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植竹牧師の「それでもまだ言い足りない」

愛のホーリネス
−アガペエ・ホーリネス−

 (その1)

 私は戦後早くから、日本キリスト教団ホーリネスの群(むれ)の神学生の3年間と、若い牧師時代の3年間、群の中心で事務の仕事の手伝いをさせて頂いた。その間にも、群が分裂して、いくつもの教団ができていくのを見てきた。戦後直ちに日本キリスト教団を離脱して、独立した教団のこともよく見えた。それで実によく分かったことは、同じ中田重治から始まったホーリネスでも、「ホーリネス」、すなわち「きよめ」の理解が実に多くに分かれていることだ。
 「きよめ」を信じない教会は、人間はみな罪深い者であって、死ぬまで罪を犯す者である。その罪深い者を限りなく赦し、愛し、救って下さる神の愛が福音なのだから、その愛を信じて感謝してゆけば良い、という信仰に立っている。だから多少の罪には寛容である。
 しかし、きよめを信じる教会は、「罪のゆるし」と「原罪のきよめ」すなわち、「新生」と「聖化」とを分けて考える。救いときよめ、と呼び分けるのが一般である。
 救いは神との出会い、罪の発見、十字架の贖いの信仰で、一瞬にして与えられる。罪が赦され、神の子とされ永遠の命が与えられる。聖書が分かり、教会の交わりが与えられ、キリスト者としての生活が始まる。聖書の知識、道徳性に驚き、宇宙観、人生観まで変わり、神のみ心に従って生きる喜びも分かり、随分人生が変わり、苦難にも勝ち、人も愛せるようになる。献身者までおこる。しかし、しばらくすると内側に問題が起こる。

 (その2)

 若いお母さんから赤ちゃんが生まれてくる。その美しさ、かわいらしさ。親でなくても、思わず抱きしめたい。そして、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月・・・。ますます愛らしく可愛くなっていく。そのうち、知恵がつき、ペットの段階をこえて人間らしく育ってゆく。
 知性、感情、意志、人格性。良心も道徳性も育まれていくと、どんな人でも、その人らしく、最善・最良の人として成人し、自信もプライドも生まれ、人にも尊敬され、社会にも役立つ人になっていく。
 今小さな生まれたばかりの赤ちゃんにも無限の可能性があり、育てようによっては、驚くべき価値ある、有益な人として成長していく可能性はみんな持っているはずである。
 しかし、もし両親が愛しあわず、尊敬せず、互いに憎み争ったり、子供を味方にしようとして、連れ合いの悪口を言ったり、不道徳な生活をしたりしていたらどうだろう。純真無垢な幼児の心は、たちまち保身のために嘘を言ったり、陰と日向の二心の者になってしまう。親が尊敬できなければ、人も尊敬できず、生きていくために上手に世渡りする術だけを身につけてしまう。悲しい人生を送る人になってしまう。
 自分を守るための「自我」が強くなり、親や社会に対する憎しみ、怒り、反抗心が心の底に強く形成されていく。幼児期の暗い環境に育つのは本当に悲しい。
 しかし、幸い、良い家庭に恵まれ、教師や友人にも出会い、明るくのびのび育てば、全て最善で、最良の人生を送れるか、と言えば、そうとも限らない。最悪の環境に育った人でも、最良に人生を送る人もいるし、その反対もある。
 毎日のように報道される、国家と国家、民族と民族、同族内での殺し合い。高級官僚や教育・行政界の不正、家族・家庭内での不和・殺人。
 人間には、正義を愛しながらも高慢の罪、名誉欲、支配欲の罪があり、人間は誰でも食欲・性欲・物欲・虚栄心があり、猜疑心、競争心、ねたみ、憎しみ、怒りがある。自己愛、自己弁護、自己主張、自己保存の本能。然り、エゴイズム。そのエゴイズムが本質である。
 ルターもウェスレーも、宗教さえもエゴであった!と気づいた時、本当の宗教が始まった。
 人は神を知り、救いを知って、初めて自分の罪の深さを知る。神は、神を信じ救われた人に、初めて人間の本当の罪深さを示される。救われる前から、罪の本質、罪の深淵を見せられたら、求道の意欲はそがれ、自ずから神を呪い、神を離れてしまうだろう。
 だから、まだ罪の赦し、救いを経験していない人に対しては、神は優しい。十字架を信じさえすれば赦される。それは愛らしい、キリストの幼な子である。それだけで立派な神の子、神の国の世継ぎ、信仰者である。すごい勢いで神を知り、聖書を学び、霊も成長する。

 (その3)

 私が日本キリスト教団にいて、教団認可の神学校におれたことは、本当に幸いなことだった。最初の二年は米田豊先生が校長。ホーリネスの群の委員長車田秋次先生をはじめ、往年の教授派と言われていた小原十三司先生、安部豊造先生、山崎亭治先生、一ノ宮政吉先生、西村敬一先生。群の有力な先生方のほとんどが、迫害に耐えて出獄した感動をそのまま持って授業に来て下さった。そして、中心の講師は星野栄一先生だった。
 私はその頃、師の最も純粋なホーリネス・プリーチャーとしての説教に感動し、入学最初の「キリスト者の完全」の講義にあずかった幸せに感動した。
 「きよめ」を求めて神学校へ行ったのに、その最初の授業から、きよめの始祖・源流とも言えるウェスレーの代表的著作にふれることができたことは、毎時間、毎時間が聖会であり、聖別会だった。目が輝いた。
 自分の意志も愛情も心も魂も、全存在を主にささげ、生きるにも死ぬにも、み名を崇められることを切に願い、食欲も性欲もささげます、行けと言われたら共産中国へ裸ででも行きますと告白した。
 9月から授業が始まり、11月の第3聖日の午後に勝負がついた。私は自分の自我が死んだ。キリストの十字架に主と共につけられた、という鮮やかな経験をした。キリストの自己犠牲、キリストの愛の勝利、全き愛の充満。

 (その4)

 終戦後は、どの教会も多くの人が出席して盛んだった。聖会という名の集会が盛んに開催された。当時はホーリネス系、日本伝道隊系、フリーメソジスト系、ナザレン系、アライアンス系、同盟系などは、みなきよめを信じていて、よく交流し、聖会が行われ、きよめが強調された。上記の諸教団は、後に日本福音連盟を結成した。その頃のアイデアマンが星野師で、私はその下で事務の仕事は全部させて頂いた(1951〜1953年)。
 話は元に戻るが、私がホーリネス聖書学校へ入学したのが1947年6月だった。そして前述の通り、入学した最初の授業が星野師の「キリスト者の完全」だった。だから、聖会で感情的に、衝動的に献身したり、きよめを信じたり・・・という経験はなかった。
 むしろ、救われて、喜びながら、実際のクリスチャン生活をしてみて、初めて分かってくる「自我」の問題、自分の本質的な罪の問題を「キリスト者の完全」の授業を通して、一つ一つ、はっきりと見せられていった。
 キリストの弟子たちが、3年半も主と共にいて教えられていたのに、「誰が一番弟子か」という意識に勝てなかったように、妬みや争いや汚れた思いは、救われるだけではきよめられなかった。かえって、主と共にいればいるほど、主の聖さと自分たちの醜さの差が、はっきりと見えてくるような性質のものだった。
 
 (その5)

 私は幸いなことに、盗み聞きだが、インマヌエルの蔦田先生の説教も聴いた。車田先生の理路整然とした聖書の講解説教。細かい緻密な米田先生の聖書釈義。小原先生の信仰信仰の一本槍。西村先生のいやし。一宮先生の再臨の火を吐くメッセージ。安部先生の牧会学。更に、日本イエスの小島伊助先生、沢村五郎先生。ミス・ボーア。フリーメソの宇崎先生。ナザレンの喜田川先生、大久保先生。活水の群の藤村先生。アライアンスの大江先生。みんな聖会の講師として、幾度もメッセージを承った。同盟の松田政一先生、安藤仲市先生。日本イエスの本田弘慈先生、佐藤邦之助先生、竹田俊三先生、長島幸雄先生・・・どなたもみんな、聖化、きよめの鋭いメッセージをされた。その他まだ、戦後はみな、福音派の先生は、ホーリネスの恵みを説いておられた。
 ところが、戦後わずかに、半世紀を過ぎたばかりなのに、後継者の先生方が、本気でホーリネスを説かなくなり、きよめの信仰が衰えていった。
 何故か。きよめの信仰は、自分が経験しなければ説けないからだ。「聖書はそう言っているが、なかなか自我は死なない。罪の根は深い。人は、そんなに簡単にきよめられるようなことはない。死ぬまでに少しずつきよめられれば良い・・・。」と、言われるのだ。
 「きよめ」とは何かと言えば、一言にして「自我の死」である。
 救いは、死んでいた自分が、キリストの十字架によって生かされること、永遠の滅びにゆくべき者が、罪赦され、神の子とされ、永遠の神の御国へ行かせて頂く資格を与えられることだ。それは律法に依るのでなく、神の恵みと信仰に依る。神からの命、恵みを与えられることばかりである。
 しかし、きよめは、自分を神に捧げること、自我をキリストと共に十字架につけること、己に死ぬことである。キリストと共に死ぬということが、新約聖書の重要なメッセージである。
 自我に死ぬと、聖霊によって生かされる。キリストが人格的に内住して下さる。罪が赦されただけでなく、原罪がきよめられる。罪に勝つ力、聖霊によって祈り、信じ、聖霊と共に働くという実感。愛、喜び、平和、寛容、柔和、忠信、善良、自制心などの品性の実を結ぶ。妬み、憎しみ、怒り、党派心、不品行、淫乱、暴飲暴食などの罪から救われる。神を愛し、キリストを愛し、主のみ心を喜ばせることが最大の喜びとなる。
 「自我が死ぬ!自分はキリストと共に十字架につけられた!」という経験は、聖会で興奮して信じられたようなものではない。一切の感情を廃して、冷徹に自我の本質を見据え、一つ一つ適切に十字架につけてゆく、という「仕事」「作業」が必要なのである。

 (その6)

 前にも述べたように、私は旧制の中学5年卒業(同じ年に新制高校3年生に残って、新制高校1期生になった人もいる)と同時に、すぐ神学校へ行くつもりだったが、2〜3年、父の早死にした家庭を助けるため、社会に出て働くことにした。しかし、6月にはもう道が開けて、神学校へゆけることになった。
 その当時、神学校は東京神学専門学校(東神大)と、ルーテル神学専門学校と、日野の農村伝道神学校しかなかった。6月の終わりだったので、しっかり準備して来年3月に来て下さいと言って断られた。
 私は家出していたので困っていたが、日本橋芳町にある日本ホーリネス聖書学校なら、直ぐに受け入れてくれるということを聞いたので直ぐに行き、入学を許可された。しかし、もう直ぐ夏期休暇で夏期伝道が始まるので、君も神学生として母教会へ派遣してやろう、ということになり、2ヶ月を母教会で奉仕の生活をして、9月1日、勇躍、日本ホーリネス聖書学校へ帰った。
 その間に、学校は日本橋から八丁堀へ移っていた。新築の聖都教会の中に併設されていた。しかも、東京駅八重洲口から真っ直ぐ徒歩10分。交通至便の地だった。その上、前回記した福音派のきよめを信じる先生方と同時に、2年後から6年後までの4年間は、当時の日本キリスト教界を代表する神学者の殆ど全て、と言って良いほどの先生方の講義を受ける機会を与えられた。北森嘉蔵、浅野順一、鈴木正久、福田正俊、渡辺善太、武藤健、松本治三郎先生たちだった。たった一度しか講義を聴けなかったのに、強力な印象を受けた方も多かった。その他、賀川豊彦、スタンレー・ジョーンズ、ヘレン・ケラーなどの話も聴けた。そして感化も受けた。
 しかし、なんと言っても、星野先生の「キリスト者の完全」のメッセージは私の生涯を変えた。師が言われる通り、ウェスレーの言う通り、私は自分の意志、あらゆることの選択権と所有権を主にささげた。愛情、主以外のものは何者も愛さない。結婚も、その願望もささげた。食欲、性欲、物欲、虚栄心、人を裁く心、妬み、悪意、怒り、むさぼりなども、みなささげた。そして最後に、自分自身をもささげた。
 一切をささげた時、「ああ、私は主と共に十字架につけられた」ということが素直に信じられた。すると直ちに、「もはや我、生きるにあらず、キリスト我が内にありて生く」(ガラテヤ2・20)ということが、ごく自然に信じられた。
 そして、徐々にでなく、段々とでなく、不思議に、その時から、妬み、怒り、悪意、人を裁く心などが、一挙になくなってしまったのである。
 それは17歳秋のことだが、それからもう60年経ったが、本当に私は怒ったことがない。人を裁かない。心の平安を乱されたことがない。憎しみがない。

 (その7)

 ホーリネスを求めて約一週間、全てを主におささげした時、自我は死んだ!という鮮やかな経験をさせて頂いた。実に心がおだやか、さわやか、静かだった。心の基盤が愛、喜び、感謝だった。ちょっとした刺激で喜びが起こると、止まらなくなってしまう。
 一番驚いたのは、むさぼりがなくなったことだ。食欲そのものが起こらない。学院の僅かな食事でも、感謝して、よく噛んで食べると、結構満足できる。しかし、実際は栄養が不足しているので、みるみる痩せて体力も落ち、きよめの経験をしてから1ヶ月半ほど後、とうとう起き上がれなくなった。聖ルカ病院が近かったので、自転車の後ろに乗せてもらって診察して頂いたら、このままだと直ぐ結核になる、心臓も弱くなっているので転地療養せよ、とのこと。家出までした去った疎開先の母の元へ連れて帰ってもらった。
 「学院は、カボチャ畑にそも似たり。あれもムダ花、これもムダ花。」と言われていたので、最初に駅に近い母教会へ寄ったら、牧師先生は、「植竹さんもダメだったか」というような悲痛な表情だった。しかし、私自身の心は1センチも動かなかった。家までの30分のところを1時間もかけて帰ったが、母は涙まで浮かべて迎えてくれた。
 それから8ヶ月間、寝たきりの生活が始まったが、心は全くの平安だった。

 (その8)

 私は性の欲望が強かった。だから、食欲と同じように完全にささげてしまわなければ勝てないと思い、「主よ、私を不具者にして下さっても結構ですから、朝な夕なに悩ませる性の誘惑に勝たせて下さい!」と祈った時、淫らな思いに勝つことができるようになった。自分で結婚の願望をささげてしまったのに、神は最も良い妻を与えて下さった。
 人を裁く心を主にささげた。真面目に奉仕活動をして、罪を犯さないように努めていると、普通のクリスチャンは100パーセント、パリサイ人になる。そして、罪人を裁く。私も見事なパリサイ人になって、友人が奉仕しないのを裁き、その友人を褒めた牧師を裁いた時、初めて自分の原罪を知った。
 私の献身は好い加減だった。牧師が好きだったから選んだ神学校だった。そのことが示されたので、「主よ、共産中国でもソ連にでも行きます。」と告白した。
 「あれもこれも、全人格、全存在を十字架につけます!」と言い切った時、「今よりわれは主なり。」(イザヤ43・13改訳)との、み言葉が全身を貫いた。それからは罪が消え、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の霊が満ち溢れた。敵でも愛せそうな気がした。それは今日まで続いている。
 これは私のきよめの経験である。人はそれぞれ性質も違うし、宗教経験も違う。自我と戦いつつ、死の直前まで頑張る人もいる。こんなことなら、信仰を持たなかった方が良かったと思うほど、自我の問題で苦しむ人もいる。
 しかし、絶対に「すくい」の恵みを忘れてはいけない。救いの恵みは、一日に7回、一週間に100回罪を犯しても赦される。救われる。

 (その9)

 救いの恵みにあずかり、神の愛の豊かさが本当に分かった人は、それだけ愛され、赦され、恵みにあずかっているのに、なお自分の中に、愛がない、怒りがある。妬みや憎しみがなくならない・・・といいうことに気づいた時、初めて、自分はまだ不十分なクリスチャン、きよめられていない者だ、ということに気がついてくる。
 「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れない。」(Tコリント2・14 これは未信仰のこと)
 「あなたがたは肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子・・・まだ肉の人だ・・・ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか・・・普通の人間のようではないか。」(Tコリント3・1〜4)
 救われることは神の恵みにより、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命も与えられ、聖書のこともよく分かり、感動もし、感謝もし、よく学び、礼拝も守り、奉仕も献金もし、献身さえする人がいる。素晴らしいことだ。
 しかし、本当に自分を明け渡し、自分を十字架につけ、自我が砕かれ、自分が死んで、「キリストが私の中に主となって下さった」、「いま私が生きているのはキリスト」という経験はない。よーく胸に手を当ててみると、自我・俺様で生きていることが分かる。(つづく)

 (その10)

 私はもう57年間も牧師と伝道師の生活をしてきたので、随分多くの牧師の会議に出席してきた。平素の事務的な会議は別にかわったことはないが、誰か問題の人物がいて、またしても問題を起こしたような時、自分たちの教会や教団の在り方、存在の存立にかかわるようなことになってくると、突然けわしくなる。名誉も同じ。
 どれが正しいか、筋が通っているか、誰が悪いか・・・ということで白熱する。
 正しいことは絶対に必要である。不正はゆるせない。教義や神学上の異端性の問題も然り。しかし、物事の対処の仕方とか、性格上の問題とか、権威や支配に関係する問題であっても絶対に譲らない。激しい論争や批判、非難攻撃さえあって、ついには紛争・分裂に至る事実を三回も四回もみてきた。
 スジは通るが、愛は通らない。
 自ら犠牲を払って愛の重荷を負う人はいない。勝った負けたの世界になる。
 特にゆるしたりすると、ゆるした者がゆるされなくなる。
 それが福音の世界に起こる。自分を正義とするホーリネス、またはパリサイの役割をしてしまう。
 ホーリネスは徹頭徹尾、愛のホーリネスである。


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