々週お話したように、キリストが私達の罪の為に全部の罪を飲み干して下さったから、全部をキリストが受けて下さったから、条件をことごとくイエス・キリストが成就して下さったから、キリストが私達の身代わりとなって下さったからです。だからもう義の要求は全部をキリストが満たして下さったので、私達は義なる者と見なされる、認められる、そして宣言して下さったのです。最早無罪ではなくて、そもそも初めから罪などなかった者のように取り扱って下さる。義の宣言をして下さるということです。これはローマ人への手紙の第三章に非常に詳しく書いてあります。二一節から二七節です。二三六頁。

† しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光をうけられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。

 二八節。これは一つの定義です。

† わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは(植竹・救われるのは)、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

 第四章三節。

† なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

 神に義と認められた最初の人がアブラハムです。この人は正しい行いや立派な行いをしたからではなく、本当に自分を救って下さる神様を信じた時に義とされたと書いてあります。だから救われるということの第二番目は義とされるということです。義とされるという言葉は、私達にはあまりなじみのない表現でイメージが難しいかも知れません。無罪の宣告を受けること、と思っていただければ結構です。

 第三番目には、新しく生まれるということです。新生。新しく生まれ変わるということ。私達クリスチャンは誕生日を二つ持っているのです。私の場合は、所謂生年月日と昭和二二年二月一三日という忘れることができない日を持っています。私はその日、イエス・キリストを自分の救い主として信じます、とはっきりと悔い改めて信じたという特別な日でした。しかもそれは、私が教会に通い初めてまだほんの数日のことでした。それでもそういった宗教的に新しく生まれ変わる、過去の罪が全部ゆるされるという経験をした訳です。ここには二つ側面があります。即ち、過去の罪が全てゆるされるという過去に関したことと、義とされて新しく生まれ変わるという現在に関係した部分です。その経験は新しく生まれたとしか表現のしようがないような心の変化がはっきりとありました。信じます、と言った時、ああ、私は今救われたんだ、新しい命が私の中に始まったんだ、そういう経験をしました。この入門講座の第三講で人間の罪についてお話しましたが、アダムが罪を犯したために人間は霊的に死んだ者になった。それは霊的に死んだだけではなくて、肉体もやがて死んでしまいます。先ず霊的に死んで、肉体が死んで、最後に永遠の死を経験しなければならなくなったとお話しました。そのように私が肉的に生まれてきたと同じように、霊的に生まれ変わると、今度は永遠の命に生まれ変わっていきます。その一番最初の経験が新生という経験なんです。これはエペソ人への手紙の第二章一節から六節、三〇二頁をご覧下さい。

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† さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生まれながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし --- あなたがたの救われたのは、恵みによるのである --- キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

 まあ随分くどいことを書いていますが、あなたがたは先には罪の中に死んでいた者であった、とパウロは言ってるんです。イエス様もまた、死んでいた者が神の声を聞く時が来ると言っています。パウロは、眠れる者よ死人の内より起きあがれ、さらば、キリスト、汝らを照らし賜わん、と言っています。それは自分が救われてみるとよく分かるんですが、信仰を持っていなかった時の生活は丁度死んでいたようなものであった。本当に魂が死んでいたとしか言いようがない状態です。死んじゃあいない、確かに生きてはいるんです。生きてはいるんだけれども、生きているのは体や心だけで、霊が死んでしまっている。神様のことも、永遠のことも、魂のこともさっぱり分からない。何にも分からない。霊的には死んだような状態であったとしか思えない。そういうような状態に生きていたことが分かります。パウロはローマ人への手紙の第五章で、一人のアダムが罪を犯したことによって罪と死が全人類に入り込んだように、一人のイエス・キリストによって命と救いが全人類にもたらされたんだと言っています。コロサイ人への手紙の第二章十二節から十三節、三一六頁をご覧下さい。

† あなたがたはバプテスマを受けてかれと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。

 ここに罪の中に死んでいた私達をゆるして下さって、新しく生かして下さったというふうなことが書いてあります。一番良い例は、ヨハネ福音書の第三章にあります。イエス様の所へ一人の老人が訪ねて来たんです。ニコデモというおじいさんです。イエス様と話をした時にイエス様はおっしゃった。人は新たに生まれ変わらなければ、人は神の国、天国へは絶対に行けない、見ることもできませんよ、と言っています。するとニコデモはびっくりして、どうしたら今から生まれ変わることができるでしょうか、母の体内に戻ることができるでしょうか、と尋ねています。イエスは何と言ったでしょうか。例えあなたが再度お母さんの体内に戻り生まれ変わったとしても、肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である、風はおのが好むところに吹く・・・なんてイエスはニコデモという人に話していらっしゃいます。すなわち、肉から生まれるというのは肉の誕生です。体が生まれることで、所謂誕生です。百遍生まれ変わっても、肉が生まれ変わったものは死ななければならない命です。しかし、霊で生まれ変わる、霊の誕生のことをイエスは言ってらっしゃる。その事はイエスもパウロもペテロもみんな説教しています。

 そして生まれ変わったらどうなるか。コリント人への第二の手紙の第五章十七節、二八三頁をお開き下さい。

† だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。

 とにかく、救われたら、生まれ変わった(新生)という言葉より他に表現のしようがないほど、心が変わるんです。本当に変わるんです。人がキリストにあるならば新たに造られた、つまり新創造だと言っています。誰でも人間は生まれ変わることができたら幸せだと思います。今までの自分の悪い癖とか過去の経験とか、嫌な思い出とか、色んなものが一杯あり、それらから断ち切れたらどんなに愉快でしょうか。でも、それは決して不可能ではなくて、人がキリストにあるならば、新たに造られたものである、古きは既に過ぎ去った、見よ、全てが新しくなった、と聖書は言っています。新しいというと正月を思い出しますが、お正月の新しさなどは全く観念的なものであって、何の足しにもなりません。直ぐ古くなります。子供が新鮮で新しいのも、あるいは娘さんが新鮮で美しいのも頼りになりません。直ぐに年齢を重ねてしまいます。しかし、魂の新鮮さというものは、これを経験すると、いよいよ新しくなります。そのことがコリント人への第二の手紙の第四章十六節から十八節にあります。二八二頁です。

† だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

 パウロはここで大見得を切っています。外なる人は滅びても内なる人は日毎に新しくされていくなんて、ほんとにパウロは歌舞伎の役者のように大見得を切っているところです。そうです。新しく生まれる生命とはそういうものです。外なる人(体)は古びても、内なる人(精神・魂)はいよいよ新しくなる、と言っても言い過ぎではないような宗教的な経験をすることができます。

 救われるということの第四番目です。 ・・・


■録音空白部分■


・・・ 神の子であると私は信じています。だから心臓が強いといえば強いですね。どんな上流階級でも、天皇陛下に対しても私は平気で話ができると思うんです。天皇陛下の前に出ると社会党や共産党の議員でも自然と頭が下がるそうですが、頭ぐらい下げてもいいかも知れませんが、ビクビクすることはありません。少し傲慢な言い方かも知れませんが、我々は天の貴族であって、それこそどんなに低く弱い人達、山谷や釜崎の中に入ってもちっとも違和感を感じないかわりに、どんなにハイ・ソサエティーに入って行っても違和感を感じる必要はない。何故なら、私達は神の子だからです。私達の身分は神の子です。嘗てはどうかと言うと、あなた方は嘗ては罪の中に死んでいた者であって、生まれながら怒りの子であった、とパウロは言っています。怒りの子とは腹立ちやすい子の意味ではなく、神の怒りのもとにある子供という意味です。あるいは罪の中に死んでいた者であるとか、あるいは、あなたがたは罪の子であるとか、色々な言い方が聖書に出てきます。滅びの子であると書いてあるところもあります。そういう私達が身分上の大変換をして、浮浪者ではなくて神の子供になります。浮浪児というのは、その人の存在に対して責任を持ってくれる者がいないということです。私は終戦直後の東京での浮浪児の悲惨な状態を思い出します。養育されるべき時に、それを根底から支えてくれる親がいないということは本当に不幸なことですね。もし私達が造り主である神様を信じていなければ、知っていなければ、精神的には孤児です。あの孤児の特徴である、不安、恐れ、ひがみ、疑い、盗み、怒りなど、あらゆる罪に捕らわれる。それは当然なんです。自分の魂が安息していないからです。本当に帰るべき所へ帰っていない、休むべき所で休んでいない、満たされるべきものが満たされていない、そういう状態は精神的な孤児です。もし私達がイエス・キリストに対する信仰の告白を致しますと、私達は本当に神の子になったという確信が与えられます。先程読みましたヨハネの第一の手紙の第三章一節、三七八頁をご覧下さい。

† わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ、わたしたちは今や神の子である。

 ヨハネはそう言っています。見よ、父の我に賜いし愛の如何に大いなるかを、我ら神の子ととなえられる、と。こちらの訳が良いですね。見よ、というのは驚きを示しています。見てごらん、こんなに罪に染まって汚かった私達が今や神の子になっているんだ、そういう驚きです。ガラテヤ人への手紙の第三章二六節から二九節、二九六頁から二九七頁です。

† あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 続いて第四章の四節から七節。

† しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。

 更に次を読んでみましょう。ローマ人への手紙の第八章十四節から十七節です。二四三頁。

† すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

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 子たる身分を授けられたということ。言うならば、私達が造られたということは、罪の奴隷、罪の子供、滅びの子供、怒りの子供、神を持たない浮浪児であった者が、この天地を創造された真の愛の神様の養子になったようなものです。本当の実子はイエス・キリストですから、私達はその養子です。イエスはおっしゃいました。我が父、即ち汝らの父、私の父、即ち、あなたがたの父です、あなた方は今まで私の名によって天のお父様に祈ったことは一度もなかった、今度は私に名によってお父様を呼びなさい、あなたがたが祈る時には、こう言ってお祈りしなさい、天にいらっしゃる私達のお父様、アバ、父(植竹・おとうちゃーん、という意味)よと。パパでも、ちゃーんでも、親父でも、何でも良く、そんなに親しく神様を呼ぶことができるようになった、ということを聖書は何遍も繰り返し繰り返し語っています。私達は子たる身分を授けられたということ。私自身、神の子だという自信を本当に持っています。一般に子供という身分があるということはね、どういう時にはっきりするかと言えば、親父が死んだ時はっきりするのです。もっとも顕著に現れてくるのは遺産相続の時です。子の身分があったら絶対に貰えます。私達クリスチャンの場合はどうでしょう。神様が死ぬことはないのです。私達の場合はどうかと言いますと、私達は死んだ時、素晴らしい。私達が死んだ時、子であるという身分は俄然、永遠の生命に変わります。救われるということは、永遠に朽ちない命が与えられているということです。安心しなさい、あなたの罪はゆるされた、とイエスは多くの人に語っていらっしゃいます。本当に私達がゆるされたということは、そういうことなんです。素晴らしいことなんですね。ゆるされたということは本当にすばらしいことなんです。さきにあなた方は罪の中に死んでいた者であって、神様の約束には何の関係もなく、はるかに遠く離れていた者であったけれども、今あなたがたはすくわれて神の子となって永遠の命に預かる者になった、とパウロは語っているんです。ヨハネによる福音書の第三章十六節の所が一番有名です。一三九頁です。

† 神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 同第一章十二節から十三節、一三五頁です。

† しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。

 この地上では、やれ血統だとか、家柄だとか、人種であるとか、肌の色や、様々な事を問題にする人がいますが、それは罪です。そうじゃあないです。かかる人は血筋によらず、肉の欲によらず、人の願いにもよらず、神によって生まれた。私達が神の子であるということは、イエス・キリストの血潮とそのゆるしによって誕生したということでございます。ですから、子とされるということは、実に素晴らしいことですね。

 もう一箇所、ヨハネによる福音書の第五章二四節から二六節を見てみましょう。一四三頁です。

† よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時がくる。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子もまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

 ずっと最後まで読んでみたい箇所ですが、二七節以降は省略します。本当にね、私達クリスチャンは、永遠の生命を与えられた者であるという確信を持っています。ゆるされたということは、ただ単に罪がゆるされただけではなく、罪がゆるされたことによって、私達は平安を得ることができた。だから死が恐ろしくないんです。死ぬということは、生物的に言えば嬉しいことではないですが、精神的に言えば、ゆるされた者にとっては死は恐ろしいことではない。永遠の生命が約束されているのです。それを信じることができます。数年前に可愛い可愛い十三歳のお嬢さんを亡くされたご両親がこの教会に来ておられます。でも、お嬢さんが救われて死んでいったので、この両親は本当にそのことが信じられて感謝されています。そしてはっきりと言えることは、私達はこの様に天に可愛い子供という宝を持っているので、本当に天国が慕わしいとおっしゃっていました。そのように救われているということは実に素晴らしいことなんです。経済的に救われたり病気から救われたりするだけではなくて、私達の魂の罪がゆるされたという確信をもつことができます。救いというのはこんなに多くの内容を持っている訳です。これだけでもどれだけ魂に平安があり、喜びがあり、感謝が生まれ、希望が持て、そして恐れがなく、しかも、自分がゆるされたら人をゆるさなきゃあならない。自分が愛されていることを知っている者は、人を愛することができます。自分に罪があったことを知っている私達は、決して傲慢にならない。また、偉くても絶対に傲慢にならないかわりに、どんなに苦難に遭っても少しもへこたれない、慌てない。その中でも、なおこんなに私を造り変え愛して下さっている神様が私を守っていて下さるという信仰は、非常に大きな喜びと平安とを私達に与えてくれます。だから、すくわれたというだけでも、とてつもなく大きなことです。しかも、すくわれた者は罪に勝つことができるとヨハネは言っています。世に勝つ者は、誰ぞイエスを神の子と信じる者ではないか、と。本当に世の中の罪や誘惑に勝つ力さえも与えられのです。そして、また、聖霊は、神様の霊が、私達に非常に大きな感化を与えて下さるので、救われただけでも、とてつもなく素晴らしいことなんです。

 ところが聖書を読んでみるとそれだけではなくて、もっと素晴らしいことを神様は私達に約束していらっしゃいます。それは「きよめ」(聖化)ということです。救われるだけではなくて、きよめられる。救われるということは、極端に言えば、身分が変わっただけなんです。身分が変わっただけでも素晴らしいですね。今まで罪の子、滅びの子だったのが、神の子になったのですから。今までは肉体的には元気で生きていますが、霊的・精神的・宗教的には全員が死刑囚です。死刑の宣告を受けて執行猶予で動いているようなものです。いつ死んで地獄に行くやら分からない状態で平気な顔をして生きています。もし本当に救われていなかったら、死刑の未執行者と言えます。本当はそうなんです。しかし私達が救われるならば、罪がゆるされて、神の子とされて、永遠の命が与えられるなんて途方もないことを信じていたら、それだけでも随分人間は変わることができます。だけれども、それはまだ救いを関係概念で捉えていることになります。関係概念とは神様と人間との関係が変わったということです。今までは人間と神様とは敵対関係であったのが、すくわれた人達は神様と親子の関係になるのです。今までは全然神なき者であり、神を信じない者であり、神を自分とは無関係としていた者が救われたということは、ゆるされて、和解をして、神と交わることができ、神の子という身分ができたということです。それだけでも素晴らしいですね。素晴らしいけれども、それは関係概念であって、本質的な変化ではないんです。きよめられるということは質的な変化を意味します。本質的な変化です。だからこれは関係が変わるだけではなくて、現実に私達が神の子らしくなっていくことです。例えば神の子になってもですね、綺麗な着物を着せてもらっても乞食王子ではないですが、落ち着かなくてつい本質が出てしまうようなところがあるんですが、今度は救われて後、信仰を告白して罪が許されて救われるということは、ある意味で簡単なことなんです。誰でもできるんです。今晩初めて教会に来た方でも、そうか、それでは私も信じようと本気で思われたら、今晩変わることができるんです。それほど救いということは簡単なことなんです。前回お話しましたが、悔い改めて福音を信じれば、直ぐ救われます。直ぐ救われる。しかし聖化というのは道のりが長いんです。それから今度はきよめの道に入っていくんです。救われるというのは、こんなに素晴らしいことがあるにもかかわらず、これは幼稚園か小学校に入るくらい簡単です。義務教育みたいなものです。神様に救って貰おうと思えばいつでも救ってくれるほどに簡単なものです。だけれども、きよめられるということは、そんなに簡単なことではありません。

 救いときよめ(聖化)には色々な違いがあります。救いというのは、犯罪、すなわち犯した罪に関係するのです。罪は許しが必要です。これは原罪に関係します。生まれつきの罪の性質です。これはきよめられなければならない。救いはスタートですが、きよめはある種のゴールです。きよめは過程でありゴールでもあります。例えば福音書の弟子達と使徒行伝の弟子達では全く違います。福音書の弟子達は年中失敗ばかりして、ちっとも信じられなくてへまばかりしていますが、使徒行伝の弟子達はイエス・キリストではないかと思うほど、素晴らしく変えられているのが分かります。こちらはイスラエル民族がエジプトを出て荒野を四十年間さまよったと書いてありますが、これは救われてもまだきよめられていない人の状態です。ところが、きよめというのは患難の成果なんです。これは荒野の生活です。先程素晴らしいことばかり言いましたが、ある意味において、救われてもまだよめということに到達しない間の生活というものは、非常に闘いの多い生活でもあります。矛盾の多い生活でもあります。ヨハネは、私は水であなた方にバプテスマを施すけれども、イエス様は聖霊と火のバプテスマを施すだろうと言いました。救いは水のバプテスマが表徴しますが、きよめは火のバプテスマや聖霊のバプテスマがこれを表徴致します。

 本当の悔改は救われてから後、始まるんです。救われてから後、本当に自分の醜さがいよいよ分かってきます。クリスチャンになってから後の方が、本当に自分の罪の性質ということに対しては敏感になってきます。この辺りの事を整理してみたいと思います。こういう風に書いたらいいなと思って何年か前から考えています。こういう考え方には言い過ぎがあって矛盾があるかと思いますので、ご指摘いただいてご一緒に勉強したらいいと思います。全然信仰をもっていない状態は未信者時代と言っていいと思います。未だ信仰を持っていないのですから。次に救われた状態、きよめられた世界です。私達が救われるということは、どんなに真面目であるとか立派であるとか偉いとか素晴らしいとかいっても、絶対乗り越えることができない断絶があるんです、先程申し上げた救いというものはですね。それだけでは難行苦行してどんなに立派な生活をしたとしても、救われるということは業とか行いとかとは関係がないんです。身分が変わるんです。どんなに偉くても、どんなに立派でもですね、ただそれだけでは、尊敬できる人間として素晴らしいことですが、救われているかいないかということになると、その人は救われていないと言わざるを得ない。救われためには、神の子の犠牲といいますか、十字架という代価が払われないと、私達の魂は神の目から見ては救われていないのです。人間世界は別ですよ。今申し上げているのは宗教的な世界の話です。救われるためには、どうしても十字架による悔改と信仰ということが要求されるのです。本当に悔い改めて信じるならば、乗り越えることのできない部分をヒョイッと乗り越えることができる。それこそ一瞬間でこういうことができるのです。何時間か陣痛の後に生まれきった赤ちゃんがあるように、どんなに信じようか悔い改めようかと悩んだ時間があったとしても、救われた瞬間というものは、私の罪のために死んで下さったイエス・キリストを私の罪のためであると信じますと言った時、救われるのです。これは瞬間的な乗り越えです。これは絶対に信仰によらなければ不可能なものです。パウロが何度も言っているように、行いによっては駄目なのです。義とされない、救われない。絶対に信仰というものが必要です。恵みはキリストの十字架であり、恵みと信仰が結びつくと救われる訳です。ここからクリスチャン生活が始まります。こんなに恵まれて洗礼を受けてもここには断絶があるんです。どうしても乗り越えられない断絶がある。非常に恵まれた時もあれば、すとんと落ち込み信仰が無くなってしまったのではないかと思われる時だってあります。また、少し持ち直して恵まれた気持ちになったり、また落ち込んでしまうこともあります。信仰が寒暖計のように上がったり下がったりすることもあり得るのです。そういうことがあるけれども、どうか間違えないでいただきたい。それは、どんなに罪を犯しても、最低だと思うほど罪を犯して恵まれない状態に陥ってもですね、イエス・キリストが私の救い主であるという信仰を失わない限りは、ここから下へ落ちる必要はありません。たびたびこっちに落ちて貰っては困るんです。そんなことをしてもらってはかなわないですね。お釈迦様の手の上ではないですが、この上で滑ったり転んだり何度して貰っても結構ですから。聖書に聖霊を汚す罪はゆるされないと書いてあります。自分をきよめて下さる、救って下さる十字架の血を呪ったり馬鹿にしたり、自分をきよめて下さる聖霊をののしったりすることは許されない罪だと書いてあります。これを信じないで、自らこちらに落ち込んでしまうことは大変危険なことです。たとえ、そうなっても、また悔い改めてはい上がってくれば良いのですが、どうぞ、ここから下へ、いちいち落ちないよう、精神的に落ちてしまわないようにしていただきたいですね。どんな罪を犯してもいいですから立ち上がったらいいです。その最低線を守っていただきたい。

 ここでもう一回私達は十字架があるんです。これを乗り越えるためには何が必要か。ここに書きましたように、私達人間としてできること、できる範囲があるんです。それはここまで登って来るんです。それは聖書では「全き献身」と書いてあります。それから「全き信仰」と書いてあります。全きとは難しいようですが、「ある」点があるんです。ここまでは自分の力で到達すれば、まるで待っていましたとばかり上から何か落ちてきて、瞬間的にここに上がることができる。本当に上がれるんです。私が皆さんを上げることができるのはここまでですが、この地点から引き上げて下さるのは聖霊です。必ず次のきよめという段階に入ることができます。このきよめというのは全き解放とか、全き愛とか、あるいは魂の原罪のきよめとか、完全なる自己の否定であるとかの段階です。ここではキリストが私のために死んで下さったことを信じればいいのですが、ここでは私もキリストと共に十字架につけられたということを知る必要があるのです。そういう自我が死ぬという経験です。これは非常に素晴らしい宗教的な経験です。そういうのがあります。パウロが言っています、私はキリストと共に死んだ、最早私は生きているのではない、今私が肉体にあって生きているのは、私を愛して下さったイエス・キリストを信じる信仰によって生きているのだ、最早生くるにあらず、キリスト、我が内にありて生きるなり、と。私の古き人、私の自我はキリストと共に十字架につけられて死んだ、とパウロは簡単に言っています。そういう自我が死んで本当にキリストが生きるというような、我もキリストも十字架につけられたという、我が死んでしまう、己が死んでしまうというような宗教経験をします。他の教会に説教などで行きますが、そこで直ぐ分かることは、その教会にこのきよめの信仰があるかないかということです、人間はどこまで行っても罪人で救われていればそれでいいのだという教会があります。そういう教会に行ってみたら直ぐ分かりますね。一つも自我が砕かれていない。一つも聖別されていない。信仰生活がまるで自分の趣味でやっているみたいなものです。趣味の範囲を出ていないのです。嫌なことがあれば、いつでも逃げ出すといったような姿勢です。その程度でしか自我が砕かれていない。変えられていない。造り変えられていない。ここは救われたのであってきよめられたのではない。本当のきよめとは厳しいけれども、実に素晴らしい世界なのです。本当に自由の世界です。もうそれこそ、キリストが私か、私がキリストか分からないといった世界です。しかし、これも一瞬間で、ある経験を通してここに登ることができる。それから聖霊に満たされた生活が始まるのです。キリストが私の中に内住して下さるとパウロは言っています。こういうきよめということについては、更に別の機会を設けて十分時間をかけてお話しなければなりません。きよめには色々な面が一杯あります。繰り返しますが、これは一瞬間でも、今日初めて教会に来ても掴むことができますが、これはそんなに簡単には掴めない。私の知っている範囲では、本気で導かれて、本気で求めても三ヶ月や半年はかかります。普通の人ですと一生懸命求めても一、二年はかかるようですね。そうでない人は死ぬまで駄目な人もいます。でも、死ぬ時には必ずここに登ることができる、とウェスレーは言っている。真面目なクリスチャンなら必ずきよめられて可能なんだと言っています。そうだろうと思いますね。

 もう一回ここを登る時があるんです。これはもう死ぬ時かキリストの再臨の時です。このことの詳細については、この講座の最終回でお話したいと思いますが、これは栄化、栄光の体にかせられる ・・・。それは第四番目になります。その前の第三番目に癒し(神癒)ということがありますが、それは後にするとして、最後の第四番目に栄化ですね。肉体が贖われるということです。パウロはローマ書の第八章で、私達の肉体そのものが贖われることを切に願って待っていると言っていますけれども、そういう ・・・


■録音終了■

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