植竹利侑牧師による入門講座④

第4講 神の愛と人間の愛

植竹利侑牧師による入門講座 »

■ 説教音声
■ 説教

今日は第四講として、「神の愛と人間の愛」についてお話したいと思っております。これはある意味において、キリスト教の一番中心的なことになると思います。来週お話申し上げます、神様の愛の具体的現れとしての十字架、イエス・キリストというお方についてお話する時が、一番のクライマックスと言ってもいい大事なことだと思いますが、今日はその前に、先ず神様の愛についてご一緒に学びたいと思います。

新約聖書のヨハネ第一の手紙の第四章をお開き下さい。七節から十二節。三八〇頁です。

† 愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

ここに聖書に書いてあります愛という言葉は、実は聖書では「アガペー」という言葉なんです。このアガペーという言葉と、もう一つ大事な言葉は「エロース」という、こういう言葉が聖書にあります。普通これをエロスとも言います。ヨーロッパのいわゆる哲学や思想を学ぶ時には、必ずアガペーとエロースということが問題になります。倫理の勉強をしますと、どの大学でも必ずアガペーとエロースという言葉が出てくる時があると思います。これはキリスト教の愛について学ぶ時がどなたでもあるわけで、言葉としては大抵の人がご存じだと思います。エロスというのは何かと言いますと、これはギリシャ神話の中に出てくるところの、人間の愛を現す神様なんです。そして後に、これがローマの神話になりますとキューピットになります。バレンタインデーによくチョコレートをもらったりしますけれども、あれは聖バレンタインという人から出た話ですけれども、いわゆるキューピットさん、弓と矢を持って二人の人の心にそれぞれ撃つとお互い片思いと片思いになってしまって、一方は果てしなく追いかけ、一方は果てしなく逃げていくという、そういう人の心の中にいたずらをする愛の神様だと言って、キューピーさんのことですね。そのローマの神話におけるキューピットは、ギリシャ時代ではこれをエロスと言ったのでございます。ですから所謂エロとかグロとかエロティックとか言った時のエロとは全く違う、そもそも人間の愛を現す神様のことをエロスと言ったんだ、ということを知っていただきたいと思います。

神の愛と人間の愛 図 : 神の愛と人間の愛

このエロス誕生の物語というのは、ギリシャの神話の中には幾つもあるんです。その中で最もエロスの性質をよく現した神話はプラトンという、このプラトンという名は一杯出てきますから、おおよそ愛について勉強しようと致しますならばプラトンという名前を忘れることはできません。このプラトンが書いた本の中に『饗宴』という本があります。この本の内容はプラトンが書いたソクラテースの対話、ソクラテースと他のお弟子さん達との対話の形で、ソクラテースが自分の信ずるところの信念を弟子達に語っているという哲学書なんです。『饗宴』はレセプションという題ですが、この題の由来は、勿論これは哲学的な素晴らしい真理のご馳走、饗宴という意味なんですけど、元々ですね、この中に出てくる一つの饗宴の物語があるんです。それはギリシャで一番偉い神さんのことをゼウスと言います。デウスとも言います。そのゼウスという神様が美の女神として非常に有名なヴィーナスの誕生を喜んで、一つの盛大な饗宴を開いて世界中の神々を呼び集めてご馳走をしたというんです、ゼウスが。ヴィーナスが誕生したのを喜んで饗宴を開いたのでございます。ところがそのヴィーナスの誕生、あの有名なミロのヴィーナスというのがありますが、私はいつもミロミロと言うから見なくちゃあいけないのかと思ったけど、とうとう見る機会を逸してしまいました(笑)。大変美しい神様が、あこや貝が割れて、そこに美しい美の女神が生まれた。そこでゼウスは大変喜んで神々を呼び集めて、集まってきた神様の中にボロスという神様がいたってんです。このボロスというのは富の神様、富裕の神様です。所謂、富の神様。素晴らしいリッチマンですね。その富の神様がお酒に酔っぱらって、いいご機嫌で台所に水を飲みに行って、そこに寝込んでしまった。そこへペニヤという神様が、これは貧乏、欠乏の女神です。この貧乏の神様が、水を飲みに行き寝てしまったボロスの所へ物乞いに来た。乞食に来たんです。そして一目でボロスを見そめて誘惑をして仮そめの一夜を、愛の契りを結び、妊娠してできた子供がエロスだという訳です。そしてボロスは旅立ってしまって、ペニヤはやがて子供を産みます。玉のような男の子を産んだ、それがエロスです。従ってエロスというのはペニヤの子供として育ちます。ペニヤの子供でありますから、現実はいつも欠乏です。貧しい。ところがペニヤはソクラテースの言葉通りに言いますと、ペニヤはその本質がペニヤであるが故に、自分の貧しさに何の痛痒も感じないが、エロスはペニヤの子供であると同時にボロスの子供でもあるので、いつでもボロスに対する憧れを持つ。これがエロスの特徴である。すなわちエロスとは欠乏から出発して充足に対する限りない憧れ、これがエロスの本質だ、と言うんです。人間の愛、エロスというものは、いつもいつも限りなく欠乏から出発して充足へ向かって憧れる。絶えず憧れている。ペニヤは生まれつきペニヤだから、ペニヤであることに何ら痛痒を感じないが、エロスは現実の欠乏から充足に向かって、絶えず絶えず絶えず憧れを持つ。それが人間の愛の性質だ。だから人間の愛というものは、いつでも美よりも美、価値よりも価値、そして真理よりも真理を、というように飽くことなく追求するのが人間の愛の性質だと、こう言うんです。ソクラテースはそう言って話をしているんです。大変卓越した愛に対する考えだと思います。ですから人間のエロスというものは、人間の愛というものは、自分に無いもの、欠乏するもの、無いものに対する憧れです。だから絶世の美女と不世出の英雄の物語といった具合に、互いに自分に無い、男は女らしさを求め、女は男らしさを求めるんです。互いに自分に無いものに対して、いつもいつも憧れを持つというのが人間の愛の特徴だと言うのでございます。従って人間の愛は非常に美に対する憧れ、真理に対する憧れといった具合に、飽くこと無い追求として、そこに文化が生まれ文明が生まれ、そこに科学が生まれ、あらゆる哲学・宗教が生まれてくる訳です。だから飽くことの無い追求心、欠乏から出た充足に対する憧れというものは人間の一番素晴らしい特徴です。決してそれが悪いとは言えない。非常にいいことですね。それがあるから素晴らしい。素晴らしい点から言えば、あるから素晴らしいんですけれども、そこには問題点が出てきます。

その問題点は何かと言うと、「充足すれば止んでしまう」ということです。人間の愛というものは充足すれば止んでしまうんです。火が消えてしまうんです。充足するとそれで満足してしまう。どんなにお酒の好きな人でも、満ち足りるまで飲むと二日酔いしてもう結構となります。どんなにお汁粉の好きな人でも朝から晩まででは堪りません。それは充足したからです。満ち足りてしまうと新鮮な要求、新鮮な心の願いというものが無くなってしまう。愛が働かなくなってしまう。だから普通の場合ですと、婚約時代や新婚時代はいいけど、あまり何時も何時も一緒に居ると鼻についてくる。充足するからです。だから男でも女でもそうですが、相手の女性や男性に無いものに対して、また別の異性に対する憧れが働いて浮気なんてそうです。もの凄く理知的な奥さんを持った人がつまらない女性に手を出したりするのは、人間の愛、エロスというものは充足すると新鮮な感動を失ってしまう、そういう大変困った性質を持っているからです。

第二番目には、要するに価値を愛する愛だということです。「価値愛」。価値があるから愛するのです。価値があるから愛が働くのです。価値を感じないものには愛が働かない訳です。美しいとか逞しいとか強いとか優しいとか、要するにそれは自分の好みに合うということです。好みに合うものしか愛することができないんですね。これは人間の好きという感情です。好きというのは分かりやすく言えば、自分の好みに合うということです。気に入ったということです。だからどんなに気に入ったといっても、何時気に入らなくなるか分からない。充足すれば止むんですから。あるいは又、凄いなと思う時はもの凄く熱が上がるけれども、それ程でもないということが分かると熱が冷めてしまう。何時でも新鮮な価値が無いと、それを愛し抜くことができないという性質を持っています。だから人間の愛は価値愛です。好みに合わなければ変化するということです。人間の愛の特徴は価値愛で、それは変化するということです。相手によってこっちも変わる性質のものです。コリント人への第一の手紙の第十三章に愛は変わることがない、いつまでも絶えることがないと書いていますが、アガペーはいつまでも変わらないけれども、エロスは必ず変化するものです。色褪せてゆくものでございます。これがエロスの大きな特徴です。相手の状況によって、こっちの愛が変わっていきます。これが所謂価値愛で、人間の社会というものは全部利用価値で動いています。人間の世界の愛の価値観というものは、相手の利用価値によって変わっていくんです。利益社会というものは全部そうですね。相手に与えるものがなければ絶対愛されません。こちらにそれだけの資格や力が無ければ、直ぐに袖にされてしまう。愛されなくなってしまう。だから、この好きという感情、これは単なる感情に過ぎないのです。自分の好みに合った、気に入ったという感情です。だからこの感情は激しく燃えますけれども、暫くすると、充足すれば止んでしまうし、相手に価値が無くなればその価値が、愛が無くなってしまう。そういう相手の価値だけしか愛せないという人間のエロースは、一人の人を本当に愛し抜くなんてことは本当はできないと言った方がいい位です。できないと言った方が正しい。その方が正直です。人間は、愛よ永遠なれ、なんて言っていつも結婚式などをしますが、愛は永遠ではないんです。ドン・ファンという小説がありますが、ドン・ファンに振られた女はみんな彼を愛しているんです。ちっとも彼を恨んでいないんです。何故ならば、有名なプレイボーイのドン・ファンは、愛するということには本当に一生懸命なんです。だけども自分に忠実であろうと思うと、一人の女性を愛することができないという結果になるだけの話です。だから好きという感情、英語ではライク(like)ですが、これはラブ(love)とは全然違い、日本人は本当には愛するという言葉を知らないと言った方がいいと思います。明治まで愛という言葉を使わなかったんです。

愛するとは愛(め)でると使いましたが、愛痴だとか愛欲だとか愛慕だとかといったものであって、聖書が言っているような意味での愛という言葉は使われなかったのです。愛欲といった、人間の本能的な弱い欲望のことのために愛という字を使ってたんです。明治までの時代は。だから愛という言葉の意味を知らない。好きと愛を混同しています。だから私達はアイ・ラブ・ユーと言い、僕は死ぬほど愛してるよと言ってても、暫く会話を聞いていると、好きだ好きだ好きだという会話に変わっているはずです。好きという感情が一番正しいんです。だけれども好きというのは、何度も申しますが、自分の好みに合う自分の何かを満たしてくれるということに対する自然に発生する感情です。だから、好きというのには責任が無いんです。嫌いになったらお終いです。本当に責任が無いんです。好き好きと言っていても、その好きという情熱は、相手が自分を好きであるという好みの感情を満足させてくれている間は好きだけれども、相手がそうでなくなったり、裏切ったりすると途端に同じエネルギーが憎しみに変わる。あるいは妬みに変わります。妬みの深さは愛の深さだと同じだと言ってもいい位です。人間の愛くらい本当に頼りにならないものはないのです。だから、好きというのは、相手の価値が自然に引き出してくれる自発的な愛ではないんです、実はね。これはね北森先生という方が言ってますが、他発的な愛だと言ってます。何が他発的かと言うと、相手の価値が自分の愛を誘発してくれるだけなのです。だから本当に自覚的な、自意識的な、愛すると心を決めたら嫌いでも愛するというのが愛なのです。結婚するというのは愛するという約束です。愛するというのは、好きでも嫌いでも愛するということです。これは感情ではなくて意志の問題です。私達人間の社会には残念ながらそういう風に教えてくれる人は何処にもないし、結婚する時、そんなことを教えてくれる人もいません。好きで結婚しても、嫌いになれば別れればいいなどという論理が直ぐ成り立つことになります。それでは動物の交わりに過ぎないんです。それは人間の結婚ではありません。キリスト教の言っている結婚とは違う。それは感情による結婚に過ぎないものです。

第三番目は、人間の愛は結局は「自己愛」だということ。情けないことに自己愛に過ぎないのです。どんなに好きで愛していると言っても、実は自己が目的であって他者はあくまでも手段なんです。夫でも妻でも恋人や愛人でも同じです。何故なら、自分が幸せになりたいというのが目的です。自分が愛されたい、自分が幸福になりたい、自分が満足したいというのが何時でも目的です。エロスはそうです。人のことなんか構っちゃあおれないんです。自分が幸せならいいんです。自分が今満足すればそれでいいのです。相手を愛することによって、自分が愛されたいというのが目的です。だから本当に情けないことに、もし私達がエロスしか知らなかったら、それは本当の愛じゃあないんです。愛という言葉を使うことが間違いで、正直に好きと言うのが一番正しいと言うのはそういうことです。それは自己中心的な感情に過ぎない。自己目的的な感情に過ぎない。これがエロスです。エロスは、厳しい言い方ですが、絶対に愛ではないんです。ですから聖書はエロスのことを何と言っているか。愛という言葉は使っていません。人間の愛については。「欲」と表現しています。随分厳しい表現です。これがエロスです。ヨハネ第一の手紙の第二章を見ていただきたい。第十五節です。三七七頁。

† 世と世にあるものとを、愛してはいけない。

これがエロスです。世と世にあるものとを愛する愛はエロスのことです。

† もし、世を愛する者があれば、父のアガペー(愛)は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。

この欲がね、エピチュミアと言って、エピとは上を意味します。チュミアと言うのは心を寄せるという意味です。だから上に心を寄せるという、欲というのは何故欲と訳したかは分かりませんが、上に心を寄せるという大変美しい言葉なんです。ここに書いてあるギリシャ語の欲という字は。上に心を寄せるとは、それがエロスだということです。何時でも欠乏から充足へ向かって心を寄せていく、これがエピチュミアです。随分聖書の翻訳者は厳しい訳をしたけれども、欲と訳しています。人間の愛は結局は自己欲なんです。自己愛です。だからインマニュエル・カントというドイツの有名な哲学者は言っています。他者を、一人の人格を愛するのに、これを目的として愛することをしないで手段として愛するということ、これが罪なのだ、と。罪とは何かと言えばですね、人を愛する、妻を愛するという人格を愛するような時さえも、他者を目的として愛さないで手段として愛してしまう、それが罪だ。だから罪とは要するにエゴイズムのことである。罪とは自己中心の精神、それを罪と言うのだ。自分しか愛することができないというところから、あらゆる罪、妬み、憎しみ、怒り、争い、殺意、嘘、詐欺などが生まれる。それは全部、自己愛というところから罪が出発するのである。カントはそう言っています。本当にそうですね。聖書が言っている罪もそうです。人の為と口で言いながら、本当は自分の為だった。これは偽物です。有島武郎という文学者が、惜しみなく愛は奪うということを言っています。人間の愛というものは相手の関心を奪うところの手段、相手の愛を獲得するための手段であって、獲得して富むのは自分です。自分が幸せになりたい、自分が愛されたいということが目的で相手の気を引いているだけです。エビで鯛を釣るだけです。お互いがそうだから、何時か破綻が来るのは当然です。人間の愛は何時でもそういう危険性を含んでいる。有島武郎はこう言っています。小鳥を飼っている。小鳥のために私は一生懸命小鳥の世話をしている。しかし小鳥自身のために小鳥を愛しているのではない。本当に小鳥を愛するのなら、本当は小鳥を飼わない方がむしろ良いのだ。そうではなく、かごの中に入れているということは、小鳥の自由を束縛して小鳥の姿や声の美しさを奪い取っているのに過ぎない。自分で見て楽しんだり、人に見せて自慢したりしているのに過ぎない。小鳥自身のためではない。目的はあくまで自分が楽しむということにある。これはエロスですね。自分が充足すれば飽きてしまう無責任な性質を持っていますね。だから繰り返しになりますが、聖書は人間の愛を愛とは呼ばず、欲と呼んでいます。愛欲といいますね。その愛欲のことをギリシャ語では「クピリタス」という言葉を使うのです。これが愛欲です。食べたい、飲みたい、性的な欲望など本能的な欲望を指し、それも愛、エロスであることは確かなんです。本能的な欲望です、クピリタスは。これもエロスの大きなウェートを占めています。ところがプラトンという人は「愛の梯子」、「愛の階梯」と言ってですね、人間は本当に立派な人間になっていくためには、一段一段梯子を登るように、愛が一段一段と進歩していかなければならないと言ってるんです。そして進歩していくためには、下のものを犠牲にして、それを殺さなければ人間は絶対に向上していくことができない、と言ってるんです。

クピリタスの上にあるのは「ストルゲ」です。これは肉親の情です。不思議なことに人間は子供ができると、このストルゲという情が出てくるんです。これが下から二番目のものです。 ・・・

■録音空白部分■

・・・ 我慢するということがないのです。子供を愛するために我慢して努力して一生懸命なんてことはないんです。子供は黙っていても、放っておいても可愛い筈なんです。子供というものは自然に親の愛情を引き出すものなんですね。だから反対に、子供が誘拐されたとか、いなくなったとか、病気になったとか、かたわになったとかとなったら親は気が狂ってしまうんです。子供を愛する愛というものは親の自然の情なのです。人情です。子供を愛するのに努力は要らないんです。中には自分の本能的な欲望のために平気で子供を捨てる人がいます。これは本当に人間としては失格ですね。しかし普通は子供を産んだら、自分の本能的な欲望を捨ててでも子供のために生きようとします。普通の人間だったらそうです。だからストルゲというのは非常に激しいけれども、なお本能的なものです。小さな子供っていうものは、無条件に親の愛を引き出すものなんです。子供の無力なあどけない小さな可愛い姿が子供への愛を引き出すんです。親は子供が可愛いんです。放っておいても可愛いんです。だから親子の情愛は絶対愛と呼ばれています。何故そう言うかと言うと、選ぶということが許されないんです。選択ということがないんです、親子の間には。子供は親を選べないし、どんなに不細工な子供でも親にとっては絶対的な存在です。親子の血とはそういうものです。だから選ぶということがありません。選ばなくても、その子を愛する。その親を慕うんです。その子が我が子なんです。自己の延長だからです。だから自己を愛する愛で愛せる愛なんです。これは最も一番下のエゴイズムの典型ですね。だから本当に人間が人間になっていく為には、これを捨てなかったら親にはなれないですよ。自分の情欲や自分の願いや自分の食欲や自分の楽しむことばかりを大事にするようでは親の資格はない。

ストルゲから次は「リーベ」に発達していきます。親子の情愛があんまり濃すぎる人はね、夫婦生活がうまくいかないことが多いんです。精神的離乳ができないと普通よく言いますが、それはこれです。ストルゲの世界だけで精神的離乳ができないと奥さんを愛することができない。何故なら奥さんよりお母さんの方を大事にするからです。リーベというのは夫婦の愛です。夫婦愛です。夫婦の情愛はある意味で非常に排他的なものです。排他的でなきゃあ困ります。だけれでも夫婦の愛情というものは、ストルゲが本能に任せておけば良いものであるのに対して、夫婦の愛情というものは親子ほども強さはないんです、ほんと言うと。残念ながら親子のような血の繋がりとか血の強さというようなものは無いのです。放っておいたら相手を愛せなくなってしまう性質のものなんです。夫婦愛は、より理性的・意志的な、だからここには選ぶということがあるんです。選んだら責任を持って愛していくという責任感が無いと、夫婦愛は育たないんです。ただ自分の感情に任せていたら、夫婦は決してうまくいかないんですね。その意味で親子愛より夫婦愛はずっと難しいです。法律的にもそうですね。夫婦は離婚したら責任は無くなります。親子はそうはいきません。しかし、親子愛は絶対愛だと言いましたが、残念ながら親子は別人格です。子供がどんなに可愛くても自分と一つじゃあないんです。一つの人格ではないんです。子供は成長したら必ず親から離れていきます。そうでなかったら悲劇です。別の人格、すなわち妻と結ばれ、人は父母と離れ妻と結ばれ二人の者は一体となるべきである、この奥義は大きい、とパウロは言っています。イエス様もマタイ伝でそう言っていましたね。人は神様が合わせた者を離してはならないと言っています。夫婦は一つ人格、聖書では。親子は別人格です。親は子を育てるまでの責任です。子供は結婚したら別人格です。今度はその二人が親しく一つになっていくように願うのが親子の関係です。夫婦は年を重ねる毎にいよいよ一つになって、終いにはどちらが男か女かさえ分からなくなる位一つになりますよ。いい夫婦だったら必ずそうです。性の問題を離れて一つになっていきます。だから夫婦はできるだけ別の性格の人と結婚する方が幸せです。全く違う者が全く一つになるのが理想です。そしてあらゆる人間関係の中で夫婦の関係が基本です。これがうまくいかないと、全部の人間関係がうまくいかなくなります。これは断言できます。夫婦が心を合わせていれば、乗り越えられない問題なんて無いんです、大体そうです。

夫婦が愛し合っていれば、必然的に対社会的な愛へと変わっていくんです。それが「フィリア」です。夫婦が本当に円満に充足して愛していて、初めて社会的な愛が育っていくんです。これが人間愛です。社会愛、博愛と言いましょうか。社会的な信用もこれが基本です。フィリアとは夫婦が本当に愛し合っている時に自然と開けてくる対社会的な愛なのです。そして夫婦愛だけが目的で生きている人は、これは自己目的的なものは必ず小さくなって滅んでいくという鉄則があるんですね。自己目的的なものは必ず自己矛盾に陥るんです。夫婦というのは夫婦の愛が目的ではないんです。これは原点です。夫婦の愛が本当にうまくいっている時には、必ず目的が社会の方へ向いていくんです。そういうものなんです。その愛は必然的に広がりを見せていきます。だから夫婦の愛が自己目的的なものにならないよう注意しなければなりません。

フィリア、すなわち人間愛、社会愛は後にはついには「カリタス」へと成長します。カリタス、これは神への愛です。これはプラトンが言っているのです。

プラトンはこれが愛の順序だと、愛が成長すると当然こういう形をとるんだと、愛の梯子、愛の階梯と表現しています。エロスはこの様に、一段また一段と成長していかなければならないと。自分が楽しむことや喜ぶことやね、そんなことばかり求めるのは最低の人間だということになります。それでは親子の情も育たないです。子供さえ愛することができないです。子供のことばかりで親子の情だけでは夫婦の愛が育たないんです。そして夫婦の愛だけでは人間的な広がりになっていかないんですね。人間的な愛も必ず神への愛へと成長していかないと未完成です。嘘ができます。偽善になります。神への愛がその基礎にあって、初めて社会への愛が正しくなってきます。ですから、こういう順序をちゃんと踏んで行かなきゃあならない。青年期はまあ自分のことしか考えない。しかし年をとって結婚したりすれば、子供に対する愛や夫婦に対する愛がちゃんと育っていきます。三十才を過ぎ四十才位になれば、少なくとも対社会的な愛が十分に広がっていかなければ社会ののけ者になりますよ。生きて行かれなくなります。そして四十才を過ぎて神様のことや永遠のことに目が開けて行くのは当然のことですね。人間は年齢的に成長していかなければならないように造られているんですね。エロスでさえもこんな素晴らしい階段を登っていかなければならない、とプラトンは言っています。そしてプラトンはこのカリタス、プラトンはイデアと言ったのですが、永遠であり不死であり、輝かしく素晴らしい霊的・精神的な世界のことをイデアの世界と言っています。このイデアの世界に向かって心が段々と神様の方に向かって登っていく。それが人間の愛でなければならない。このカリタスのことを天的エロスと言っています。別名プラトニックラブと言うんです。だからプラトニックラブというのは決して男女のほのかな情愛などを言うのは間違いです。プラトンが言っている愛は天的な、ついには神のようになりたい、永遠になりたい、不死の世界へ行きたい、肉体の束縛から離れてイデアの世界まで登って行きたい、その為だったら全部を犠牲にしても構いませんという程、プラトンのエロスは厳しいことを言ってるんです。その為だったら自分の肉欲を捨てて、あるいは親子の情も捨てて、夫婦の情も捨て、人間の社会から離れてでもカリタス、神様の愛へと行きたいと本当にプラトンは言ってるんですね。それ程プラトンの言っている愛は高い高いものを言っている。

それでもなおね、ここで言いたいのは、これらはエロスなんです。全部。エロスの梯子なんです。エロスはそれでもなお欠乏から出発した充足への愛なんです。下から上へというエピチュミア、欲なんです。そんなに美しいといっても、なお聖書から見ると欲の世界です。まだ。神になりたいなんていう求道して信仰して教会へ行っても、それでもなお人間はエロス的存在であることに間違いないんです。それに対して、繰り返しますが、神様の愛というものは全く正反対のものなんです。それは先程お読み致しましたヨハネ第一の手紙の第四章の七節をご覧いただきますと、三八〇頁に「愛するものたちよ、私たちは互いに愛し合おうではないか」とあります。アガペーは、エロスではなくて神のアガペーは、「愛は、神から出たものなのである。」欲から出るものではない、欠乏から出るものではない、完全充足であるところの神から出るものである。これは完全充足なんです。神様ということは、最初に申し上げましたように、完全・永遠・無限・絶対なるお方です。満ち満ちて、満ち溢れておられるのが神です。神様は欠乏するということが絶対にないお方。神は満ち溢れていらっしゃるんですね。神の愛は愛で満ち溢れているんです。だから、

† すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

神=愛。アガペー。神様は何かと言えば愛だと言えば一番正しいです。神様っていうことは何ですかと聞かれれば、宇宙を創造し、これを支配し、全ての生きとし生ける一切のものに愛を与え、人間の為には、そのひとり子イエス・キリストを与えてしまうところの愛ですよと。神様と言うのが嫌だったら、「アガペー様よ」と呼んだらいいです。「本当の愛様」と呼んだらそれで結構です。トマス・クックという人が言いましたが、この地球から水を取ったら砂漠になる。人間から愛を取ってしまったら動物(けだもの)になる。天の使いから愛を抜いたらサタンになる。悪魔になる。神様から愛を取ったら0(ゼロ)になる。神は愛であるというのは、神=愛ということです。そして神様の愛というのは、完全な充足から溢れ溢れて流れて来る、上から下へというのが神様の愛の方向性です。絶対に神様の愛は上から下へです。人間の愛は価値あるものへの愛です。神の愛は価値無きものへの愛なんです。人間は自己のための愛です。神は他者の為の愛です。人間は遂にアガペーを愛しますけれども、神はエロスを愛していらっしゃいます。神はそのエロスでしかない人を愛してらっしゃるのです。神様の愛は一方的です。人間の愛はあくまでも惜しみなく奪うというのがその特徴であるならば、神の愛は惜しみなく与う、というのがその特徴です。神はそのひとり子さえも惜しまずして、全人類を愛していらっしゃるというのが聖書のメッセージです。だから神様というお方は、愛さないということが一番できないんです。神様にできないことがあるとすれば、愛さないということです。これだけは神様にできないことです。神様の愛が矛盾するというのはね、愛することを止めたら、それは神の愛の矛盾なんです。だからアガペーという言葉の意味は、打ち負かされないという意味です。打ち負かされない行為、善意、それが神の愛という言葉の意味です。アガペーという言葉の意味です。アガペーは絶対に負けないんです。誰に負けないか。人間の罪に負けないんです。人間のエゴイズムに負けないんです。どんなに人が醜く、自分の為に神を利用しようとしても、そんな醜い人間でも神は愛することを絶対止めない。愛が負けるってことは、愛することを止めたということです。愛想も小想も尽き果てたというと、愛が敗北したっていうことです。

神様の愛は激しく人間のエゴイズムに迫ってきます。これは対決と言った方がいいかも知れません。神様の愛は必ずその人に向かって対決することを求めていらっしゃる。激しく神の愛と人間のエゴイズムがぶつかり合うところが、対決する場所が必ずあるんです。聖書の中に出てくる人物は全部そういう経験をした人です。どうしたかと言うと、エロスがアガペーに打ち負かされた、神様に負かされてしまった、神の愛に降伏してしまった。神様の愛に負けてしまったら大転換が起きるんです。神のアガペーに人間のエロスが巻き込まれて打ち負かされて、同じ方向へ、最早価値の為ではなく、自分の為ではなく、欲望の為ではなく、見栄や虚栄や自己満足の為ではなく、神の愛の故に神様の愛と同じように価値無き者を愛せざるを得ない、と言ったら、これはアガペーです。アガペーに打ち負かされたエロスです。そういうような宗教経験が絶対にキリスト教の中にはあるんです。聖書の中に出てくる人物は全部そういう経験をしています。何時か何処かで、必ず神様にとっ捕まってひどい目に合わされている。今まで自分自分自分と言って生きて来たのに、ああ、主よ、許して下さい、分かりました、もう私はどうなっても結構です。パウロは何と言ったでしょうか。私が呪われて捨てられてもいいから、まだ救われていない人達の為に私を用いて下さい。パウロはそう言って、我知らず祈っています。アガペーと本当に対決した人の、打ち負かされた人の言葉です。聖書の人物は全部そうなんです。ですから神様に愛されるということは、皆さん、本当に恐ろしい怖いことで、辛いことで、厳しいことで、仇や疎かで神様を好い加減にしていたら、本当にユダのように滅びることになります。永遠の滅びに堕ち込むことになります。神様の愛を本当に真剣に学ぼうとすると、神の愛は私に挑みかかって来て、襲いかかって来て、この聖書の中で、神は私達に対して本当に仮借のない厳しさをもって私を神の愛の中に引きずり込んで下さる、そういうお方です。むしろ、逃げても逃げても逃げても、追いかけてらっしゃる。恐ろしいですね。だから聖書を学ということは、ある意味で本当に恐ろしいことです。今までは自分の本能の欲望だけで生きていたのに、気がついてみたら自分を捨ててでも人の為に生きざるを得なくなってしまうという、本当にそういう生き方をさせて下さるのが神様です。アガペーの一番大きな特徴は、人間のエロスの一番大きな特徴が価値を愛するのに対して、アガペーは価値無き者を愛し、愛し抜くことによって相手に本当の価値を植え付けてしまう。相手をアガペーと同じようなものに引きずり込んでしまう力がアガペーの愛。これが負けないということの意味です。聖書を読んでみると本当にね、気がついてみたら神様の愛に引きずり込まれている人ばっかりです。聖霊というお方はそういう働きをするお方です。本日お読みしたヨハネ第一の手紙の第四章を、本日の説明とあわせて再読していただければ、ようくお分かりいただけると思います。再読します。七節から十二節です。

† 愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は神を知らない。

本当にね、人を愛そうと思わない人にはね、神様の話をいくら聞いても、頭で分かっても、実は一つも分からない。愛する為に心を用いなかったら神のことは分からない。一度、少しでも愛そうとしたら、自分が犠牲を払えないことが必ずよく分かります。

† 神は愛である。

愛無き者は神を知らず。神は愛なればなり。

† 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛(アガペー)が明らかにされたのである。

愛というのは私達が神を愛したのではなく、神が先ず最初に私達を愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物として御子をお使わしになった。ここに本当の神の愛であるアガペーがあるんですよ、と言っているんです。

† 愛する者たちよ。神がこのように私たちを愛して下さったのであるから、私たちも互いに(アガペーを持って)愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにいまし、神の愛(アガペー)がわたしたちのうちに全うされるのである。

一頁前の第三章の十六節から。

† 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛(アガペー)ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。

これがキリスト教の倫理です。聖書の倫理とは、こういうものが聖書の倫理です。一言で言ったらこの句程よく言い表しているものはないですね。主は私達の為に命を捨てた。それによってアガペーということを知った。私達もまた自分を捨てて、本当に兄弟の為に命を捨てよう。こういう「こだま」です。聖書の歴史を読んでみますと、イエス様が最初に、父よ彼らを許して下さい、彼らはそのなすところを知らないからです、と言って自分を十字架に付けた人のために許しを祈って死んでいきました。もうそれは直ぐ、ほんの何週間か何ヶ月かの後にもう最初の殉教者ステパノがでてきます。ステパノが何と言ったか。自分が石で打ち殺されているのに、主イエスよ、この罪を彼らに負わさないで下さいと言って死んでいった。もう直ぐにそういう愛のこだまが始まった。それが初めは小さいけれども、必ず一人から二人、二人から四人という風に広がっていったのがキリスト教の歴史です。だから私達は、どうか唯自分の教養の為とか、少し信仰を持ったら少しは気が優しくなるだろうとかなんて、そういう程度ではない。本当はそういう神様との激しい対決、神のアガペーとの激しい出会い。出会いというのは、宗教心というのはむしろここですね。私達が初めて教会に行ったりして神様を信じるのは、まだカリタスの世界なんです、実は。救われたい、もう少し真面目になりたい、もっと清い生活をしたい、もっと人間らしくなりたい、みんなこれらはカリタスです。だけれども、カリタスで登って行った時、必ず神様がそこへアガペーとの出会いをさせて下さいます。それをした時、ギリシャの最高の愛であっても、なおここまででしたけれども、イエス様と同じように、パウロと同じように、私達が愛の為に生きるということが少しも矛盾無く、少しもやせ我慢ではなく、少しも無理ではなく、本当に自分の心の中に純粋に人を愛することができる気持ちが湧いてきているのを発見することが ・・・

■録音終了■