植竹利侑牧師による入門講座⑥

第6講 キリストの十字架の意味

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前回は「イエス・キリストの本質」と題し、私達の主イエス・キリストを信じるという信仰告白を通してお話をしました。そこでは、イエス・キリストというお方は全き神でありながら、人間を救う為に完全な人となって下さったお方であるということをお話致しました。そして神様であるにもかかわらず、私達を救う為に人となって、私達と同じ様な悲しみや苦しみを経験された。しかしイエス様は罪を犯されなかった。罪は犯さなかったけれども、私達と同じ様に全ての苦しみと試みに会って下さったお方である。本当に救い主というお方がおられるとすれば、それは本当の人間でなければならない。しかし人間は全ての者が罪を持っているので、罪の無い人でなければならない。その為に神様はご自分が生み賜うた、ご自分と全く同質のイエス・キリストというひとり子を、神の御子として私達の中に送り込んで下さった、というお話をさせていただきました。クリスマスというのは神が人となったということです。また、イエス・キリストは完璧な救い主としての生涯を全うして下さいました。イエス様の生涯を見てみますと、どの一秒間も、どの瞬間も、自分の為に生きるということをしなかったお方だということが分かります。本当に純粋に、ただ愛の為だけに生きたお方です。そして神様の御心を行うということのために全精力を注がれたお方でございます。神様の御旨と御心に従うということだけが、イエス様の生涯の全てでございました。その様にしてイエス様は生きられたのです。

しかし、イエス様がどの様に生きたかということの重要性と同じく、更に重要なことは、イエス様がどの様に死なれたかということです。イエス様の生涯において最も大事なことは、イエス様の死に方でございます。イエスというお方は聖書によりますと、十字架につけられて死んだと記されています。そしてイエス・キリストというお方がいらっしゃったということ、あるいはイエス・キリストというお方が十字架につけられて死んだということは、歴史的な事実でございます。イエス様と同時代に生きたヨセフォスという有名な歴史学者がいます。彼はユダヤ教の信者であって、キリスト教には真っ向から反対の立場をとった学者です。そういう人でも、イエス・キリストというお方が十字架にかかって死んだということはちゃんと記録しています。ですからイエス様が実在されたということは誰も疑うことはできないのです。ただ、そのイエスさまというお方が、どの様に死なれたかということは非常に大きな問題なのです。イエス様は先日お読みした使徒信条の中に、「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。」と記されております。ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだりとあるように、これがイエス様の十字架による死を簡潔に表現したものです。当時、十字架はカルタゴという国で発明された、人間が考え得る最も残酷な死刑の方法の一つでした。生きたままで十字の木に手と足とに釘を打ち込み、予め掘ってある穴へストンと立てる訳です。寝かしたまま十字架に釘を打ち込んで、そして立てるんです。そのまま放置致します。普通ですと体の重みで手が裂けてしまうために、僅か腰の所に小さな棒が出ていて、それで股の所で体重を少し支えるものでした。とにかくもの凄い痛みを与えるものであり、考え得る最も残酷な殺し方だと言われています。十字架につけられても、生命力の強い人は一週間位は死ぬことができない。手と足から例えようのない激痛が襲う。段々段々と死んでいくという恐ろしい刑罰でした。特にユダヤの人々は、この十字架につけられるということを最も恐れた。何故かと言うと、十字架につけられるということは、ただ単に肉体的に恐ろしい刑罰というだけでなく、宗教的な意味を持っていて、神様に捨てられてしまう、神様に呪われてしまうという意味を持ったものでした。だから火あぶりにされても十字架だけにはつきたくなかった。

イエス・キリストというお方は、本当に真実な生き方をされましたので、当時の宗教家達は彼を非常に憎んだのでございます。いつの時代でもそうですが、本物というものは必ず憎まれるものです。本当のものが来ると、偽物はそれを受け入れることができない。何でもそうです。どの世界でもそうです。ですから、イエス様が真実に神様の愛を語り神の愛を紹介し神の愛を実現して生活された為、当時の宗教家達はイエスを受け入れることができなかった。それで無実の罪を一杯こしらえて、とうとうイエスを訴えたのでございます。総督ピラトという人は聖書によりますと、これは同じユダヤ教の宗教上の問題であって死刑にする意味がない、とても私はこのイエスという人に罪を認めることができないと言って十字架につけることを拒んだのですが、当時のユダヤの法律では人を死刑にすることができなかったのです。ユダヤ人達は自治権が少し束縛されていて、人を死刑にすることができるのはローマ総督だけでした。そこで彼らは終いには総督ピラトを脅かして、このイエスという男は自分をユダヤ人の王だと言っている、我々には王様はおりません、王様は神なのです、ローマの皇帝です、自分をユダヤ人の王だと言うこの男をもしあなたが許すならば、あなたはローマ皇帝カイザルに対して忠実ではないと総督を脅かした訳です。政治家である総督は、この男に罪があるとは思わないが、勝手にしなさいということでイエスを十字架につけることを許してしまいました。ピラトがイエスについて私は罪がないと考え、訴えを受け入れることは自分が罪を負うことになると言うと、ユダヤ人達はその責任は私達と私達の子孫とが負うからと言い、ピラトに刑の執行を強制したのでございます。当時の十字架刑の時には、必ずと言っていいほど十字架につく前に、もの凄く恐ろしいむち打ちの刑を致しました。その後、一晩中裁判で引き回され、体力の消耗の極みに達したイエスに十字架を背負わせ、ローマの兵士達はイエスをゴルゴダという丘に連行したのでございます。途中でイエス様は十字架の重さに耐えきれなくなり倒れてしまったことが記されています。その為に、側を通ったクルネ人シモンという人に無理矢理イエスの十字架を背負わせ、刑場であった髑髏という意味のゴルゴダの丘に連れて行き、イエスは十字架につけられました。ところで来週の金曜日が十字架の日になります。年によって日にちが変わりますが、丁度イエス様が十字架につけられたのが過ぎ越の祭の時だった。その祭はユダヤの暦によりますと、春分の日の次に来る満月の後の日曜日がイエス様の復活の日として数えられています。そういう訳で今年のイースターは三月二十六日の日曜日になります。来週の日曜日は受難週(パッション・ウィーク)と言い、イエス様が十字架につけられる受難の週ということになります。

その様にしてイエス様は十字架につけられたのですが、そのイエス様の十字架の意味、どうしてイエスは十字架につけられたのか、ということを今日はもう少し別の面からお話をさせていただきたいと思います。聖書が言おうとしている十字架の内容はどういうことかということを、ただ出来事としてお話するだけではなくて、その意味を今からご一緒に学んでみたいと思います。

聖書によりますと、人間は誰一人として罪を犯さない人はいないのです。全ての人は罪を犯した為に神の栄光を受けられなくなったと聖書は言っている。正しい者はいない、義人はいない、一人も罪の無い人はいない、と聖書ははっきり言っているのでございます。いつか聖書のことをお話する時に詳しく申し上げる予定ですが、聖書は旧約聖書と新約聖書の二つから成っています。旧約聖書というのは前回お話させていただいたように、イエス・キリストというお方を指差しているのです。旧約というのは古い約束だからそう呼ぶのです。その約束の内容は神様と人間が契約を結んだもので、契約時には保証人(仲立ち)が必要でモーセが仲立ちとなりました。モーセが中に立って、神様とイスラエル民族とが約束を結びました。そして神様はイスラエルの人々に対してこう述べました。私は聖なるきよい神であるから、あなた方もきよい生活をしなさい。罪を犯してはいけません。そう神様はイスラエルの人々に要求しました。その代わり、もしあなた方がきよい生活をして律法というものを守るならば、私はあなた方を守ってあげましょう。イスラエルの人々はそれを了承し、神様の御心に従ってきよい生活をすると約束した訳です。きよい生活とは、盗むなかれ、殺すなかれ、姦淫するなかれ、偽るなかれ、みだりに神様の名を呼ばない、偶像を造らない、本当の神様以外の神様を礼拝しない、安息日を守る、など十項目の戒めを守ることでした。これが十戒という神様が与えられた律法です。それを守るならば、あなた方を守ってあげようと神様が言ったのです。そこでイスラエルの人々は、分かりました、私達は神様を信じてきよい生活をしますからどうぞお守り下さい、という約束をしたのが旧約です。ところが聖書を読んでみるとローマ人への手紙の第三章というところに書いてありますが、人間は神様の約束を守ることができなかったのです。例えば殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、嘘を言うなかれ、と言われても守るのは簡単ではなく、律法というものは本当にはなかなか守ることができないものなんです。形式的には守れても、心の中ではそれを破ってしまうことが多い訳です。後でイエス様がおっしゃった言葉の中に、もしあなた方が私は殺したことがありませんと言っても、ではお尋ねするが、あなた方は人を憎んだことはないか、人を憎むということは人殺しと同じだと言われています。先日、罪について申し上げた時にその事に触れました。本当の意味では、人は神様の律法を守ることができなかった。反対に、それを少しでも守った真面目な人は、守らなかった人を裁いたりする。直ぐ人間はそうなってしまうものです。当時の宗教家達が律法を守っていたことは確かですが、自分達が律法を守っていたということの上に、それを守ることのできない人々を裁いたり悪く言ったり差別したりしていました。本当はその方がもっと大きな罪だとイエス様は言ってらっしゃいます。ですから人間はいずれにしても、本当に正しく律法を守るということは難しいのですね。全ての人は罪を犯してしまった。そうすると神様との契約を破ったことになります。契約というものは一方が破れば、一方はその約束を守らなくてもいいのが契約なんです。契約というのはそうですね。だから神様は人間を愛さなくても良い、人間に対する約束を守らなくても良いことになるのです。

ところが前々回にお話しました様に、神様の愛は人間が罪を犯したからといって捨てることができない、ゆるさずにはおられないものでした。売り言葉に買い言葉で、相手が駄目なら俺も駄目だという風にはなれないのが神様の御性質なんです。人間が駄目であればある程、約束を破れば破る程、罪を犯せば犯す程、ますます神様の愛は燃え盛ると言ってらっしゃるのです。私達人間とは違うんですね。神様の愛(アガペー)は相手が悪ければ悪い程、ますます激しく燃えさかる、と神様は言ってらっしゃるのです。旧約聖書を読んでみると、もうこんな恐ろしい罪を犯したような連中をどうしてゆるすことができるだろうか、私の怒りは燃え起こって、もうこの人達を愛することはできない、と神様が言われているかと思うと、その直ぐ後に、だからと言って、どうしてこの人達を愛さずにおれるだろうか、救わずにおれるだろうか、私はイスラエルの人々が罪を犯せば犯す程、激しいあわれみが燃え起こる、と言っておられるのです。エレミヤという人は、私のはらわたが彼の為に痛む、どうしてあわれまずに、救わずにおれるだろうか、と言って神様は嘆いて悲しんでおられるということを預言して下さっている。私達人間の世界での契約は、そういう相手次第という性質がありますが、神様はそういうことがおできにならないお方なのです。ですから神様は非常に悲しんで嘆いて、つまり痛みを感じられる訳です。例えば親は子供が可愛いですね。良い子供だったら子供を自慢したりしますが、反対だったらどうでしょう。それで見捨てたりはしません。生まれつき体が不自由であったり、出来が悪かったりしても、親はその子を捨てるでしょうか。そんなことはないですね。本当の親は、子供がそうであれば尚更、ますますその子を可愛がりますね。しかしその愛は、喜びの愛ではなくて痛みの愛です。悲しみの愛です。嘆きの愛です。あわれみの愛ですね。同じ愛でも良い子供を愛する愛と、悪い子供を愛する愛では性質が違う訳です。神様は罪を犯した人間を捨てることができない。どうしても捨てることができない。ゆるさずにはおれないとおっしゃる。それにもかかわらず、人間の罪はますます神様に対して傲慢になり偉ぶって、本当は心の中では、あるいは実際には蔭でこそこそ悪いことを結構しているのに、恰も自分は悪いことは一つもしたことがないという顔をして偉ぶっている人間達。とうとう神様のひとり子であるイエス・キリスト様を人間を救うために人間の世界にお遣わしになったのに、そのイエス様さえも十字架につけてしまう。これは人間の罪の極限なんです。イエス様を十字架につける罪というのは、これは人間の罪の極致ですね。極限ですね。人間の罪はそこまで到ってしまった。神様は本当にきよいお方です。聖なる神様は人間を見る時に、人間は全部罪人です。もし、神様が本当に聖なる方であるとするなら、人間の罪をそのままでゆるすということはできないんです。と言うか、ゆるしてはいけないんです。そもそも罪というものはそういうものです。例えば私に子供が二人いたとして、子供同士が盗みをしたり喧嘩しあったり、傷つけあったりしていたとします。そしたらどうでしょうか。親が心配して何故そんなことをするのか、何故仲良くできないのか、何故そんなにお互いを憎みあって傷つけあうのか、と言って親は悲しむと思うのです。子供は自分達が勝手にやっていることで、放っておいてくれと言うかも知れません。親に関係ないじゃあないかと言うかも知れません。しかし、親はそれで放っておくことができるでしょうか。人間同士が罪を犯していても、罪というものは全部神様に対する罪なんです。一番心を痛めているのは人間ではなくて、人間を造って人間を愛していらっしゃる神様が一番被害を受けているんです。また、私達が交通事故をしたり罪を犯したりして捕まったとします。そして弁償したんだからもういいじゃあないかと言ったとします。その時、裁判所やお巡りさんはゆるしてくれるでしょうか。当事者で話がついたならもういいよ、と言うでしょうか。言わないですね。罪というものは、必ず本人同士が弁償しあってもゆるされないんです。何故かと言うと、それは社会正義そのものに対する罪を犯したことになるので、ゆるされはしないんです。人が罪を犯した時に一番被害を受けるのは被害者ではないのです。一番被害を受けるのは正義そのものなんです。この世の中では社会正義というものを代表するのが裁判所です。そこで有罪の判決を下して刑に服することになります。弁償しても刑務所に行くことになります。例え盗んだお金が百円でそれを千倍にして返却しても罪はなくならない。弁償すれば刑は軽減されるかも知れませんが、罪そのものはなくなりません。それは子供同士が罪を犯すのと同じで、本当は一番人間の罪を悲しみ人間の罪を怒り、人間の罪の為に痛んでいらっしゃるのは神様です。神様の正義というもの、神様のきよさというものが一番傷つけられているんです。だから、正義というものは、必ず裁きを要求するものです。悪いことをしているのを見て喜んでいる神様なんていません。もし本当に神様がいらっしゃるとするならば、聖なる神様は必ず人間の罪に対して激しい怒りを感じていらっしゃる筈です。怒りを感じない神様というのは偶像です。偶像は怒らないんです。何故かと言うと、偶像というものは人間の欲が造った神様だからです。人間の方が先にいて、人間の欲望を投影させ、反映させて考え出したのが偶像です。だから偶像は人間の欲に奉仕する為にできているもの、宗教です。だから偶像は本当の意味では怒らないんです。しかし、本当の神様がおられるとすれば、その神様は聖なる神様です。しかも、神様が聖であるということは、私達人間では想像もできない程のきよさです。日本人はきよいという言葉を使う時は、必ず「清」や「澄」や「浄」を使います。これらが日本人のきよいという観念です。これらは手や口などをきよめることなどによる斎戒沐浴といった行為に代表される様に、罪に対する考えの甘さを示しています。しかし、聖書の神様は、聖(ホーリー)というきよさは、焼き尽くすきよさなのです。溶鉱炉の中ではどんな黴菌も住むことができないですね。どんな黴菌でも汚れでも瞬間的に燃え尽きてしまうような、そういう白熱した何千度・何万度というような溶鉱炉の中は、神様のきよさに少し似ているかも知れません。でも、神様のきよさはもっともっともっと凄いものです。私達の神は焼き尽くす火である、と聖書は言っています。私達が信じている神様はそういう、聖なる聖なる聖なるお方です。だから人間は神様を見ることはできません。もし人間が神様をチラッとでも見ることがあったとしたら、大変です。その途端に私達の命はないでしょう。死んでしまいます。なくなってしまうでしょう。本当に神様というお方は聖なるお方なんです。人間は神様がお造りになった太陽でさえもまともに見ることができないですね。まして、造り主である聖なる聖なる聖なる神様を見るなんてことは人間にはできないんです。神様がいるんなら見せてみろなんて言いますが、冗談ではありません。神様が見えたら人間は全部死んでしまいます。聖書に、まだ神を見た者は一人もいない、と書いてあります。もっとも、神様の栄光を見た人はいます。モーセは神様の栄光を見ました。イザヤもです。しかし、神様の栄光を見た彼らは、瞬間的に打ち倒されて、死人の様になってしまったと記されているのです。神様というお方はそういう聖なる聖なる聖なるお方です。そういう聖なる神様は、人間の罪を絶対に罪のままでゆるすということはできないのです。

ところで、先日礼拝でお話した様に「ゆるす」という言葉には二通りあります。「許」と「赦」です。大抵は許可の許という字を使います。この「許」はお役所ではんこを貰う時などに使いますね。つまり、ゆるす方には全然痛くも痒くもないんです。損も何にもないんですね。ただ、ポンとはんこを押したらお終いです。ところが「赦」の方は、絶対にゆるしてはいけない、絶対ゆるすことができない様な罪をゆるす時に使います。しかし、真の罪とは、ゆるしてはいけないもののことなんです。簡単にゆるせる様なものだったら大した罪ではないと言えます。ところが、本当の罪というものは一度犯してしまうと、誰かが必ずその罪の為に犠牲を払わないとゆるせないものなんです。誰かに厳しい罰を要求するものなのです。全然被害を被らない様な、誰も罰を受けない様な罪は大した罪ではないのです。罪とはゆるしてはいけないものなんです。また、その罪を裁く者が簡単に被告をゆるしてしまったら、今度は逆に、その者が厳しく批判されることになります ・・・

■録音空白部分■

・・・ そのままに放っておくということでは神様の資格がないんです。もし本当の神様だったら、人間の罪の為に激しい怒りを感じていらっしゃる。絶対にゆるすことができない、と言ってらっしゃるのが本当の神様です。本当の神様でない偶像というのは、人間が罪を犯しても平気な顔をしています。例えば、私が昔住んでいた所に赤線や青線がありました。そこの女性達が夜になるとおいなりさんを拝んでいました。それを見た時、私はあの神様は粋な神様だなあと思って感心したものです。今日は良いお客さんが来ますように、カモが一杯来ますようにとお祈りし、神様は、おお、よしよし、お前の祈りを聞いて今日は馬鹿な男を沢山連れて来てあげようなんてことになるのでしょうか。もしそんな神様がいたらおかしいですね。そんな非道徳的な神様があるでしょうか。夫の浮気でどんなに苦労している奥さんがいても、そんなことは私のあずかり知らぬこと、なんていう神様がいたらおかしなことです。もし本当に聖なる神様ならば、人間の罪や欲望に対しては怒りを感じていなければならない。

ところがその同じ神様が愛の神様なんです。聖なる神様は怒りの神様ですが、愛の神様はゆるしの神なんです。これは矛盾ですね。ゆるす方が本当なのか、怒る方が本当なのか。どっちも本当なのです。だから旧約聖書を見ると神様自身がもの凄い激しい怒りを表しているかと思うと、激しい愛を表していらっしゃるのです。どうしてもゆるすことができないと宣言しているのに、直ぐ後でどうしてゆるさずにおれるだろうか、と言って神様は嘆いていらっしゃる。そういう愛のことを痛みと言います。痛みの愛です。人間が可愛らしくて優しくて勤勉で品行方正なら、神様は良い子良い子と、可愛い子猫を愛するように撫でていればいいのです。ところがですね、たちの悪い猫の様に、抱こうとしても引っ掻いてくる猫のようなものを抱きしめるとしたら、抱く方が傷だらけになりますね。可愛い子猫を抱くのは誰でも好きですが、いが栗を懐に抱きしめることができるでしょうか。痛くて痛くて堪りませんね。その愛することのできないものを愛するのが神の愛なんです。ゆるすことができないものをゆるすから神様の愛なんです。神様の愛とはそういう非常に激しく、厳しいものです。決して甘いものではないのです。この恐るべき罪深い人間をゆるさずにはおられない、と言って下さるのです。その為にはどうするんでしょうか。どうすればゆるせるんでしょうか。

キルケゴールという人が「あれか、これか」ということを言っています。人間の世界というものは、神様がきよければ人間は滅ぼされなければならない。あれかこれか、ですから。あれが立てばこれは立たなくなる。無理が通れば道理は引っ込むという諺がありますが、人間の罪の邪な方が通れば神様はきよい神ではなくなってしまうのですね。横車を通せば神の正義は駄目になってしまう。絶対に両立するということはないのです。人間が罪人である以上、あれかこれか、どちらかなんです。ところが聖書を読んでみると驚くべきことが書いてあります。ローマ人への手紙の第三章の十節から十二節、二三六頁をお開き下さい。

† 次のようにかいてある。「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」

二十節。

† なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

二十一節から二十四節。

† しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

この義とされるということは、裁判官がお前は正しく無罪であるとするのと同じです。義とされる、正しいとされるということです。そして律法の行いによっては誰も神の前に義とされることができない。人間は自分が行いによって本当にきよくなることはできないのです。それは信仰によってだけ、あがないによってだけ義とされるのである。

二十五節から二十六節。

† 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。 ・・・

ここは大事なところです。神様の義を示す為に、神様は人間の罪に対する激しい怒りが遂に我慢しきれなくなって、遂に人間の罪に対して激しい怒りを下した。そして神様は、ご自分が義であることを、聖であることを示された。それでは、人間は滅んでしまったか。神の怒りが遂に現れ滅んでしまったか。いいえ。そういう人間の罪の為に、神様は予め御子イエス・キリストを人間とされて、私達の罪の身代わりとしてお立てになった。そのイエス・キリストというお方の上に神の怒りが落ちた。それが十字架なんです。十字架というのは人間の罪の為に、前回お話した様に、予め人間としてお遣わしになった神のひとり子であったイエス・キリストが、神様の怒りを背負って私達の罪の為に死んで下さった。だから十字架というのは、あくまでも神様が義であることを現す為に、神の怒りが遂に人間に下ったということなんです。それは表の意味であって、裏の意味は二十六節をご覧下さい。

† それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

どういうことかと言いますと、「あれもこれも」ということです。神様が義であることを貫き通し、人間も義であることを貫き通して下さる為に、神様はご自分のひとり子であるイエス・キリストを十字架につけて呪って下さったということです。イエスが十字架についたのは、当時の宗教家達がイエス様を嫉んで十字架につけたのですが、聖書を読むといたるところに書いてあるのは、イエス様がご自分で十字架へ十字架へ十字架へと進んで行かれたということなんです。聖書の言葉にはっきりと書いてあります。神はそのひとり子を賜わったほどにこの世を愛して下さった、それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である、と。もう一箇所聖書を読んでみましょう。コリント人への第二の手紙の第五章の二十節です。二八三頁。

† 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。

その次が大事な言葉です。続いて二十一節です。

† 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方、イエス様のことですが、イエス様を罪そのものとされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。その次にガラテヤ人への手紙の第三章の十三節、二九六頁です。

† キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木(植竹・十字架のこと)にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

皆様、本当にイエス様というお方は私達の罪の為に、罪そのものとされて罪の為に呪われて下さったお方なのです。来週の金曜日は十字架の日だと申しましたが、イエス様は午前九時に十字架につけられたのですが、お昼まではあの恐ろしい十字架にじっと耐えられました。十字架上のイエス様は本当になに一言もしゃべらず、手に釘を打ち込まれる時も、なに一言もおっしゃってはいません。最初に発せられた言葉は、「父よ、彼らをゆるして下さい。」でした。これがイエス様の最初の叫びです。それを見ていた十字架上のもう一人の泥棒がびっくりして、イエス様に救いを求めたということが書いてあります。それから、イエス様はその泥棒に慰めの言葉をかけ、十字架の下に立っているお母さんに慰めの言葉をかけ、昼の十二時までは、あの恐ろしい十字架につけられていても何も自分の為には嘆いたり、悲しんだり、うめき声さえあげておられない。ところが昼の十二時になると、突如として辺りが真っ暗になってきた。そうしてイエス様の形相はみるみる内に変わっていった。本当に身の毛もよだつ様な恐ろしい恐ろしい恐ろしい苦しみの中に突き落とされた。それから昼の三時までの三時間、イエスは本当に苦しまれた。それは身の毛もよだつような恐ろしい姿であったのです。そして三時頃になった時、イエスは「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか。」と叫ばれたということが記されています。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と。それを聞いた人が、あまりにもイエス様のその声や姿が恐ろしい為に耳に残っていてですね、聖書を読むと、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだと、そのままが聖書に記されています(マタイ福音書第二十七章四六節)。日本人はそのことがよく分からないから、イエス様は死ぬ前になってから、あんなに泣き言を言ったりして、日本の武士の方がよっぽど立派だなどと言います。知らない人はそう言います。イエス様は昼の十二時から午後三時まで、本当に神様に呪われた。本当に父なる神様に捨てられた。本当に呪われた。呪いそのものとなり、罪そのものとなり、イエス・キリストは十字架で苦しまれた。だから私達人間が死ぬのと、イエス様が十字架で死ぬのとでは全く性質が違うのです。何十億分の一も違うんです。単に十字架につけられて痛いだけではないんです。イエス様の十字架というのは、全人類の罪の為に神が罪を呪っておられる。その呪われたお方がイエス様なのです。だから本当に聖書のイエス様は、十字架のイエス様は、恐ろしい恐ろしい恐ろしい形相でその苦しみに耐えておられた。

しかし聖書を読んでみると分かりますが、イエス様はその時一声高くね、「全ては完了しました!」と叫ばれたと書いてあります。それは何かと言うと、もう人間の罪に対する神様のお怒りを全部飲み尽くしました、ということなんです。神の怒りが今過ぎ去りました、ということです。その日は過ぎ越の祭といって、旧約聖書の時代に神様の怒りが過ぎ越す為に羊を殺した日なんです。過ぎ越しというのはパース・オーバーと言い、神様の怒りが過ぎ越して行くことです。その為に昔は子羊が殺されて、その血が門と鴨居に塗られたんです。昔そういうことがあった記念の日なんです。それは正に、イエス様が十字架で血を流して下さった為に、罪の無いお方が罪となって私達の為に贖いの血を流して下さったことによって、神の正義が満足したんです。神様のきよさが通り過ごしたんです。神の怒りが過ぎ越したんです。神様は人間の罪に対する怒りを全部イエス・キリストの上にもたらされたのです。だからイエス様の十字架というのは神様のきよさが貫き通った時なんです。罰をしないままでゆるすのは本当のきよさではないんです。だから罰したんです。だからその罰を受けたのは人間ではなくて、人間の為に、身代わりとして予め人間にさせて下さった、人間になって下さったイエス・キリストが、それを受けて下さったということです。だから昔、こういう話がありました。ある一人の公正で正義正しい裁判官がいた。その裁判官の前に自分のとても親しい友達が被告となってやって来た。自分がその友達を裁かなくてはならないことになった。正義からいえば、絶対に彼を無罪にはできないのです。そんなことをしたら正義の裁判官としては失格です。だから絶対に有罪なのです。ところが友情とか友人という愛からすれば、何とかして許してあげたいというのが当然ですね。何とかして許してあげたい愛と、絶対に許すことができない正義とで、この裁判官は非常に苦しんだ訳です。どうしたかと言うと、この裁判官は何遍かの裁判をしたあげくに、とうとう額面通りの厳しい有罪の判決を下したのです。するとそれを聞いた被告はがっかりして、なんという愛の無い、友人甲斐の無い裁判官、人間だと思ったとのことです。原告の方は正義の裁判官だと喜んだことは言うまでもありませんでした。ところがその裁判官は判決を言い終わると直ぐに、「皆さん、ちょっとお待ち下さい。私は今、裁判官として判決を下しましたが、今度はこの被告の友人として一言皆さんに申し上げたい。」と言い、閉廷するやいなや飛んで出ていって、今度は被告の入り口から私服で現れたそうです。彼は何と言ったか。「今私は裁判官としてこの人に有罪の判決を下しました。しかし、今度は友人として一言申し上げたい。今私が申し渡した罰金や弁償は全部自分の財産を処分してもって来たのでこれを友人にあげたい。そして友人の手から被害者に渡して貰いたい。彼が有罪であることは間違いないことですが、どうか私の払った犠牲に免じてこの被告の名誉を回復してあげていただきたい。罪人と呼ばないで下さい。どうか罪を犯さなかったのと同じように、この友人を見てあげて下さい。よろしくお願い致します。」と言って持ってきた鞄から大金を出し友達である被告にしっかりと握らせ、みんなに深々と頭を下げてお願いしたそうです。みんな声をのんで、その裁判官の素晴らしさに感動したという、そういうお話が残っています。この裁判官のした事は神様のした事と同じです。自分が犠牲を払わないでは絶対にゆるすことができない。自分の責任において犠牲を払うことによってだけ、正義と愛が両立するのです。

そして今度は神様が全部、イエス様が全部、私達の為にすることをしてくれたので、信仰による義という言葉が何遍も出てきましたね。そうですね。今までは、行いによる律法による義です。行わなければ救われないと言ったのです。ところが今度は、行いによる義ではなくて、信仰による義が私達の義です。もう神様の怒りは過ぎ越してしまった。もう神様の正義は満足してしまった。だから、どうか知っていただきたい。人類の罪はもうゆるされているのです。あなたの罪も私の罪も、もう神様は問題にしていないのです。残る問題は、それを信じるか信じないかだけです。一番大きな罪は神様の愛を信じないという罪なのです。これだけはどうしようもありません。信じるということが私達にとって一番大事なことになります。神様の愛を受け入れるということが一番大事なことです。受け入れないということ程、大きな罪はなくなったのです。最早、人間は罪の為に罰を受けるとか、滅びるということはなくなったと私は断言できると思います。何故ならば、イエス様が私達の為に死んで下さったからです。彼の死は唯単に当時の人達の為だけではないのです。全人類の罪の為にキリストは既に死んで下さった。聖書はそう言っています。一遍だけで十分だと言っています。イエス様はお亡くなりになる時に、我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか、と言って絶望的な叫びをあげてらっしゃったが、一番最後に、いよいよ天国に帰る息を引き取る時には、全ては完了した!、と叫ばれたと同時に、父よ、我が霊を汝の御手にゆだねん、と言ったと書いてある。これはもう完全に神様の怒りが過ぎ越して、イエス様を子として受け入れて下さったということ。イエス様もまた、完全に天のお父様を信頼して、ああ、これで全部を成し遂げたと言って死んでいった。考えてみていただきたいですね。罪はどんな小さな罪でも、血を流さなければゆるされない。しかし、全人類の犯した全ての罪の為に、あの聖なる聖なる聖なるきよい神様の御ひとり子である神、即ちイエス・キリストが、人間となって私達の為に死んで下さったのでした。ゆるされない罪というものは、もう無くなっている。例えば悔い改めが必要だとか言いますが、私は悔い改めるということは人間の為に必要なのであって、神様の為に必要なのではないと思います。信仰だってそうです。人間の為に必要なのです。悔い改めと信仰については後でお話ししますが、本当は神様は必要としていないのです。どこにも告白しなければ救われない、なんてことは書いてないのです。もしそうだとすれば、一日に三千人の人が救われたと書いてありますが、その人達が全員ペテロさんの所へ行き、各自が、実はこれこれと告白していたら大変なことです。十二人しか彼には弟子がいませんから、三千人の告白と洗礼には対応しきれません。つまり、告白や悔い改めは、その人の為には必要ですが神様の為には必要ないのです。何故なら、神様は既にゆるしていらっしゃるからです。全くゆるしていらっしゃる。愛しておられる。どんな人でも神様は救おう救おう救おうとしていらっしゃるのです。差し上げたものを持って行かないとしたら、その方が罪でしょう。そうではないですか。福音とは、こちらが下さい下さいとお願いして、ちょっとばかし分け前が貰えるような、そんなケチなものじゃあないのです。神様はゆるすのがその本質であり、仕事なのです。ゆるさずにはおれないのが神様です。ですから、本当にイエス様は私達の罪の為に死んだだけではない、甦ってしまったんです。次回お話し致しますが、復活したということは、もう神様の愛は勝ってしまったということなんです。勝利してしまった。全部済んじゃった、ということが復活なんです。ですから私達がすることは信じることだけです。こういう有名な話があります。一人の立派なクリスチャンであるお父さんがおり、彼の息子が何度も罪を犯していました。今度悪いことをしたら、尻を物差しで力一杯十回叩くと申し渡し、息子も納得しました。悪いことをしたら許してはいけません。罰が必要です。だが息子はまた罪を犯してしまいました。父親はその子供の尻を力一杯叩いたそうです。ところが叩いた後、息子に痛かったかと問い、今度は息子の尻に自分の手を置き、その手を力一杯叩いた。加減しないで本当に叩いた。叩かなければそれは正義ではない。しかし子供を叩くんだったら愛ではない。それで自分を叩いた。それは神様がなさったことです。同じことです。

本当に神様はそのひとり子を私達の罪の為に呪って下さった。しかし、ひとり子を呪った神様は平気な顔をしたのですか。いいえ、そうじゃあないです。神様が一番悲しんで、一番心を痛めていらっしゃった筈です。イエス・キリストは神様の御心のままに従って、その呪いを受けて下さったのです。呪った神様も呪われたイエスも、人間の罪の為に、愛の故に、本当にそのことをして下さり、そのことを受けて下さった。だから皆さん、十字架というのはね、本当に好い加減なことじゃあないんです。絶対に罪を見逃しにしない神の正義と、絶対にゆるさずにはおかないという神の愛とが、激しく結びついたのが十字架なんです。激しく結びついたんです。それが十字架です。好い加減には絶対に誤魔化さなかったんです。旧約聖書の神様は、ある意味においてそのどちらも貫徹しない神であった。しかし、新約聖書の神様は絶対にそのことを成し遂げてしまった。だから新約というのは、そのことを成し遂げて下さったイエス様と神様とが約束して下さった、すなわち、信じる者は全て救いましょう、そういう新しい約束だから新約と言うのです。新約聖書の恵みというのは、そういうものであることを知っていただきたいと存じます。

今日はイエス様さまのなさった業、十字架についてお話を致しました。あれかこれか、というのは人間世界の法則です。あれを立てればこれが立たない。しかし、イエス様は神様からも人間からも捨てられて、あれからも、これからも捨てられて、十字架の上に死んで下さったから、あれもこれも立ったんです。神様の正義も立ち、人間の救いも成就したんです。それが十字架です。だから十字架というのは本当に素晴らしいことなんですね。来週は更にイエス様が復活して下さったということをお話したいと思います。ありがとうございました。

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