植竹利侑牧師による入門講座⑧

第8講 私達の悔改と信仰

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本日は「私達の悔改と信仰」と題し、ご一緒に学ばせていただきたいと思っております。

入門講座の第二講で、聖書の人間観は、霊と心と体からできているということをお話させていただきました。そして一番中心は霊であって、その周りに心があり、一番外側に体があるという様なお話をしました。私達の心の中には知性と感情と意志というものがあります。知・情・意と言います。人間は自分の意志、自由意志というものを神様から与えられています。この自由意志というものは、その人自身の決断と選択を行います。人間は一人の人格として、いつでもものを選び決めることができるように造られています。植物には全然選択の自由がなく、切られてここに活けられる以外にない。植物には自由がありません。動物には僅かに選ぶ自由があるように見えますが、全く本能的な選択しかできない。例えば、猫は春になるとさかりがついて異性を求めます。これは極めて不自由なものなんです。さかりがつけば、絶対そうせざるを得ないものなんです。その時は性的な衝動が全てに優先します。本能の命ずるままに生きているわけです。これは本当は不自由だと言えないでしょうか。自由とは自分で選べるということが眼目です。ですから、例えそういう本能的な欲望や衝動がやってきても、自分の意志の決断においてそれに打ち勝つということが、本当は一番自由なのです。スキーの好きな人は足の一本や二本折ってでも、自由自在に滑ってみたいと思います。その場合の自由自在な滑降とは、決して何もない単調な平面を滑るのではないですね。あちこちに木や岩や危険な斜面もある筈です。そういう所を自由に通り抜けて、初めて自由な滑降と言えます。英語を自由にしゃべるという場合も同じです。文法に完全に縛られた時に、初めて流ちょうにしゃべれるわけです。ピアノが自由自在に弾けるということは、音楽の楽典に完全に束縛された時に生まれてくるわけです。手が自由に動くとは、手が楽譜に完全に束縛され訓練された時に生まれるのです。そこに自由が生まれるのでございます。本当の自由とは、自分の決断において、不自由でも選ぶことができるということにあります。放縦ではないのです。完全にルールに縛られた時に、私達は初めて車の運転ができ、どこへでも出かけることができます。まだ、ブレーキの踏み間違えがあるなどは、まだ、運転が自由ではないわけです。ですから自由とは放縦ではなく、正しい選択をすることができるということです。とっさに正しい選択ができるということが本当の自由です。

神様は人間にそういう自由の意志を与えていらっしゃいます。そして、人格とは自由だと申しました。自由があるということが人格であるということです。人格的であるということは、自由に選択ができるということです。ですから、結婚でも仕事でも進学でも、最後は自分の選択と決断によって選ぶと思います。人間はそういう風に造られています。他の動物はそういう自由を持っていないんです。本能の命ずるままにだけ生きているんです。人間は例え損をしても、例え辛くても、選ぶという自由を持っています。しかも、その選ぶ為の基準として理性とか道徳とかが備わっています。神様は人間にそういう意志を与えて下さった。これは人間の驚くべき特権です。また同時に大きな責任を負うことでもあります。人間に自由の意志があるということは、その人の選択に依らなければ、神でさえもその人を救うことができないことを意味します。神様は全知全能のお方ですから、以前お話したように、イエス・キリストが私達の罪の為に死んで下さった、全人類の罪は既にゆるされたのだ、と神は宣言しておられますが、その素晴らしい恵みも、全部その人の意志に依って受け入れないことには、絶対にその人の心の中に入って来ないのです。ホフマンという有名な画家はイエス・キリストが夜露に濡れて、ある一軒の家を訪問した情景を描いている。そこに、私は戸の外に立って叩いて言う、と書いてあります。もしあなたが戸を開けば、私は中に入って一緒に食事をしよう、共に交わろう、という黙示録の第二章と三章の言葉をそこに書いておいたのです。ある人がその絵を見て、ホフマン先生、実に素晴らしい絵だけれども、一つこの絵には足らないものがあります、それはドアに取っ手が無いことです、と言ったそうです。ホフマンはにっこり笑って答えました。人の心というものは内側から開かなければ、神でさえも開くことができないようにできているのです、と。人間の心というものは、自分の意志の決断によって開かないと、神様でさえも人の心の中に入ることはできないのです。人の持つ自由なる選択の意志というものは、神のそれに似た大きな格(人格)と言えます。その意味で、人間というものはもの凄く素晴らしいものですね。人間は自然界ではもの凄くちっぽけな存在ですが、一つの人格であるということや主体性を持っているという意味では、神様に対抗できる存在なのです。だから神に背くこともできるし、従うこともできる、信じることも、信じないことも、受け入れることも、受け入れないことも、愛することも、憎むこともできる様に人間は造られています。従って人間というものはこの宇宙の中でちっぽけなものですが、一人の人間というものは人格の尊さや価値において、神と人間とは我と汝の関係にあるんだ、ということを以前お話致しました。

そういう自由が人間にはあります。ですから神は本人が受け入れないのに、その人を救うとかゆるすとかはできない。どうしても人間の側の決断とか選択とかが必要になってくる。それを一言で申しますと、聖書は悔い改めて福音を信じなさい、と書いています。悔改と信仰です。クリスチャンとしての生活に入るためには、この二つがどうしても必要になってきます。この二つはお互いに裏表の関係にあります。一つことです。悔改ができないと信じることはできないという性質のものなんです。本当に悔い改めた時、自ずから信仰は生まれるというような性質のものでありまして、決して両者は別々のものではないのです。では悔改とは何か。悔改とはギリシャ語でメタノイアと言います。メタノイアというのは方向を変えるという意味です。回れ右をするということです。何故悔改がそういう意味を持ったのか。それは罪そのものが方向違いだからです。罪とは、神様に向いていなければならない筈の人間の心が神の方を向いていないこと、それが罪の原義でした。パウロはエペソ人への手紙で、神に心を閉ざしてしまった人の心がどんなに暗いか、ということを何遍か書いています。イエスもそう言ってらっしゃいます。その暗さはいかばかりであろうか、と。光に背中を向けていれば暗いものしか見ることができません。本当に心が神に向いていないと人の心は暗くなるんです。その暗さはどんなであろうか、とイエスは言っておられます。罪というのは方向違いです。神に向いていて初めて人間は人間であるのに、神に心が向かないで、罪とか快楽とか己に目がむいている時、当然心は暗くなってきます。人生の目的を外し、生きる目的を見失った状態、それが罪だと申しました。

だとすれば、悔改は方向を変えるということです。方向を転換するということです。悔改とは、ああ、私の人生は間違っていた、と先ず最初に気づくことです。先程、知・情・意ということを申しました。悔改は、先ず最初に知識から始まります。自分がどんなに間違っていたかということを知るということです。知性から始まるということです。神を知った時に人間は必ず自分の罪を知るようになります。ペテロという人はイエス様を知って初めて、ああ、私は罪深い者です、どうか私から去って下さい、と言ったと聖書に書いてあります。人間は絶対者を知らないでいると、必ず相対的なものを絶対化するようになります。本当に崇むべきものを崇めないでいると、崇めてはならないものを崇めなければならなくなるのです。戦争中、私達は天皇が神だと教えられました。中国では毛沢東が神だと思っていました。ソ連ではスターリンが同様な存在でした。現代ではお金が神様なのか、快楽がそうなのか。何かを絶対化してしまう。本当に聖なる神様が分かった時、人は初めて自分が分かってきます。他の人を標準にしないで神様を知り標準にした時に、自分の罪の状態が分かってくるのでございます。その時に人は初めて、ああ、私はなんという罪を犯してきたのだろうか、と言って罪をかなしむことができるようになります。得てして人間は、自分がどんなに悪いことをしてきたか得々としているものです。罪が分かると初めて人は自分の罪の深さに気づきます。そして罪をかなしむとは、後悔じゃあないのです。後悔は、罪の結果をかなしむだけなんです。あの時気をつけていれば、といった後悔です。後悔先に立たず、と言った場合の後悔のことです。しかし、悔改と後悔とは全然違います。悔改とは結果をかなしむのではなく、罪そのものをかなしむ精神です。そのことが本当に、ああ、悪かったということが分かってきて初めて、意志への働きかけが生まれます。そうだ、私は神のもとへかえろう、あるいはお詫びしよう、悔い改めよう、という決心をすることになる。だから悔改は知性と感情と意志に働きかけてきます。放蕩息子の話がありますが、放蕩息子が遠い国へお父さんからどんどん離れていたのに、ある時自分の非に気がつき、ああ、悪かった、私は天に対してもあなたに対しても罪を犯しました、もう、私はあなたの息子と呼ばれる資格はありません、どうぞ雇い人と同様に扱って下さい、と言おうと決心して、すなわち立って父のもとに行く、と書いてあります。今まで、どんどんとお父さんから離れていた息子が、ここで回れ右をした、その転回そのものを悔改と言うのでございます。メタノイアというのはそういうことでございます。だから、個々の罪の悔改とか個々の罪の告白とかは、あまり大した問題ではありません。カトリックでは告解室で神父さんに、実はこれこれと罪の告白をします。告解を受けないと救われないとカトリック教会では本当に言っています。カトリックでは神父さんの位置が、神と人間の中間に位置するという考え方です。だから神父さんには結婚の禁止とか、いろいろな厳しい戒律があります。厳しい訓練により、単なる人間とは違う、いわば神に近い人間になるということです。ところが、私達プロテスタントはそういうことは信じません。神と人間の位置づけが本質的に違う訳です。カトリックのように、人の前で何か言わないと、悔改をしないと、いけないとは考えていません。そんなことよりも、むしろ全存在をあげて、これまでの方向とは違う方向を向くんだという、そういう決心をするということが悔改なんです。それが一番大切なんです。それがメタノイアです。本当に悔改をした時には、ああ、悪かった、私は今まで間違ってたんだ、ということに気がつき、そのことに本当に自分自身でかなしみ、そして心の方向を神様に向けようという決心をした時に、必然的に過去に対しては悔改ができます。そして将来に対しては、必ず信じるという信仰の働きが必然的に起きて来るんです。何故ならば、それは神の愛とか恵みとかゆるしとか救いとか十字架とかということが分からなければ、知らなければ、絶対に悔改は始まらないからです。だから神様の愛や救いが分かって悔改が始まると、悔い改めて福音を信じなさい、と聖書が言っておりますように、必然的に今度は表側である信仰の方に心が向いて行きます。もし悔い改めるという決心をしないままで、いくら信じると言っても、それは信じるという知性の働きに過ぎないです。どうしても本当の信仰を持つ為には、心の方向を変えるという決心が不可欠です。いいとか悪いとか、良くなるとか悪くなるとかということとは違うんです。

心の方向を変えると、私達は必然的に神様の方に心が向きます。そして信仰が始まります。信仰も同じように、先ず神の愛が分かり知ることができ、本当にそれを喜び感謝し、そして信じますという決断をする時、罪の告白ではなく、信仰の告白をする時に、それが信仰になるのです。信仰という言葉は、フィリスと言いますが、日本人はこの言葉を明治までは使ったことがないんです。それまでの日本にあったのは信心という言葉です。この信心と信仰とは全然違います。信心というのは鰯の頭も信心からという表現に見られるように、信仰の対象の方にはあまり問題をおいていない。鰯の頭でもいいんですから。信じる人の心の働きの方に重点がおかれています。だから何でも良い訳です。信じること、その行為そのものが貴いんだと日本人は考えていました。信仰の対象そのものがどういうものかなどはあまり深く考えていない。

これは私達キリスト教の考えからすると間違いです。信仰とは、信じて仰がるべき対象が一番大きな問題なのです。聖書の宗教では信じて仰ぐべき神が問題なのです。どのような神を信じ仰ぐかということが問題なのです。それを非常に大事にします。だから私は最後には信じていただきたいと申しますが、全然分からないのに、知らないのに、理解できないのに、知性が納得しないのに、信じなさいと申し上げたことはありません。それでは盲信になってしまいます。そうではなくて、聖書の信仰は絶対に自分の頭で、ある程度は理解していただくことが必要です。しかし、理解し知るだけでは信仰にはならないのです。最後には自分が決断するということが必要です。全部が分かったら信じると言う人がいますが、全部が分かったら信じるということはできないのです。何故なら、信じてその時に初めて分かるという領域があるからです。例えば結婚もそうですね。相手を全部分かって結婚する人はいないと思います。結婚してから相手が本当によく分かります。信仰もこれに似ており、全部知って信じるということはできないのです。物を買う時でも何でもそうですが、多少の疑いとか不安とかは残るものです。高いのじゃあなかろうかとかね。しかし買ったら、どんなにそれまで迷っていても、買う決断をしたらそれは自分のものです。勿論お金は払いますが。私達は悔改と信仰という代価を払います。イエス・キリストを信じる信仰による義であって、そこには何らの差別もない、といつか読んだローマ人への手紙の第三章に書いてありましたが、私達は、人が救われるのは掟の行いによるのではない、ただキリストを信じる信仰によるのである、神の十字架による恵みと私達の信仰だけが、それを獲得すると聖書は力を込めて力説しているのでございます。ですから私達は、信仰ということは、先ず自分の罪を悔いて、そしてそれを神の前に自分の心で悔改ということができて、心静かに神を見上げることができるということ。それらが殆ど表裏一体となって同時になされなければならない。また、そうすることができるんです。本当に自分の今までの生活のことを神様にお詫びする心ができると、必ず信仰に結びついて行きます。

お話を次の段階に進めます。信仰というものの元々の意味は、実は真実ということだったんです。ギリシャ語ではピスティスと言います。このピスティスというギリシャ語の信じるという言葉は、聖書では信仰とも真実とも訳しています。神様についてこの言葉が用いられた時には必ず神の真実と訳し、人間について使われる時には必ず人間の信仰と訳したのですね。聖書というのは本当に面白く、翻訳者はそういうところにも細かい神経を使っている訳ですが、人間の真実というものは無いという立場です。コリント人への第一の手紙の第三章に、全ての人を偽りとせよ、ただし、神のみを真実とすべし、と書いてある通りです。全ての人を不真実とせよ、神のみを真実とせよ、という非常に強い表現です。テモテへの第二の手紙の第二章十四節には、私達は真実ではないけれども、神は絶えず真実にていまし賜うと書いてある。私達の考え方では人間の真実というものは無いという考えです。人間がどんなに真実でありたいとしても、人は真実であることは難しい。裏切ることがある。約束は守れないこともある。人間の真実さには限度があります。だから、人のピスティスの場合には信仰と訳したのです。神様が信仰するということはありませんから、神は必ず真実で真実そのものですから真実と訳します。人間が真実である最高のものは何であるか。それは真実な神に対する応答、即ち信仰です。信仰ということは神の愛と真実に対する応答なんです。いつかお話しする予定の祈りもそうですが、神の愛への応答が信仰です。だから応えるということはね、呼びかけを聴くということから始まります。誰も呼んでくれる人がいないのに応えることはできませんね。誰か呼んでくれる人が要るんです。誰かが私達を呼んでくれるんです。神が聖書を通して呼びかけて下さったのです。あるいは色々な人を通して。私達の良心に、心に神を祈りなさい。その神の十字架の愛、救いの愛に対して、私達がハッと気がつき、真実をもって神に対して祈る時くらい真実な事はないのです。何故なら私達は神様を誤魔化すということは大凡ナンセンスなことで、そんな馬鹿げたことはありません。だからイエスは、あなた方の体を殺すことができても、あなた方の魂を殺すことができないような人間を恐れるなと言ってらっしゃいます。 ・・・

■録音空白部分■

・・・ 人間の最高の心の在り方、真実の在り方ということを指差している言葉です。

では、信じるということは心の動きから言いますと、どういうことでしょうか。その事についてお話し申し上げたいと思います。信じるということは、実は人間にとって一番易しいことなんです。寧ろ信じないことの方が難しいことです、本当のことを言うと。疑いなさい、信じてはいけません、と言われたら人間は生きていくことができなくなります。私達は何にも知らないでも、実は神様を信じて生きているんです。そうでなかったら、呼吸だって、眠ることだってできはしません。人間は、実はもう絶対的なものの保護を信じて生きているんです。小さい子供はお母さんをちゃあんと信じて生きています。信じるという心の働きがもし無かったら、社会生活だって一歩もできず大変なことになります。こういった信じる心が欠如した人は、大抵精神的におかしくなります。不安や恐れが強くなってきますから。もし信じるということをしなかったら、世の中や夫婦でも親子でも兄弟でも何でも疑いや不安の材料は尽きないんです。だから信じるということは、人間のごく自然な心の働きです。決して不自然なことではないのです。人間は信じる能力を持っているのです。疑うことができると同じように、信じることができるように造られているんです。これは本当に感謝なことです。神は死んだと言って神様を殺してしまった近代・現代人は、自分自身が死ぬより仕方がない状態になっている。絶望の中に生きている。神を殺すこと、心の中で抹殺することくらい、実はこれほど不便なことはないのです。

だから信じるということは決して不自然なことを心の中にするのではないのです。では、何をどういうふうに信じればいいのでしょうか。それはローマ人への手紙の第十章に詳しく述べられています。新約聖書の二四六頁、八節から十七節です。

† では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は「すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

信仰はどこから来るか。聞くことから始まるのです。では何を聞くのか。キリストの言葉です。信じるというのは人偏にことばと書きますが、日本語もなかなか考えていますね。人の言葉なんです。私はあなたを信じます、ということは顔を信じるとか、洋服を信じるとか、そんなことじゃあないです。その人の人格を信じるということです。その人の人格を信じるとはどういうことでしょう。その人の言うことを信じるということです。僕は君を信じるけど、君の言うことは信じないでは、その人を信じていないことになります。信じるとはその人の言っていることを真に受けるということです。心の中に心からそのまま受け取るということです。そして相手に応答するということです。だから信じるということは、イエス・キリストの言葉、福音の言葉、例えば新約聖書を読み、本当にイエス・キリストは私の罪のために死んで、死人の中からよみがえって下さったのだ、と信じるなら救われる、ということを言っているのです。心に信じただけでも、もう義とされると書いています。義とされるとは、よしとされるということです。それから、心に信じて義とされ口で言い表して救われると書いてありますから、どうしてもここではね、言い表す、告白ですね、信じますという言葉での告白が必要だと聖書は言っているんです。声に出す出さないは問題ではなく、言葉にして言うということが必要なんです。

もう一箇所開いていただきたい。ヘブル人への手紙の第十一章一節から三節です。三五四頁。

† さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

信仰によって、という表現がこの後に沢山出てきますが、信仰とは何か。第一は望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することだ、と書いてあります。大変面白いことが書いてあります。事実の確認が何でも一番難しい訳です。例えば裁判でも一番問題になるのは事実の確認です。交通事故だと目撃者が何人も出てくる場合があります。ところがその証言を調べてみると、衝突の瞬間を見たと言うのは嘘の場合が多い。ガチャンという音が聞こえた後で見た人が多いんだそうですね。だから本当の事実の確認にはならない訳です。裁判となるととっても大変ですね。多くの証言や証拠を集め事実の確認をしようとします。難しい問題になると、事実誤認の疑いとかでせっかく積み上げてきた裁判が覆ってしまうことだってあります。ですから事実を確認するということはとても難しいんです。事実を確認するためにどういう手段があるでしょうか。一番誰でもよく知っているのは、見るということです。見るのは事実の確認のために一番いい訳です。千回聞くより百聞は一見に如かずで、この目で見たというのが一番強い訳ですね。だからその意味では、聖書にはイエス・キリストの復活をこの目で見たんだという証人達の証言が一杯ある訳です。しかし、見るということは、一番確かなようで実はあんまり確かではないのです。また、見なければ信じないというのは一番幼稚です。心というものは目に見ることができません。目に見えないものは信じられないとしたら、私達は何も信じられないです。例えば、愛することとか、喜びとか、誠実さとか、真実さとか、これらのものは見るだけではないですね。私は体の不自由な友達が沢山いますが、目の見える人より目の見えない人の中に、もの凄く物事をちゃんとわきまえて知っている人がいます。それは聞くということの大事さを示しています。例えば目の不自由な人と耳の不自由な人がいたとして、どっちが物知りで、どっちが人間的に素晴らしい人かといったら、絶対と言っていいほど耳の聞こえない人が難しいです。目の見えない人の方が大げさにいえば十倍くらい、よく物事を知っています。耳学問というのは凄いんですね。それから、目の不自由な人は非常に勘が鋭いですね。逆に目は見えるけれども耳が聞こえなかったら、人とのコミュニケーションも閉ざされ、知識の吸収も遅れるだけでなく、閉鎖的な世界に自分をおくことになってしまいがちです。色々な面で耳の聞こえない人の方がうーんと不幸です。物事を知る一番大きな働きは聞くことにあります。見るということは大して役に立たない。なぜなら、心の中には、目に見えなくても「在る」ものが一杯あるからです。大凡精神的なこと、宗教的なこと、あるいは霊的なこと、形而上学的なことなど、世の中には見えることより見えないことの方が、本当はずっと領域が大きくて、ずっと深いのです。見えるものはいつでも結果なんです。見えるものはいつでも結果であり、形ある物は必ず壊れてしまう時がきます。見えるものは、本当は何も信じてはいけないと言ってもいいくらいです。見えないものの中に本当のものがある。私一人を考えてみても、そうです。見えるのは外側の肉体に過ぎません。その奥にある見えない私が本当の私です。全部そうです。心は見えません。ですから見えなくても聞くことができれば大丈夫です。しかも耳で聞くのではない、心で聞き、霊で聞くことができたら、聞くは神の言葉によるのです。例えば匂いだってそうですね。子供は物が焦げている匂いを嗅いでも、焦げていると分からない。事実を見ていてもまだ気がつかない。見るということではなくて、如何に心の目が発達していなければ、何も見えないかということが分かります。人間はもっと優れてきて、訓練されると、匂いを嗅がなくても、聞かなくても、見なくても、見えなくても、先程のローマ人への手紙の第十章に、「語らず言わず、その声聞こえざるに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及んだ」と詩篇(第十九篇)のことが少し引用されています。語らず言わず、その声聞こえざるに、その響きは全地にあまねく、そうですね。本当は聞く人が聞いたら、私達はこの自然から神の驚くべき愛のメッセージを聞くことができる。どこからでも聞くことができる。本当はそういうものなんです。科学の研究においても非科学的ともいえる目に見えない感覚やひらめきに多くを負っていると言っても過言ではありません。ですから、私達は目に見えないものでも知る手段は一杯あるのです。私達の物理的な存在は、時と場所(空間)に絶対的に支配され限定されていますが、霊の世界はそうではありません。霊の世界ではいつでも、私は居ながらにして火星に行くことができます。月のことを考えることができます。居ながらにして永遠を考えることができます。霊の世界は時間と空間を越えているものなんです。未だ見ていない事実を確認するということは、例えば、見てはいないけれども、匂いがしたら分かります。だから信仰とは望むところを確信し、未だ見ていない事実を確認すること、これは特に未来のことに関してですが。信仰の希望とはそういうものだ、ということをいつかお話したことがあります。人間的な希望というものは非常にはかないものです。希望ははかないという言葉と一番良く結びついた言葉で、大いなる希望とか、豊かな希望とか、バラ色の希望とかはあまり言わないです。それらは若い人のもつ感覚で、人生を歩むと本当は希望とは何とはかないかを痛感します。希望はその人の思いこみに過ぎないからです。期待に過ぎないからです。希望的観測に過ぎないからです。だから希望は直ぐ失望に終わります。希望が絶え絶望に変わることもあります。人間の希望は大体において確率に立脚しています。宝くじを買うのも競輪や競馬に行くのも僅かな確率を期待してのことです。そして当たらなければ直ぐに失望に変わります。

しかし、私達の信仰の希望はそんなはかない確率のものではない。天地を創造された生ける真の神の愛に対する期待です。それを私達は聖書の中からメッセージとして聞くのでございます。だからどうぞ本当によく聞いて学んで信じていただきたいと思いますが、最後は心が五一パーセントになったら、もう信じた方がいいですよ。信じて結構です。百パーセントまで分からなければ信じないと言っていると、永遠に中には入れない。中に入って初めて分かることも多い。寧ろあとから考えてみて、外側はほんの僅かなものであったことに気づくのです。人を知る場合も、どんなに戸籍調べをしても、その人の本質は分からないのと同じです。最後に知るのはその人との交わりの中にあります。話をしてみて分かるのです。愛し合ってみて一番良く分かるのです。

ですから、本当に知るには、繰り返しになりますが悔改と信仰によらなければなりません。では、そんなことが果たして人間にできるのか。本当はできないと言った方が良いのです。ローマ人への手紙の第四章の四節から八節をご覧下さい。二三七頁です。

† いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである」。

これは実は驚くべき言葉なんです。五節の「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」。働いたから神様が救ってくれる、神様がくれる恵み、それはもう恵みとは言わないのです。それは報酬と言われるものです。私達が正しくって真面目で立派で何かができて、できるから、ああいい子いい子と言って、何かを神様がくれるんだったら、それは恵みとは言わない。それは恵みではないのです。信仰の世界のことではない。それは律法と言います。律法とはそういうことです。律法の世界は、こちらが条件を果たせば救われるという条件付の愛なんです。ところが新約聖書は絶対にそうではないのです。働きはなくても、と書いてある。その次の五章の初めの方を読んでみると、私達がまだ弱かった時、とあります。弱いんだったら、私は弱いからと言っておとなしく、しおらしければいいのに、更に不敬虔である。不敬虔とは神を神と思わない傲岸さであり、不信仰である。あるいは罪人であっても、更に言えば敵であった時でさえ、神は私達に対して愛を現して下さった。その御子を十字架につけて私達を救って下さった、と第五章でパウロは言い直しています。今読んだ第四章では、働きはなくても、不信心な者でも、すなわち、働くことが嫌いでさぼって悪いことばかりしている上に、神様を恐れることさえしないような者でも、ということです。菩提の鹿は招けど来たらず、煩悩の犬は追えども去らず、という言葉がありますが、どうしようもない、箸にも棒にもかからないようなダメな人間でも、もし仮に信じるならば絶対的にゆるして下さる、ということを信じることができるならば、ということです。少し回りくどい表現ですが、私達は自分が何かできるから、自分に何か価値があるから、何か条件を満たすことができるから、ではないんです。イエス様は何と言ったでしょうか。健やかな者は医者を必要としない、要るのは病人である、と言っています。医者が要るのは病人です。そのように、私が来たのは、自分で正しいと思っている人を救うために来たのだ、罪人を招いてこれを救うために来たのだ、と言っておられます。イエスが来られたのは全くそうです。聖書では例えばイザヤ書の第四三章二五節を見てみましょう。旧約聖書の一〇〇五頁です。

† わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。あなたは、自分の正しいことを証明するために自分のことを述べて、わたしに思い出させよ。われわれは共に論じよう。

われわれは共に論じよう、喧嘩しようじゃあないか、と言っているのです。私は私自身のためにあなたの罪をゆるすのであって、あなたの罪は全然関係ない、私は私自らのためにあなたの罪を消す者である、ということ。

四六章三節。一〇一〇頁。

† ヤコブの家よ、イスラエルの家に残ったすべての者よ、生まれ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。

わたしは絶対に責任を持つ、というのが神様です。何故なら、わたしはあなた方を創造したのだから。愛さないということは、わたしにはできないんだと神はおっしゃっています。そういうのが、実は神様の性質なんです。もっと申し上げますならば、イザヤ書の第一章十八節です。九四三頁。

† 主は言われる、さあ、われわれは互いに論じよう、たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

緋とは何度も何度も染めて、真っ赤に燃えるように赤く染めた緋色のことです。さあ、わたしと・・・

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