植竹利侑牧師による入門講座⑩

第10講 教会とは何か

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入門講座の第10回目として、「教会とは何か」というお話をさせていただきたいと思っております。

私共はキリスト教会の信徒ですけれども、教会とは何かということは非常に大きな問題だと思います。先ず教会のことを聖書は何と言っているかといいますと、キリストのからだであると言っています。面白いですね。そしてキリストが教会のかしらだと言っているのです。頭と体がどっちが大事かということは難しいですね。どっちも大事です。同じように大事です。つまり、イエス・キリストは教会のかしらであってからだでもある、一体であるということです。イエス様と私達とは全く一つ。丁度、頭と体が一つであるのと同じように、全く一つだと言うのでございます。聖書を読んでみます。エペソ人への手紙の第一章にそのことが書かれています。二二節から二三節、三〇二頁です。

† そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

この二三節に「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているもの」とあります。その前の二二節に「彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。」と書いてあります。ですから教会はキリストのからだであり、キリストは教会のかしらでいらっしゃるお方です。もう一箇所、黙示録の第二一章を読んでみますと、ヨハネという人は教会はキリストの花嫁であるということを言っている。花嫁というのは何かと言いますと、花嫁さんというのは花婿さんが一番愛している者ですね。愛の対象ですね。誰を愛するといったって、花婿さんにとって花嫁さんが一番愛する者ですね。丁度、教会はキリストの花嫁であり、キリストは教会の花婿だと書いてある。キリストと教会の関係はそういう関係でございます。エペソ人への手紙の第五章にもそのことが出ています。この第五章は教会とキリストとのことを書いているところです。二三節から二四節、三〇六頁です。

† キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。

ここにキリストと教会とは全く夫婦と同じ関係だということを、この第五章の最後までパウロは何遍も何遍も繰り返して語っています。教会とキリストの関係はそういう素晴らしい関係なのでございます。コリント人への手紙でもパウロは、教会はイエス様の許嫁だと言っています。天国へ行った時には花嫁さんになるのですが、地上にいる間は許嫁みたいだと言っているのです。大変美しい例え話ですね。

今日は教会についていくつかのことを申し上げたいのですが、第一に「教会」という言葉の説明を致します。

教会というのはエクレジアとかエクレシアと言います。この言葉は市議会(市会)のことを指します。昔ギリシャの国には都市国家と申しまして、アテネとかコリントとかという町はみな一つずつ独立した国家だったのです。その都市国家には必ず議会がありました。そしてその議会で今日と同じように色々なことが決められる訳です。その議会は、市民の中から特別に選ばれて召された人々で構成されていました。そのように議会(市会)という言葉をエクレジアと言いましたが、神様はこのエクレジアという言葉を利用されて、神のエクレジア、神の教会、神の市会というふうにこの言葉(教会)を呼ぶようになったのでございます。すなわち、教会はこの世の中から召された人達の集まる所、召された人達の集いということです。私達は今この集会に召されて来ているんです。自分で来たと思っていらっしゃる方も多いかも知れませんが、後で分かります。クリスチャンになった人達はみんな自分で来たのではなくて、神様が私を召して下さったから来られたんだということがやがて分かってきます。そうでなかったら、そんなチャンスは絶対なかった筈なんです。誰かに勧められたり、中にはだまされてうかうかと教会に来られた人もいらっしゃるかも知れません。しかし、後で分かりますが、この世の中から召されたということなんです。神様が召して下さったのです。ですから、市議会というのは市民の中から選ばれ召された人達が集まって色々なことを協議するように、教会というのは、この世の中から神様のお召しによって召された人達の集まりのことを指すようになったのです。このエクレジアという言葉は終いには教会が独占してしまいました。市議会の方は別の言葉ができて、エクレジアと言うとそれは教会のことを指すようになったのでございます。教会という言葉が一番最初に出てくるのは、マタイ福音書の第十六章十六節から十八節です。そこでイエス様は、「ペテロ、お前は幸いだ、お前はペテロだ、私はお前の上に私の教会を建てよう」とおっしゃっています。これが多分一番最初ではないかと思います。教会という言葉がその時、最初に出てまいりました。

では、教会とは一体何かと申しますと、教会には二つ種類があるんです。一つは、使徒信条に「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」という言葉が出てくるのをご存じだと思います。その聖なる「公同の教会」(公同教会)という、これが教会の第一番目の種類です。公同教会とは、世界中の人達、すなわち、救われたクリスチャン達全員が属している目に見えない教会です。だからそれはキリストのからだなる教会ということです。皆様がもし本当にイエス・キリストを信じる信仰をお持ちになりますと、つまり救われると、洗礼の有無に関係なく自動的にその人はキリストのからだなる教会に連なることになるのです。だから、これは目に見えない教会と言えます。そして教会の歴史が始まった一番最初から今日に至るまで、本当に救われているクリスチャン達は、全員この目に見えない公同教会のメンバーなのです。

もう一つの種類は「地域教会」と言います。例えばコリント人への手紙の第一章を読んでみると、コリントにある神の教会の皆さんによろしく、とパウロは手紙を送りますよと言って書いています。コリントの教会というのは大変問題の多い教会で、分裂があったり、争いがあったり、色々なことがあって罪を犯す人が大勢いたり、それを平気でいる人がいたりということで、あまり良い教会ではなかったのではないかと思われる節のある教会でした。そんな教会でもパウロ先生はコリントにある神の教会と言っています。コリントにあるとか、エペソにあるとか、ローマにあるとかといった具合に、地方地方に存在している教会のことを地域教会と呼ぶのです。だから私達の教会は広島の出汐町にあるので、広島出汐なんとか教会と呼びます。あるいは広島市の西の方にあれば広島西部教会とか、東だったら東部教会とか名前がついていますね。これは地域の教会です。これらは大体において地方のその存在する町の名前をよくつけています。習慣上ですね。コリント教会、エペソ教会みんなそうです。ですから、これは目に見える教会です。先程の公同教会が目に見えない教会であったのに対して、こちらは可視的な教会と言えます。教会と言えば、普通には目に見える建物を思い浮かべますが、それは会堂を指します。しかし、それは教会堂、礼拝堂といった建物であり、教会ではないのです。教会とは建物のことを指しているのではないのです。二人、三人、私の名によって集まる人がいる所に私もその中にいる、とイエス様はおっしゃっています。イエス・キリストを信じる人が二人、三人集まっている所は、もうそれが教会を成しているのです。だから聖書の中に、家にある教会の皆さんによろしく、と書いてあります。昔の教会はみんな家の中にあったのです。これはもう立派な教会です。今この集会をKさん宅で行っていますが、もしこれが単独で独立しているとすれば立派な教会です。一人では教会になりませんが、二人以上のイエス・キリストを信じる人々が集まっているとすれば、その集まっている人そのものを教会と呼ぶのです。だから建物のことではありません。

第一番目に教会という言葉の意味を申し上げ、次に教会の性質・種類についてお話しました。

第三番目は、教会の使命ということについて学んでみたいと思います。

その第一は「宣教」ということです。宣教とは教えを宣べ伝えるということで伝道とも言います。伝道する、宣教するということが教会にとって一番大きな使命です。ですからイエス様は使徒行伝の第一章で、「あなた方はやがて聖霊を受けるであろう、上から力を与えられたら出ていってエルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、地の果てまで私の証人として伝道しなさい。」と言って勧めています。私達の教会の一番大きな使命は福音を伝えるということです。第二は「礼拝を守る」ということですね。礼拝というのは何でしょうかね。礼拝とは神様に私達の真心を捧げる、心からの感謝と讃美と喜びとをもって神を崇めること、感謝を捧げることです。礼拝とは、私達神様を信じる者の礼儀と言ったらいいでしょうかね。私達の教会は広島出汐平和教会と言いますが、本当に感謝なことは毎日曜日の礼拝には七~八〇人程度の人が集まっていらっしゃいますが、礼拝が始まる時間には殆どの人が来て下さっています。これは本当に感謝です。最初の奏楽の時には八〇パーセント位の人がちゃあんと集まって下さっています。初めから終わりまで来て下さる。それは非常に素晴らしいことですね。礼拝に遅刻しないということは神様に対する非常に大きな礼儀だと思います。ですから礼拝を守るというのは、これは義務とか責任とかではないんです。礼拝を守ることができるということは、素晴らしい私達の特権と言えるのです。一週間の一番最初の一番良い時間を神様にお捧げして、そして心を神様に向けて礼拝をして、その一週間は本当に素晴らしいものです。礼拝を日曜日の朝一番に守るということは、一週間の全部を神様に捧げているのですという気持ちで守るのです。だから、礼拝を守らなければならないとか、守らなければいけないとかとは私は思いません。もし守ってはいけないと言ったら、死んでしまった方がいいと思う程、それ程礼拝を守るということは素晴らしいことです。守らなければいけないと言われて守るのなら、その礼拝はつまらない、いやいやながらのものになってしまいます。そうじゃあないですね。私達は礼拝に行ってはいけないと言われたら、命がけでも行きます。行きたいです。守りたいです。礼拝とはそういう場所です。ですから、礼拝を守るということは、教会に与えられている大きな大きな恵みです。

礼拝の中には三つの要素があるんですね。第一は「讃美」です。第二は「お祈り」です。第三は「説教」です。讃美と祈祷と説教というのは礼拝の三位一体です。この三つが揃わない礼拝は礼拝にならないんです。その中の讃美とは褒め称えるということです。神様を誉め称える。そして本当に神様の恵みを受け入れるということです。礼拝の三位の中には、誉め称えるということと、受け入れるということと、心から肯定するという意味があります。ああ、本当に神様を讃美しますということです。神様を讃美できるということは実に素晴らしいことですね。讃美をしてはいけないと言われたら、私達はどんなに悲しいでしょうか。神様を誉め称えるということは本当に素晴らしいことです。

第二番目の祈祷についてです。祈祷の中には、先ず感謝という要素があります。感謝と、願いと、取りなし、というのがお祈りの三つの要素です。お祈りすることができるということは実に素晴らしい。神様を知らない人は祈るとか讃美するとかということを知りません。讃美の代わりに不平ばかりブツブツ文句を言って暗い顔をしてますが、私達は、「ハレルヤ!」と本当に感謝します、讃美しますという心で満ち溢れています。今度の日曜日には、私は絶えず感謝しましょう、というお話をするべく準備をしていますが、準備している時から感謝が溢れてきてしまいます。嬉しくて仕方がないですね。感謝ができるということは何という素晴らしいことでしょうか。私の知人に奥さんがクリスチャンでご主人がそうでない人がいます。子供さんが病気になった時に、その子供の枕元で本当に心を込めて子供の病気のために神様にお祈りをしていたそうです。すると、ご主人が荒々しく二階に上がって来て、何をそんなくだらないことをしているのか、早く医者に連れて行け、と言ったということです。はい、直ぐ連れて行きますと言って奥さんはご主人が大変乱暴な人ですから、直ぐお医者に連れて行ったのですが、その時奥さんは思われたそうです。勿論お医者には連れて行くのです、しかしお医者さんは神様ではない、人間です、勿論お医者さんにお願いするのだけれども、その前に先ず私達に命を与えて下さり、私達を生かしていて下さる神様にお願いせずにはおられなかったということです。祈ってはいけないと言われたら、私達は本当に寂しく、どんなに辛いことでしょうか。讃美して、感謝して、お祈りができるということほど素晴らしいことはないと私達は思っています。だから、お祈りの中には先ず感謝があります。感謝のないお祈りというものはかたわですね。お祈りしようと思えば、先ず感謝が溢れてきます。そしてその感謝の中から願いが生まれてきます。その際も、自分の勝手な事ばかりを願うのではなくて、他の人のために愛をもって、心から取りなしをするというのがお祈りの中の三位一体です。

説教というのは、先ず第一は宣教です。御言葉を宣べ伝えるということですね。福音を伝えるということです。神の愛を宣べ伝えるということ、十字架の救いのメッセージを語るということが説教の第一の要素です。第二の要素は訓戒といって、こういうふうに生きましょう、人を愛することやへりくだることや、人を許すことや、色々なそういうことに対してですね、人生における様々な生き方に対して訓戒をするということです。もう一つ説教の大事な要素は、奨励・激励、慰めと言ったらいいでしょうか。病んでいる人を慰め、悲しんでいる人を慰め、苦しんでいる人を力づけ励ますという要素です。だから、礼拝を守る人と守らない人とでは、全く違いますよ。本当に礼拝に出るということは私達の大きな特権です。本気で礼拝に出たら、その一週間はどんなに豊かな力が与えられるか分かりません。先ず神様を誉め称えるということ。本当に素晴らしいことなんです。そうでなかったら、日曜日の朝、寝たいだけ寝て、生あくびをして、そして寝てよう日ということで、日曜日がなんであるかさっぱり分からない人がいます。あるいはデパートへ遊びに行く日だと思っている人がいます。そうじゃあないです。英語ではホリデーと休日のことを言いますが、ホーリー・デイということで、聖なる日という意味です。先ず最初に神様を礼拝する日です。私は牧師ですが、私だってもし日曜日の礼拝を守らなかったら、たちまちの内に変になると思います。牧師であっても、一週間の最初に礼拝を守らなかったら平気ではおられないです。恐らく霊的に心が暗くなっていくだろうと思います。だから本当に神様を礼拝するということが教会の使命の第二でございます。

第三番目は聖礼典を守るということです。聖礼典というのはサクラメントと言うんですが、これには二つあります。その第一は洗礼であり第二は聖餐です。洗礼式と聖餐式です。イエス様がマタイ福音書の第二八章の終わりの方で、あなた方は地の果てにまで行って、あなた方は全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい、そして全ての人達に洗礼を授けて私の弟子にしなさいということを言ってらっしゃいます。洗礼というのはイエス様自身が受けていらっしゃいます。ヨハネという人の所へ行って私に洗礼を授けて下さいと言うと、ヨハネはびっくりして、いいえ、いいえ、とんでもない、私の方こそ洗礼をあなたから授けて下さいと言うと、イエス様は、いいえ、今は全て良いことはみんなさせておくれと言われ、イエス様はご自分で洗礼を受けていらっしゃいます。前回申し上げましたように、洗礼というのは罪のゆるしを意味しています。と同時に、洗礼は水の中に浸るということでバプテスマと言います。バプテスマというのはバプティゾーという言葉から出たもので、浸るということです。浸るというのは漬け物のようにひたひたと水の中に入ることですね。浸るというのは水の中に入ることによって、キリストと一緒に死んだということです。それにより、今までの私の古い人生は死にましたということを表すのです。そして第二は、水から上がったということは、キリストと一緒に死んだ私はキリストと一緒に蘇りました、新しい命を歩みますということで、これが洗礼の一番大きな意味です。きのうゴスペルエイトという集会がありまして、話し合っていると、私どもの教会員でMさんという方がおられ、この方は昨年来一度も休まないように本当に熱心に集会に来ておられます。この方は熱心に求めておられ、ご自分の生活も変わられたんですね。そのことに周りの人もみんなびっくりしておられます。その人が昨夜話している内に洗礼を受けると言い出され、受けるんだったら今すぐ受けたいと言われるのです。それが夜中の十二時前でした。外では雨がドシャドシャ降ってるんですけどね、今すぐでも受けたいとのことでした。行きましょうか、行きましょうということでね、夜十二時を過ぎてから自動車を出して、同席の九人の人達と可部の手前の深川という所にある川に洗礼を受けに行きました。雨の中での実に素晴らしい感動的な洗礼式をすることができました。本当に素晴らしいですね。聖書の中に書いてあります。エチオピア王国の女王カンダケの高官であった人が聖書を読みながらエルサレムに礼拝に行き牛車で帰途にあった。そこにピリポという人がいた。聖霊が行けと言ったので行ったと書いてあります。そしてカンダケの高官はイザヤ書の第五三章を読んでいた。ピリポは側に行って、あなたはその読んでいらっしゃる言葉の意味が分かりますかと言ったら、いいえ、手引きをしてくれる人がいなければよく分かりません、とその高官は答える。そうしたらピリポは一緒に牛車に乗って、その言葉からイエス様の十字架の話などじゅんじゅんと説いて聞かせた。そうしたら、その高官は牛車を止めて、先生、今ここに水があります、私が洗礼を受けるのに何か差し支えがあるでしょうかとピリポに尋ねると、ピリポは、いいえ、何もありません、あなたが真心から信じるなら洗礼を受けて差し支えありません、そう言ってその場で水の中に降りて洗礼を受けたという話が書いてあります。本当に救われてイエス・キリストの十字架の救いを信じるならばということで、このMさんの劇的な出来事を紹介させていただきました。本当に感謝です。

洗礼の先ず第一の意味は、その時死んで蘇ったということです。第二番目は信仰の告白です。口で言ったことは証拠にならないとか、文書にして押印しなければ駄目だとかよく言いますね。しかし、口で表すんではない、全存在をあげて水の中に入ったということは、それは歴史的な事実なんですね。だから洗礼を受けるということは、歴史的な事実として、私共はその人の生涯に忘れることのできない事実として残るということでございます。第三番目は、教会に入会するという意味です。残念ながら二千年の教会の歴史の中で、洗礼を受けないままで教会の会員になった人は一人もいないんです。そういう制度ですから仕方のないことです。最低限守らなければならない儀式の一つで、教会に属する儀式です。洗礼を受けた時に自動的にその人はキリスト教会のメンバーの一人になります。だから洗礼式というのは教会に入会するということです。だから洗礼を受けていらっしゃらない時は求道者と普通呼びます。教会でいえば、いわばお客様です。何年たっても洗礼を受けていない人はお客様です。お客様ですから大事に致しますし、お客様でなく早く家族の一員になって欲しいと思いますが、洗礼を受けないと家族ではないんです。そういう訳で、洗礼は教会に与えられている大事な儀式の一つでございます。もう一つは受洗後の人達が聖餐式を守るということです。カトリックの教会では聖餐式というのを非常に大事に致します。そして礼拝とは言わないでミサと呼びます。ミサというのは聖餐式のことです。カトリック教会の人々の考え方によると、説教を聞くとか、讃美歌を歌うとかということも大事ではあるけれども、もっと一番大事なのは、イエス様のからだである聖餐にあずかる ・・・

■録音空白部分■

・・・ イエス様が私達与えて下さった儀式として、聖餐を守ることをパウロは奨めています。ですから、教会が行うところの大事な大事な儀式は二つで、洗礼と聖餐と決められています。プロテスタントの教会では毎週するという所は余りなく、月に一回すればよくする方の教会だと思いますが、別にいつしなければならないという決まりは持っておりません。しかし、イエス様ご自身が教えて下さった制度ですから、聖餐式を守るということは素晴らしいことだと思います。

教会の大事な使命の第四番目です。それは聖徒の交わりということです。交わりです。信仰生活というものは、どうしても交わりが必要です。交わり無しには信仰の生活を保っていくことは難しい。その意味においてですね、一月に一回教会に行く程度ではなかなか恵みというものは進んでいかない。励ましにならないですね。どうしてもこの世の中の考え方や遊ぶこと、その他に負けてしまう要素があります。どんなに燃えている薪でも、その一本を離してしまうと当分は燃えていますが、段々と消えていきます。最後にはくすぶってしまいます。そして、あるんだかないのか分からなくなってしまいます。例え、一人で聖書を読んでいるから大丈夫だといっても、一人では駄目ですね。私達の心が燃えるのは、矢張り寄り集まってみんなで交わりをするということが大事です。だから集会に出るということはとっても大事なことです。みんなが寄り集まっていると、一緒に心を合わせて集まっていると、心が本当に燃えます。誰かをお導きしよう、伝導しようといっても、一人で伝導はできないんです。なかなか難しいです。矢張り、その伝導の時にみんなが協力し合って助けたりするとですね、非常に効果があります。先程お話したようにMさんが救われるために、みんなが心を合わせていますね。色々な面で心を合わせています。私は説教をします。そして、色々な面で交わりをしてその人を導く人がいます。そう風にしてみんなが救われていくんです。私が救われるためにも、随分大勢の人達の愛の労があったと思います。一人でどんなに頑張ってもなかなか難しいですね。ですから伝導のためにも、自分の信仰の励ましのためにも、交わりというものはとっても大事なんです。教会の本当の交わり(コイノーニアと言います)というのはリクレーションをするとかね、一緒に遊びに行くとか、そんなことではありません。共に礼拝を守るということが一番大きな交わりです。

教会の使命は他にもあると思いますが、今気づくことをいくつか申し上げました。それは、宣教であり、礼拝であり、聖礼典を守ることであり、交わりであるということを申し上げました。

今度は大きい第四番目です。教会の歴史ということですが、このテーマも極めて大きなものですので、ここでは最低限知っておいていただきたいことをごく簡単に申し上げることにします。初代の教会には何の制度もないし、取り決めもないし、制約もなかったことと思います。初代教会は迫害時代でしたから、地下に潜っていましたから、何にも特別な制度というものはなかったことと思います。そして別にその教会を支配するものもなかったと思います。やがて迫害時代が終わってから、カトリック教会の時代になります。そしてこのカトリック教会の時代が非常に長く続いたのですが、歴史的には東西のローマに分裂したことがありますが、そういう色々なことが理由でカトリック教会が二つに分裂します。一つは西のローマンカトリック教会、もう一つは東のギリシャ正教会とに別れました。ギリシャ正教というのは今日ではスラブ民族というんでしょうか、ロシアを初めとして東欧の国々で今でも非常に多いですね。ローマンカトリック教会は、言うまでもなくイタリアのローマを中心としてラテン民族、例えばスペインとかポルトガルとか、南アメリカなどは殆どローマンカトリック教会となっています。それから、そういう時代が長いこと続いた後で、ルネッサンスを経過してから宗教改革が十六世紀にマルティン・ルターを初めとして、ドイツでマルティン・ルーテル、それからスイスでジョン・カルビン、スコットランドでジョン・ノックスといった人達が次々と立ち上がって宗教改革の時代が始まります。それで、カトリック教会に対してプロテスタント教会という教会ができたんです。プロテスタントというのはプロテストする、抗議するという、抗議者・反抗者という有り難くない名前です。どうしてプロテスタント教会なんていう反抗者ができたかと言いますと、カトリック教会の行き方が少し間違ってきたんではないかという気がするんです。

カトリック教会というのは今でも世界で一番大きな教派ですね。非常に強い組織を持った、ローマ法王という偉い方を頂点としてできている素晴らしい巨大な教会です。先程申し上げましたマタイ福音書の第十六章をみると、あなたがたは、世の中の人は私のことを誰だと言っていますか、とイエスが弟子に聞くんです。すると、お弟子さん達は、あなたのことはイザヤだ、エレミアだ、エリヤだと色んなことを言っている人がいます。昔の偉い預言者だと言っています。では、あなたがたは私のことを誰だと思うかね、とイエス様がお聞きになると、ペテロがすかさず、あなたはキリストです、生ける神の子キリストです、と言って答えたんです。これが最初の信仰告白だと言われています。そこでイエスは非常にペテロをお褒めになって、ペテロよ、あなたはペテロである、私はお前の上に私の教会を建てようとおっしゃったのです。ペテロというのは岩という意味です。この岩の上に私の教会を建てる、とイエス様はおおせになったのですね。そして、天国の鍵をあなたに与えよう、とおっしゃったのです。そこで、ペテロが教会の基礎だということになりました。ペテロはローマで殉教したのですが、ローマに大勢のクリスチャンができましたが、やがて三一二年、コンスタンティヌスという皇帝がキリスト教を解禁いたしまして、今まで迫害されていた教会が一挙にローマの国教として迎えられたんです。その当時、ローマに一番大勢のクリスチャン達がいましたので、ローマの教会が一番強くなりました。コンスタンチヌス大帝は自分の都をコンスタンチノープルという所に移しましたので、都であったローマは空になった訳です。京都から東京に都が移された様なものですね。しかし、昔からの長い長い伝統を持ったローマの都には非常に大きな栄光がありましたので、ローマの教会が強くなって、ローマ法王という組織を作った訳です。それは先程申しましたように、ペテロが教会の岩だから、ペテロ直系の監督である偉い人が宗教上の王様(法王)になるべきだと考えてそういう組織を作ったのです。

ローマンカトリック教会の大きな特徴は、イエス様が十字架について、私達の罪のために死んで下さって、私達はゆるされて救われるのであるが、教会にも人々が救われるために必要な功績があると考えました。何故ならば、教会には大勢の殉教者が出たからです。だから教会も素晴らしい存在価値がある、功績があると考えたのです。功績思想と言いまして、教会にも権威がある、人が救われるためには役にたっているんだという考え方をした訳です。だからローマンカトリック教会というものは、その教会を経なければ、すなわち人は十字架だけでは救われないという風におっしゃる。教会の権威というものを非常に高く評価している立場です。そこにローマンカトリック教会の存在の価値がある訳です。そしてその中で一番偉いローマ法王様というのはペテロの直系であるから、ローマ法王様の祝福のない教会は本当の教会ではないんだ、モグリで偽物だという訳です。そして人のいさおしというものを高く買うという考え方、つまり聖人達が取りなしをしてくれると、聖人のいさおしが私達が救われるためには価値がある、ローマンカトリック教会には大勢の聖人がいたから、かつての歴史の中にいたから、ローマンカトリック教会に属していなかったら救われないぞ、という訳です。そしてそういう考え方は、イエス様だけではなくて、マリヤ様を崇拝したり、ペテロ先生を崇拝したり、色んな聖人達を崇拝するという信仰になっていった訳です。過去の聖人達のいさおし、功績が現代の人達を救う力があるとすれば、現代の人々のいさおしは過去の人を救うことができる、あなたがたのおじいちゃんやおばあちゃんが救われないで地獄(煉獄)に居る場合にですね、あなたが献金すれば、やがておじいちゃんやおばあちゃん達も救われますよ、死んだおじいちゃんやおばあちゃん達も救われますよと言って免罪符というものを発行したのです。それがきっかけとなって宗教改革が行われたのです。

宗教改革の信仰はどういうものであったか。その第一番目は、ペテロが偉いんじゃあない、ペテロという人間は失敗ばかりしているつまらない人間だ。勿論、ペテロは立派な人ですが、個人を尊敬したり偶像化したりしてはいけない、どんなにペテロが偉い人であっても、ペテロが教会の基礎ではありません。イエス様がペテロよ、お前は偉い奴だ、大したもんだとお褒めになったのは、ペテロ個人を褒めているんではなくて、あなたはキリスト、生ける神の子ですという、ペテロが言ったその信仰告白が教会の基礎なのだ、そういう信仰が教会の基礎であり礎なのだ、信仰告白が教会の基礎なんだ、だからどこででも正しい信仰告白をすれば、そこに教会が建つんだ、それが教会の土台だ、それが私達の考え方なのです。そいう具合に先ず考えます。そして十字架だけで人は救われる、イエス様だけで十分である、あるいは聖書だけで十分であると考えます。ローマンカトリック教会には公教要理といって、聖書に書いてないことまで信じないと救われないということになっていますが、それは間違いで、聖書だけでよろしい、十字架だけでよろしい、イエス様だけで十分だ、マリヤも要らない、法王様も要らない、聖人も要らない、イエス様だけでよろしいということです。行いとか、律法とかではなく、信仰だけでよろしいんだということです。あなた方が救われたのは行いに依るのではなくて、信仰に依ると聖書は言っているではないか。だからプロテスタントは、聖書のみ、信仰のみ、十字架のみ、キリストのみで救われるという考え方です。誰かにおすがりしなければ、誰かにお願いしなければお祈りすることもできないのではない。万人祭司論といって、一人一人は全部神様に直接お祈りすることができる、別に法王様にお世話にならなくてもよろしい。私達牧師はカトリックでは神父さんというのがいて、神父さんというのはとっても偉くてですね、神様の代理人だといっているんです。神父さんを通さなければお祈りすることもできない、罪もゆるされないと考えられています。私達はそんなことはない。人は誰でも、その人だけでお祈りすることができます。信じて救われることができます。人のために取りなしをすることもできます。私達牧師というものは、神様と人間との中間に立っているのではないのです。反対に、私達は人間の側で、その信徒の方達の分からないことをお導きしたり、先程申し上げたとおり慰めたり励ましたり教えたりするのが私の仕事です。別に神様と人間との中間にいる訳ではないのです。教会の権威なんてものは何にもないです。そんなものを人間が作る必要はないと思います。おれは偉いんだと言ったって、お前なんかつまらないくだらない奴だと言われたらそれでお終いですね。だけども、自分が私は偉いんだぞなんて言わなくてもですね、どうかあなたが私達を指導して下さいと言って大勢の人達が集まってくれば、その人はやはり指導者です。いくらおれは指導者だと言っても、誰も来なかったら指導者でも何でもないですね。だから、人間の作った権威などというものは何にも要りません。私達牧師は聖書を解き明かす、神様の御言葉を解き明かすという権威があるだけです。私個人に権威がある訳ではありません。聖書に権威があるんです。神様に権威があるんです。すくって下さる神様の実力に権威があるんです。だから私が神様に本当に真心から従っている限りにおいてですね、少しだけ、ほんのチョッピリだけですね、神様の御言葉を宣べ伝えるために召して下さったという、ほんのちょっとだけ特権があるかも知れませんが、それ以外の何ものでもありません。むしろ私達の教会は用務員教会だとみんながそう呼んでいます。長老さんとか役員さんとかは今のうちの教会にはないことにしております。どういう名前があるかと言えば用務員という名前があるだけです。教会の用務員ということです。蔭に隠れて奉仕だけちゃんと一生懸命すればよろしい、いつクビになってもいい。ひとつも威張らなくていい。牧師が用務員のトップです。だから私達の教会は、出汐のドブの上用務員教会という名前にしようと言っています(笑)。誰も偉い者がいない、そういう考え方をしようかと話し合っています。

そういうふうに宗教改革というのは、聖書だけでよろしい、信仰のみでよろしいのだ、十字架だけが人を救うんだという考え方です。そして宗教改革の後にプロテスタント教会というものができてきます。厳密な意味において、プロテスタント教会というものはローマンカトリック教会のように、誰も規制したり、命令したり、そういうことはできない。信仰は全部自由であり、一人一人が自由なんだ、信教の自由ということは本当に全ての人に保証されなければならないという立場です。だから、プロテスタント教会ではみんな同じです。全部同じ仲間です。特に偉い人は誰もいない。もし偉い人というものがあるとすれば、どれだけ多くの人に心から仕えることができるか、その仕えることができるその人の大きさが、強いて言えば偉さということになるでしょうか。それ以外にはないですね。何か賜物とか力とか才能とか能力のあるということは、それを用いて人に奉仕しなさいと言って神様がそういう才能を与えてくれたんです。だからそれを自分のためだけに使ってしまってはいけないですね。才能があるということは、それを生かして人に仕えるべきです。例えば音楽ができるということは、自分だけが楽しむんだったら正確に演奏しなくても勝手にやっていればすみますが、人に聞かせよう、人を喜ばせようとしたら、正しく、そして厳しく誠実に、本当によく訓練された音楽をしなければ駄目です。ましてや神様を讃美しようとしたら、本当に正しい讃美をする、心を込めて讃美することが必要です。そういう意味において、教会というものは本当にお互いが仕え合う、奉仕し合う、愛し合う場所だと思います。以上、教会の歴史ということで申し上げました。

次に、教会に人が集まると自然とルールとか政治とかというものが起きてきますが、教会政治ということを第五番目に申し上げたいと思います。教会には「監督教会」と「長老派教会」と「会衆派教会」という三つの行き方があります。監督教会というのは誰か偉い人が一人いて、その人が全部命令したり任命したりですね、何かを指示したりするのがそれです。ローマンカトリック教会は非常に強い監督教会ですね。ホーリネス教会も昔そうでしたし、メソジスト教会は監督派教会と今でも呼ばれています。それから長老派教会というのはみんなで選んだ、あるいは監督さんが選んだ役員の人が長老と呼ばれ、その長老さん達が政治をするものです。色々な取り決めをしたり実行したりします。会衆派教会とは、洗礼を受けたクリスチャン達全員が協議して物事を決めていくやり方です。幸いなことに私達の教会は誕生したばかりで、教会組織というものをしておりません。まだ教会ではなくて単なる集会です。だから広島出汐平和教会というのは仕方なしにつけているのですが、一番命名したい私達の教会の名称は「生きるための希望の集会」という名称です。私もまだ牧師ではないんです。長年牧師でありましたから別に牧師といってもいい訳ですが、牧師でなくてもいいと思います。本当に用務員で結構ですね。だから牧師もまだおりませんし、役員の人もまだ誰もおりません。古い方は長老さんとして尊敬をもって長老さんと呼んでいますが、そういう役職の人もまだおりません。一番素晴らしい良い行き方を模索して、一番素晴らしい教会の在り方を作りたいなあと今考えています。まだ一年位かかってもいいと思っています。どんどん新しい方が来られており、今後三〇名、四〇名、五〇名の方が受洗されると思いますが、それから一番いいやり方を模索していって教会の在り方を決めていきたいと思っています。私達の教会の特徴は、戒律とか会規とかは何にもありません。何にもありません。お酒を飲み煙草をすったりするのも、健康上は良くないだけであって、私は宗教上ではそんなことはどうでも良いと思いますね。イエス様だって、ヨハネが来て飲み食いしなければ ・・・と、人の子が来て飲み食いすれば、こんなでたらめな奴はいないと言って批判するとイエス様は言っていますが、イエス様だってそういうたしなみをなさっていたかも知れません。だけどそれは戒律ではないですね。十一献金とか聖日礼拝とか色んなことがありますが、私はそれを戒律としてとったら、これは途端に律法主義に陥ってしまう、守った人は守らない人を裁くようになってしまう、戒律というものは何もないと私は思います。むしろ愛があって、本当に神様を愛する心があって、人を愛する心があって、自分自身を正しく愛するならば、戒律では守ることのできない高い高い素晴らしい標準を自ら喜んで守ることができるんです。ですから、与えることに対して本当に自由で、愛と謙遜と信頼と奉仕の精神で教会ができていったら素晴らしいなと思っています。

以上のような訳で教会ということに関して五つのことを申し上げました。教会はキリストのからだであり、キリストの花嫁である。教会は目に見えない教会が本当の教会です。目に見える教会は便宜的にあるだけです。私達のこの教会だって便宜的なものです。集まる場所も必要で会堂もやがて建つでしょう。そして地上にある間は矢張り組織が必要ですから、何らかの組織ができるかも知れません。しかしそれは本当の教会ではなく、本当の教会はキリストのからだという目に見えない教会です。本当の教会はキリストの愛の対象であり、キリストの花嫁と呼ばれている目に見えない教会です。私達はその教会のメンバーであることに、本当に素晴らしい生き甲斐と喜びとを感じています。この地上でそんな教会組織をして、そして誰かが何かを命令したり、そんなことは一切必要ないと思います。便宜的に仕方なくそんなものをやがてつくるかも知れませんが、イエス様が命令された洗礼と聖餐は守りたいと思います。イエス様が直接自分さえも受けて下さった洗礼ですから、私達もそれをしたらいいと思いますね。それ以外には何もありません。本当にただそこで礼拝があり、讃美があり、感謝があり、喜びがあり、輝かしい交わりがあればそれで立派な教会だと思います。そういう理想的な教会を必ずつくっていきたいと思っております。

以上で、教会とは何かということと、どういう風にあればいいかということまでお話が及んでしまいました。私達は本当に良いキリストにある交わりをつくっていきたいと思っております。これで本日のお話を終わります。

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