植竹利侑牧師による入門講座③

第3講 人間の罪について

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入門講座の第三講を始めさせていただきます。今日は「人間の罪について」と題してお話させていただきたいと願っております。

罪をどのように理解するかということによって、その宗教の性質が一番良く分かります。何故ならば、罪をどのように理解するか、罪をどのような問題として感ずるかということは、その宗教がその問題に対して、どのような回答を持っているかということと同じだからです。例えば学校の先生が自分でも解くことのできないような問題を出題することは絶対ない訳です。自分で解けないような問題を出してしまったら、この先生は恥をかかなければいけません。ですから、罪というものをどのように理解するか、罪とは何ぞや、とその宗教がどのように言っているかということを見ると、それに対する答えが分かります。その答え、即ち救いです。その罪からの救いが分かります。本当に人を救うことのできない教えであったならば、必ず罪をうやむやにしていますね。鋭く罪の問題を突いてこないです。例えば多くの人々は罪とは何かと言ったら、罪とは無明、光が無いこととか無知であるとか迷いであるとか人間の欲望であるとか色々なことを言います。しかし、聖書は人間の罪がどういうものであるかということを、本当に明確に私達に語ってくれているのでございます。従って今日罪のことについてお聴きいただくことができるならば、次にお話するキリスト教における救いとは何かということが、本当にはっきり分かるようになると思います。

そこで先ず罪とは一体どういうことか、ということを申し上げたいと思います。先ず第一に、創世記の第三章を開いていただきたいと思います。先週、創世記の第一章と二章を学びましたので、第三章をご一緒に学ぶことで段々とその輪郭がはっきりしてくると思います。第三章一節から十九節をお読み致します。

† さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実をとって食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みおく、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたはくるしんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

これが最初の罪の物語、誘惑の物語です。サタンの誘惑と堕罪の物語です。誘惑というものは、ある神学者が言ってますが、可能性と傾向性がないと誘惑にならないのです。どんな誘惑でもそうです。例えばお酒が好きでない人には傾向性がないから誘惑がありません。煙草が嫌いな人は、煙草をすいたい傾向性がないから煙草は誘惑にはならないんです。傾向性がないところには誘惑は働かないんです。要するに好きでないことは誘惑にならない訳です。気持ちがなければ誘惑はないんですね。もう一つの誘惑の特徴は可能性です。どんなに好きでも絶対できないことは誘惑にならないですね。アダムとエバの墜ちた誘惑も、その可能性に対して誘惑があったんです。その可能性とは何かと言うと、先週お話してきましたように人間の自由意志、人格、自由というものの中にこの罪の可能性があるのです。神様は人間を人格を持った者に造って下さったということを先週申し上げましたが、この自由というものの中に罪の可能性があるんです。罪の傾向性が潜んでいるんです。神様は何故人間に自由を与えたのか、そうしなければ罪なんか犯すことはなかったのに、と言うことができるんです。人間は自由なんです。だから人間は誰でも自分の意志で善と悪を選ぶことができるようになる。これが人間の自由である、人格であるということの一番大きな特徴です。自分の意志で選ぶ。しかもその可能性はフィフティー・フィフティー。そのように神様は人間をお造りになったのです。神様が人間に人格を与えた時に自由を与え、その自由を与えたからその自由のお目付役として、自由を乱用しないように良心というジャッジメントを与えたのです。レフリー、アンパイア、審判です。自由のない者は良心がないんです、だから。自由を持つ者だけがその自由を乱用しないように、善と悪をわきまえる良心というものがちゃんとお目付役として与えられているんです。だから人間というものは本当に素晴らしいもんですね。本当に素晴らしい人格を持った、自分の意志で何でも選べるんです。そのように造られているんです。善とは一体何かと言うと、悪の可能性が全然ないところには善の可能性もないのです。何故かと言うと、悪いということを意識する心が、良心というものがなければ、良いという意識もないんです。罪を犯す可能性がなければ、本当の愛の関係というものは生まれてこないのです、人間は。例えば浮気ということがありますね。浮気をしようと思えば出来る自由が人間にはあるのに、自分の意志でそれをしないで夫だけを愛する、妻だけを愛する、あなただけを愛しますと言った時、その愛の価値が出てくるんです。良いことをするというのは、悪い可能性を自ら否定して、自分の意志で悪を否定した時に善が生まれる。善というものはそういうものなんです。善というものは、別に善というものが転がっている訳ではない。悪を自分で否定した時に善が生まれてくるんです。その自分で選ぶ自由、その自分で決断できる自由、自分の責任において善ないしは悪を選ぶことができる、それが人間が神様に似せて造られた人格者であるということなんですね。だからそんな自由なんてない方がいいと言って自由がなかったら、人間は単なる動物です。その意味では天の使いでさえも自由がないんです。意志がないんです。天の使いというのは後でお話しますが、神様に仕える自由しかないんです。定めて人間というのは凄いですね。神様と同じような意志を持ち、決断を持ち、善悪をわきまえる能力を持っています。人格ということはそういうことです。だから人間は親孝行をするように造られていない。親不孝もできるんです。できるけど、自分でお父さん私はあなたを愛しますよって、こう言う。そこに親孝行がある。そこに夫婦の愛があるんです。そこに人間の真実があるのです。夫に縄を付け、いつも監視するなんて、そんなことは人間はできないんです。手放すよりしようがないんです。だけど、私がこんなにあなたを愛しているのだから、あなたも私を愛して下さいね、って言ったらそこに愛の関係が生まれるんです。分かった、僕も絶対君だけを愛するよ、って言ったらそれが人間の人格的な愛の交わりなんです。だから愛というものは、善と悪というものは、そういう自由を持った人間だけが持っているものです。人間はそのようなものとして造られたのですね。しかも創造の冠として神様は人間を最後に造られた。この大宇宙を創造し、太陽を造り、地球を造り、そこに素晴らしい自然を造って、あらゆる動物を造って、最後にその動物を全部治めるようにと言って、驚くべき人間を造って、その人間には自由意志を造ってですね、たった一つだけしてはいけないよと言ったのです。そういう試練、良心のための試練があったんです。自由は必ずこころみられなければならないですね。こころみの無い自由なんてないのです。それは自由ではない証拠です。だから、こころみは、試練はどうしても制約が一つだけある。園の中央にある木の実だけは食べてはいけないよ、あれを食べるとあなたは死ぬから、と神様は言って一つだけ禁止を与えたんです。その禁止を、本当に神様の愛を信じて守ることができるか、守れなくなるか、善を選ぶか悪を選ぶか、そういう二つの選択の自由を人間に与えた。だから人間が食べた木の実の内容が問題じゃあないんです。神様がしてはいけない、と言ったことを守れたか守れないかということが問題なんです。ところが残念ながら人間は極めて弱い存在ですね。ある牧師さんに大変面白い人がいて、自分の教会に綺麗なゲストルームを作り誰でもそこに泊まることができる、いつまで泊まってもいいですよ、食事も提供しましょう、ただしここの部屋に泊まる人には一つだけルールがあります、禁止事項があります、それはベットの上の穴から外を見ないで下さい、それだけが禁止で他のことは何をしても結構ですと言ったそうです。するとお客はどうしてもその穴が気になり、大抵そこを覗いて見るそうです。牧師さんは外で待っていて、あなたは五分しか保たなかったですねと言われてお客は恥をかくそうです。人間はしてはいけないと言われると、してみたくなる。今は特に悪い好奇心への強い時代でもあり、そこに誘惑が生まれ、悪への傾向性や可能性が出てくることになるんです。そういう能力が人間にはあるからです。

そこで先ず第一に、誘惑はどういう形で来たかと言いますと、最初に蛇、これはサタンの擬人化ですが、サタンが蛇になって誘惑者となって先ずエバを誘いにきた。先ず妻、女にやってきた。そして神様は園の木のどの実も食べてはいけないと言ったのですかとエバに聞くと、女はいいえ、たった一つ食べてはいけないと言われたと夫から聞きました。それごらんなさい、あなたは神様の愛だとか恵みだとかおっしゃっていますけど、とんでもない。神様は愛なんかじゃないですよと囁く。悪魔の一番大きな仕事は神様の愛を疑わせることです。神様ほど意地悪な人はこの世にいないのです、本当はあなたがその木の実を食べると、あなたの目が開けてあなたは神の様になりますと誘惑します。これが誘惑の第一なんです。あなたは神の様になるのです、決して死ぬことはありません、食べてごらんなさい。これが誘惑の第一の本質なんですね。傲慢といいましょうか。自己神格化、自分を崇めたいということです。サタンが堕落したのもこれからです。「自己神格化」が罪の第一です。おのがはらを神とすると言いますが、人間は自分が神様。英雄・豪傑なんてみんなそうですね。普通のお家でもそうですね。ご主人様が大抵おれが神様だ、お前は俺に従えなんて言いますね。聖書でもちゃんとそんな話が出てきます。レメクという人が俺は神様だと言ったという話が出てきます。それからノアの洪水の後でバベルの塔を作って、我々は神様に対抗しよう、世界中に散らないように大きな塔を作って人類を統一しようと。世の中の英雄とか帝国を建設するとか、全部自分を神とするものです。天皇は神であるとか、毛沢東はまるで神の如く崇められたですね。これは罪の第一の問題です。そしてその誘惑にあってエバが園の木の実を見てみた。そのところの気持ちがよく書いてあります。第四節から読んでみましょう。

† 蛇は女に言った。あなた方は決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となるのです。女がその木を見るとそれは食べるによく・・・。

食べるに良くとは食欲です。おいしそうだなあという肉的な欲望に先ず魅せられたわけです。動物と同じです。体の誘惑です。その次を読みます。目には美しくとは美的誘惑です。人間には見せたい欲と見られたい欲と見たいという欲がありますね。綺麗なものを見たい。異性等に対する見るという誘惑が人間には必ずあります。動物にはない人間の心の世界の誘惑です。それから第三番目に賢くなるために慕わしい。これは知性の誘惑です。知りたい誘惑ですね。これも人間の誘惑ですが、何でも知っていい訳ではありません。知らない方がいいことも世の中には多少はあります。食べるにもよく、見るにも美しく。人間にはただお金さえあればいいんじゃあないですね。虚栄とか見栄とか名誉とか地位とか、そういうものも必要になってくる。そういうものが誘惑になってきます。ただご飯を一杯食べてればいいんじゃあないですね。かっこいいことがどうしても誘惑になってくるんですね。みんな見せたい欲、見られたい欲、威張りたい欲ですね。それから知性の欲です。そういうもの全部を含んでピカッーと輝く美しい木があるのを見たというのは、あー凄いな、食べるによく、見るに麗しく、賢くなるために、これを食べたら神のようになれると思って、彼女はスーッと引き込まれていって遂にその実を取って食べた。その実を食べて夫にも与えたと書いてある。夫も食べた。もしこの時、エバだけが食べてアダムが食べなかったら、これは話は随分変わってきます。エバは死んでまた別の奥さんが与えられたのではないかと思いますけど。アダムも共に食べたと聖書には書いてあります。それ以来、罪はアダムの責任だという風になっています。一人のアダムが罪を犯した時、奥さんがどんなに罪を犯してもご主人が犯さなかったらまだ救いがあるんです。夫アダムも共に食べてしまった。それから聖書はエバの罪のことは殆ど言っていません。いつでもアダムの罪と聖書は書いています。アダムは罪を犯したと書いてある。

では、それで食べた結果どうなったかと言うと、直ちに自分の目が開け自分達が醜い者であること、これはセックスばかりではありません。性的に目覚めたと統一教会などはそれだけを言いますが、そうじゃあないです。統一教会の人達はセックスだけが罪だと言いますが、そうじゃあなくて、第一は傲慢の罪、神のようになりたいという、そういう意志が、俺が俺が、自分が神だという傲慢な意志が先ず罪なんです。神様に対してですね。そういうものが罪です。そして自分達が弱い愚かな醜い者であることに気がついてしまった。善悪を知った途端に分かったことは、罪が分かってしまった。ああ、私は罪を犯したということが分かった。これは不幸ですね。分かった途端に、ああ、私は清いって分かったらこれは幸せですがね。人間は善悪をわきまえた途端に自分の罪の自覚を持っちゃったんです。ああ、私は恥ずかしい、まあ、私は裸でということで、自分の弱さと神様の前に立つことのできない罪と自覚を持っちゃったんです。だからイチジクの衣を作って、そして木の間に隠れた。神様がやってきた時、ああ神様だと言ってですね、その時から神様から自分の身を隠すということが始まった。その罪の第一の結果です。そして更にどうなったかと言うと、神様はアダムよあなたはどこにいるのか、彼は園の中であなたの歩まれる音を聞き、私達は裸だったので恐れて身を隠したのです。誰がお前が裸であることを教えたのか。私が食べるなと言った木の実をなぜ食べたのですか。すると、 ・・・。

罪とは何か。罪とは「不従順」です。罪の第二番目です。不従順の罪です。罪というのは、神様の言うことを聞かないでアダムはエバの言うことを聞いたんです。エバはアダムの言うことを聞かないで蛇の言うことを聞いたのです。聞くべき者の言うことを聞かないで聞いてはならない者の言葉を聞くこと、これが罪なのです。罪っていうのは不従順なんです。従うべきものに従わないで、従ってはならないものに従う。神様の言葉を人間は霊が聞いて、心は霊に聞いて、その心は体を支配する。これが一番正しいとお話しましたね。ところが人間は反対に誘惑者の言葉を聞いて、体が聞いて、心がそれに従って、霊がそれに従って、神様の言葉ではなくサタンの言うことを聞く。下から下からと聞いていく。

罪の第三番目の一番大きな特徴は「方向違い」ということです。罪という言葉はハマルチアと言うんですけど、その意味は的はずれです。聖書の中で罪という言葉が一番多く出てくるのは、的はずれという意味においてです。ハマルチアは射撃用語です。的から反れていってしまった矢のことを罪と言うんです。元の語源はそういう意味なんです。何故的はずれが罪かって言いますと、神に向くべき人が神以外のものに向いていたら、それは全部罪なんです。人間ていうのはアンスローポスと言いますが、アンとは上です。上を見ているものが人間という言葉の語義です。神の方に心が向いていなければならないのに、それ以外のものに心が向いている、それが罪です。罪の原義です。と同時に、神様から的を外してしまったもんですから、結果として自分自身の人生の意味も目的も分からない。目的というのは的です。的が分からないんです。神様を見失ったら、間違いなしに人は自分の人生の目的が分からなくなります。何のために生きているか分からないです、人間は。そういう人が一杯です。殆どではないでしょうか。英語や数学は神のように頭が良くて知ってても、人生の意義や目的は分からない。これは神様を失ったら当然です。的が外れたんですから。行けども行けども行けども違う。方向違いですから。だから青森からいらしたお客さんが上り列車に乗らなきゃあいけないのに下り列車に乗っているみたいなものです。行けども行けども目的と違う駅が目に入る。方向が違っていれば、的はずれの結果どういうことになるかと言うと、妬みだとか憎しみだとか恐れだとか不安だとか自己中心だとか悩みだとか、そういうことが絶対起きてきます。おかしいな、どうも違うんじゃあなかろうか。どうしたらいいんだろうか。他人を非難することにもなります。己を義とすることになります。アダム、お前は何故食べたのか。それはあなたが下さった奥さんが食べてもいいと言ったから食べたのです、とアダムが言ったとちゃんと書いてある。エバよ、何故食べたのか。蛇が食べてもいいと言ったのです。

つまり、「自己義認」です。第四番目です。これは罪の非常に大きな性質です。自分は正しい、エバが悪い、蛇が悪い。人間は正しいことが好きなんです。そして悪い人ほど自分は正しいと思っていますよ。見事にそうなんです。あいつは悪い奴だという人に限って、絶対に俺は正しいと思ってるんです。人が見てあの人は立派だなあ、なんて偉い人だろうと思える人にあなたは偉い人ですねと言ったら、冗談じゃあないですよ、私は本当に罪深い人間ですよと言うに決まっています。だからその人は清いんです。百パーセントそうです。人は悪い人に限って自分は正しいと思ってるものです。これは人生の一つの公式です。定義です。正しい人ほど自分は悪い人と思っていません。自分が正しいと言うことは相手が悪いと言ってることなんです。そうでしょ。自分が正しいと言ってること自体が相手が悪いと言ってることと同じなんです。だから自分が正しいと思ってる人は、どこへ行っても必ずトラブルを起こす人です。正しい人は一人です。二人いたら困ります。一軒の家の中でも同じです。ご主人が正しかったら奥さんが悪くないと治まらないです。両方が正しいと言ったら収拾がつきません。 ・・・

■録音空白部分■

・・・ 的はずれです。

第五番目に罪とは何かと言えば、それは「愛の背き」です。背くということが一番大きな罪なんですね。それは愛されているのに愛さないということです。神様がこんなに人を特別にお造りになって、本当に神様は私達を愛していて下さっているのに、私達の方は神様は居るのかしらなんて思ってしまう。居るのかしらなんて、冗談じゃあないですよ。私達がこうして生きているのは、全部神様が造られた自然の恵みのおかげなんです。もしそうでなかったら皆さん大変ですよ。本当に神様の恵み、愛が無かったら大事です。空気だってただで吸っちゃあいけません。絶対に。メーターをこう付けてもらって、先月あんたは少し吸い過ぎたようですから今月は気を付けて下さいなんてことになりますよ。もし自分だけで生きているんだった空気から作って生きて下さい。吐いた息は吸わなければならない、吸った息は吐かなければならないなんてことになったら、眠ったら人間は死んでしまいます。人間は本当に生かされているんですよ。水でも空気でも酸素でも全部そうです。飯だって肉だって今食べてきたものは全部そうでしょ。全部神が造ってくれたもので、人間はそれを略奪して食うだけです。略奪してきた手数料と商人の儲けだけで、ガソリン代と儲けを払っているだけで、元々は何にせよ全部ただではないでしょうか。それらは全部自然の恵みではないでしょうか。太陽が照り雨が降って育っていったものです。着ているものでも石油でも、元を正せば人間が造ったものじゃあないです。全部神様が育てていらっしゃるものです。私達は自分で造れるものなんて一つもない。酸素の原子一個でも、水素の原子一個でも人間は造れないのです。無から有を造ることはできないのです。全て神様が与えて下さったものを利用して生きる以外に仕方がないですね。だからそんなに神様に愛されて生きているくせに、感謝の「か」の字もないなんて、そもそも、どだい間違ってるんですね。本当は。だから私達は本当に神様に愛されているのに神様を愛さないということが一番大きな罪です。愛すべきものを愛さないで、愛してはならないものを愛するっていうのが罪です。罪とはそもそも背きなんですね。愛されていなければ背くということは成り立たないんです。愛されているのに愛さないことが罪なんです。愛さなければならない妻や夫や子供を愛さないのが一番大きな罪です。もっと具体的に言ったら、聖書では非常に大きな罪だというのが浮気ですよ。これは一番大きな罪です。愛すべきものを愛さないから、愛してはならないものを愛するからです。これは非常に大きな罪で、ある意味において殺人の次の罪ですね。愛があったら罪というものはそもそも成り立たないんです。愛があったら何故人の命を奪うでしょうか。愛があったら何故人の人格を裏切るでしょうか。詐欺なんてことがあるでしょうか。愛があったらどうして人の所有を傷つけるでしょうか。盗みです。愛があったらどうして人の純血を汚すことがありますか。姦淫です。愛があったらどうして愛すべきものを捨てることができますか。罪とは愛に背くことです。そもそも愛に反することが罪です。もっと言えば愛せないということが、もうそもそも罪なんです。ですから罪というのは決して盗んだとか、誤魔化したとか、そんなことは罪なんじゃあないですね。罪に決まってるんです、そんなことは。それは罪の行いの方なんです。それは罪の結果なんです。罪を犯すから罪人になるんじゃあなくて、人間は神様に背いた時、それを原罪と言うんですけれども、オリジナル・シンと言って人間は罪の性質を持って来ているんです。罪の性質があるから人間は罪を犯すのであって、罪人になるんです。罪を犯すから罪人じゃあないんですよ。罪人だから罪を犯すのであって、そこは前後が逆です。人間は全部そうです。罪の無い人は一人もいないんですね。私達人間というものは必ず自分を義とする。自分を正しいと思う。ということは人を裁くということです。人を許さない、愛さないということですね。それが一番大きな罪であります。そして方向違い。

そして、その罪はどこに宿るかということです。先週との重複になりますが簡単にお話します。人間というものは本来、体は外側のものであるとお話しました。その体に目や鼻がある訳です。その体の中に心が宿っている。その心の中に霊が宿っているということをお話しました。この霊をスピリットと言い、この心をソウルと言い、この体をボディと言うんです。そしてこの体の中に肉体的な機能とか本能とか欲望とか視覚や触覚というものがあります。心の中に知性とか感情とか意志があります。霊の中に理性とか感性とか宗教性、道徳性、倫理性などが霊の中にあります。領域が違うんですね。そして心は対人間関係であり、霊は神様に関係し、体は動物的なものです。これらのこともお話しました。ただ見るだけだったらレンズに過ぎないが、心が肉体の目を通して見るのです。もっと言うならば、霊が心を用いて見ることができるんです。そのように人間には霊の働きがある。霊というものは本来は神様のものなんです。神に属するものなんです。神が人間に与えてくれたもの。心が死んでも体が死んでも、霊は永遠に神のもとに生きていくものなんです、本来は。滅びるのはこの霊が滅びるか、霊が救われるかのどちらかです。だからその霊というものは本来神のものですから、ウオッチマン・ニーという人は無色透明だと言っている。本当に清いものだ、本来。ところが人間はその清い霊が心を支配していれば、霊的な心を持った人になることができます。霊性を持った心が生きることができるんです。意志も感情も知性も清くなります。ところが人間は体が本能や肉体的な欲望だけで満たされていると、それが体を心を汚していくんです。罪は体に宿るんではないんです。体は道具に過ぎない。私の体に罪があるんじゃあないですね。心に罪があるから手が罪を犯すのです。罪は心に宿るものです。エレミヤ記の第十七章の九節ですかね、心は全てのものよりも悪くて、甚だしく悪に染まっていると言っています。エレミヤは更に言っています。人間が豹がその斑を変えることができるか。エチオピア人が、黒人ですね、その肌を白くすることができるか。もしそれができるなら、あなた方は自分の心を清くすることができる。できないですね、人間は。絶対甚だしく心は悪に染まっていると言っています。イエス様ご自身もそう言っています。マルコ福音書の第七章に、イエス様は心の中から汚れた思い、罪が出て来るのだ、と言っています。すなわち内部から人の心の中から悪い思いが出てくる。不品行、盗み、殺人、姦淫、どん欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。それらのものは人間の心の中から出てくるものです。体は自動車と同じです。自動車に罪があるんじゃあなくて運転手に罪があるんです。体に罪があるんじゃあない、心に罪があるんです。この心が罪の座なんです。罪の住みかなんですね。妬みは罪なんです。自己中心な思いは罪なのです。だから聖書を見てみますと、罪というものは行為じゃあないですよ。別の所を読んでみましょう。新約聖書のローマ人への手紙の第一章。二三四頁です。二八節から三十一節にこう書いてあります。

† そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に値するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

これはどこも警察のやっかいになる罪は書いてないんです。高慢だからといって警察のやっかいにならないでしょ。大言壮語するからといって別に警察のやっかいにならないでしょ。悪意があるからといってお巡りさんに捕まる訳ではないでしょ。心の思いの中にある罪です。思いです。ついでにもう少し後を見ていただきますと、ガラテヤ書の第五章一九節から二十一節。二九九頁です。

† 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。

私達がね、肉に従って、すなわち体の本能的な欲望に従って生きていれば方向違いで、その方向にある駅の停車は、不品行、汚れ、好色などなど。全部そういう駅を通って行くに決まっています。だが、もし心、霊に従って生きるならば何て書いてあるでしょう。二二節から二三です。

† しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

本当に私達の霊が神の霊によって生かされているならば、愛、喜び、平和、寛容、柔和、と当たり前です。それができるようになります。それから今度はずっと後の方、テモテ第二の手紙というのがあります。これも見ていただきたいと思います。新約聖書の三三五頁です。第三章一節から五節。

† しかし、このことは知っておかねばならない。終わりの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者(植竹・これは罪の筆頭です。これは来週もっと詳しくお話致します。)、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。

これは別にどこにも軽犯罪法に引っかかる訳でもないし、聖書が言っている罪というのは行為の罪ではないのです。思いの罪なのです。心の中の罪なのです。もっと言うならば、一番正しい言い方は何かと言うと、それは「動機」です。思い、動機、モティーフと言いますね。人がどういう動機で生きているか、どんなに良いことをしてもですよ、動機がもし虚栄であったり売名行為であったり自己満足であったり、あるいは優越感であったりしたら、それがどんなにいい行為でも聖書はそれはいいとは言ってないのです。一つも誉めてないんです。行為じゃないんです。結果じゃないんです。動機です。人のどこが清められるか。聖書では思いが清められる、動機が清められる。それは素晴らしい世界ですね、もし清められたら。思うことに矛盾が無くなってくるんです。嘘が無くなってくる。「汝の動機は愛か欲か」という有名な言葉がありますけれども、どんなにいいことをしてても、俺がやった俺がやったとか、私が私がと、これは自己主張です。自己中心です。高慢です。正当な報酬を受けなかったり誉められなかったなら、かえって必ずそれは不平になってきます。人を裁く心になってきます。動機が問題です。私達の宗教というものは、動機の純粋性というところにあるんです。私達のキリスト教の一番の中心点は何かと言うと、動機が清くなるということです。これが人が清くなるということの一番大きな問題です。本当の善意、本当の行為。

そういうように私達の世界では、罪というものをどこに基準を置くかということによって変わってくるんですね。基準の置き方が問題になる訳です。もし私達が隣のおかみさんだとか、あるいは親戚の誰彼だとか、クラスメートの誰彼とか、同業者の誰彼に基準を置いているならば話は別です。宗教は必要ない訳です。神様は必要ない訳です。基準の置き方が問題です。世の中で一番低い基準は刑法です。法律です。法律というものはガードレールなんです、実は。それに触ると傷がつきますよということなんです。ガードレールに触って走る人はいないでしょ。はみ出したら何処かに落ち込んでしまいます。もっと安全な道を歩こうと思えば、道徳や倫理の道がちゃんとあります。一メートルを空けて走りましょうなんてね。しかしガードレールの方が曲がっているような悪法もあります。ガードレールがなきゃあならない所に無いなんてこともあります。法律とはそんなもので欠点が多いですね。ところが倫理や道徳も国によって違います、時代によって違います、人によって違います。決して完全ではないですね。本当の基準は何処にあるかって言うと、それは私は神の言葉、聖書の中にあると思います。だから他人と較べて自分が高いとか、立派とかいうことはナンセンスです。本当に神様の言葉が分かって、初めて人は自分の位置が分かってくるんです。私はどういうところに生活してきたかということが分かってきます。本当に自分の位置や地位が分かった時に、私達は自分の罪がよく分かってきます。自分の罪が分かったら、絶対に救いが分かってくるんです。他のものでは絶対分かってきません。救われなければならないということが分かってきます。それですから私達は罪の理解を何処に持つかっていうことによって変わってくる訳ですね。私達は心の思い、動機が清くなる、そこに問題性があるんだということです。

一人のアダムが罪を犯した時に、罪と死が全人類に入ってしまった。今度は罪の結果のことが聖書に書いてあるんです。罪の結果どうなったでしょうか。それは創世記の第三章に戻ってみたいと思います。ローマ書の第五章には一人のアダムによって罪が全人類に入り込んだということを強調しています。創世記の第三章の方では、罪の結果、蛇は呪われて人間と蛇との間に恨みがあったとさっき書いてありました。これは、サタンと人間と女の末というのはイエス・キリストを指すんです。イエス・キリストとサタンとの決戦が十字架で行われます。これはいつかまたお話します。お前が女の末の踵を砕くが、お前は頭を砕かれるであろうと預言しています。これは悪魔がイエス・キリストを十字架につけてイエスの体を殺したけれども、そのことによってサタンは決定的に頭を砕かれてしまうということの預言です。これはメシアの預言です。もっと後の方に神様は人間が罪を犯したにも関わらず、肌がかさかさになってしまうイチジクの葉っぱのファッションを止めさせて、もっといい毛皮の衣をアダムとイブに神様が着せてあげたと書いてある。罪を犯したけれども、もうそこに哀れみがあり、やがて救いを預言してらっしゃるのです。創世記の第三章の中に、もう救いの預言が、メシアの最初の預言があると言われています。そして女には、お前は罪を犯したから私はお前に産みの苦しみを与える。それは創世記第三章の十六節です。あなたは苦しんで子を産むだろう。それでもなお、出産だとか妊娠とかを考えると結婚などしなきゃあなどと思うけれども、それでもお前は夫を慕い、夫なしでは生きられない、そういうふうになるだろう。女というのはそういう風に造られているんですね。だからやっぱり夫を慕い夫の保護と助けを求めるようにできています。男はどうでしょうか。男に言われた。あなた方は妻の言葉を聞いて食べるなと私が命じた木から取って食べたのです。さっき言った不従順です。地はあなたのために呪われる。その時から弱肉強食が始まったのです。それまで地上のあらゆる生物はみな植物で十分食べることができたのに、地が呪われて額に汗しなければ産物ができなくなったんです。放っておいては、どんな美味しい果物も駄目になってしまいます。額に汗して一生懸命労働しないと食べることもできなくなっているんです。地が呪われたんです。自然は美しいけれども、一番最初の自然はもっと美しかった筈です。もっともっと豊かだった筈です。今は額に汗して労働すれば食べられるんです。その程度になってしまった。男は働いて家族のために糧を得るということが男の責任になったんです。労働はある意味では、そもそもは刑罰から始まったと思います。地はあなたのためにいばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土からとられたのであるから。あなたはちりだからちりに帰る。やがてここに初めて罪の結果の死ということが分かってくる。

更に第四章を見ると恐ろしい身の毛もよだつような話が出てくるですよ。ほんとに読んだら身の毛のよだつ話です。それは最初にアダムとエバからできた子供がカイン。その次の子供がアベルです。アベルは羊飼いになって神様を礼拝した。カインは農夫になって作物を作った。二人が神様を礼拝したけれども、神様はアベルをかえりみてカインをかえりみなかったので、さあ大変なことが起きた。アダムとイブは罪を犯したが、直ぐには死ななかったし九百何十才まで生きましたけれども、最初に産んだ子供のカインがもう弟アベルを許すことができなかった。弟アベルが神様に祝福されたのを見て激しく憤り、妬みを感じ殺してしまうんです。殺人の罪がもう出てくるんです。そしてカインは殺人者という烙印を押されて遠いノドの地へ逃げた。エデンの東っていう映画がありますけれども、エデンの東へ追放される。あのエデンの東という映画は骨肉の兄弟同士の争い、例えば女を中心に、そういう骨肉の争いのことを描いています。それはカインの罪を使っている訳です。恐ろしいことに人間は、アダムとイブは、自分の犯した罪の性質が、もう子供の中に如実に現れていることが分かります。アダムとエバは自分達だけしかいなかったから、お互いなしには生きられずしっかり抱き合いながら、いつでも心の中ではお互いを裁きあって、互いを非難した。年中お互いを責め合いながら、しかもそれなしには生きられない腐れ縁の夫婦の典型です、アダムとエバは。もう人間の世界に罪が入ってそうなったんですね。できた子供はもう殺人者です。罪が直ぐに子供の時代に、子供の生活に歴然と現れている。これは決して聖書の中の話ばかりでなく人間の世界全部そうです。同じことです。それは公式だからです。聖書の書かれていることは単なる物語ではないんです。子供というものは本当に愛し合っている夫婦の中で育てなかったら絶対間違っていきます。何故なら子供にはそういう権利があるんです。罪の結果についての話は、取り上げたらいくらでもあります。最後に、殺人という罪が起きたばかりではない、アダムもエバも随分長生きはしたけれども、そして死んだ。現代の人間っていうのは長い長い人類の歴史の中でね、精神病の可能性、悪い病気的な因子を持っていない人は一人もいません。私は一人もいないと思うんですね。あるいは高血圧や癌の因子を持っていない人は一人もいないと思うんです。みんな精神的・肉体的に病的な因子を持っています。人間はどんどんどん短命になってきました。加速度的に罪が入ってきために短命になってったんです。私はもし罪を犯さなかったら人間は永遠に生きただろうと思いますね。そう書いてあるからです。罪を犯すと死ぬと言われたのです。その死んだのは肉体が死んだんではなくて、その時霊が神から死んだのです。あの霊が離れたんです。霊が死んだり眠ったりと言いましたが、やがて霊が死ぬから心が死んで肉体もやがて死んでいくんです。直ぐ死んだんじゃあないんです。だけども神から離れる時に霊が神様から確かに切り離されたのです。神様と密着している霊ではなくなってしまった。それが霊が死ぬという言葉の意味だと思います。

私達が罪を犯すということは、だから本当に恐ろしい。原罪があるだけではなくて、私達は犯罪があります。性質があるだけではなくて、自分でも罪を選んで生きています。そして罪の生活をしています。それでもなお人間には善を選ぶ自由が残されているんです。素晴らしいですね。殺されても嘘は言わない人がいます。拷問にあっても友達を裏切らない人もいます。そういう自由が人間には、なおあるんです。五パーセントでも一パーセントでも可能性はあるんです。一度罪を犯してしまった人間は罪を犯す方が楽になってしまった。黙っていればずるずると罪の方へ流れていきます。よっぽど忍耐して頑張って努力しないと善を選ぶことが難しくなりました。だけど難しいけどできないんじゃあないのです。できるんです。なお人間にはそういう可能性と自由が多少でも残されている。良心の声に従うということができるように造られているんです。それが人間に与えられている唯一の尊厳だと言ってもいい位ですね。人間というのは本当に善を選ぶことができるという動物なのです。ですから私達が本当に神様を知って、もし私の霊が開かれるならば罪に勝つ生活ができます。もし神様を知ることができるならば、霊に従う、聖霊に従う、神の御霊に従う生活ができるようになるのでございます。その次から、救って下さる回復の道があるんですね。それは、今度お話したいイエス・キリストというお方の役割でございます。神様の愛がどのように私達に示されていたかということ、二、三回に渡ると思いますが、来週は神の愛についてお話をさせていただきたいと思っております。

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