復刻版
『受難週のキリスト』

第五章 嘲笑の中のイエス

本書は絶版につき本サイトで復刻したものです。

植竹牧師の「それでもまだ言い足りない」 »

■ 第五章 嘲笑の中のイエス
<マタイによる福音書26章57~68節>

昨夜は、ペテロがついにイエスを裏切ってしまった、というところまで、ご一緒に学んでまいりました。

一番最初にイエスは、アンナスという人のところに連れて行かれ、そこで下役人の一人から「大祭司にむかって、そんなことをいってよいのか」と、み顔を平手でたたかれたというところをお話ししました。

こうして、もとの大祭司、実力者アンナスのもとにおける尋問を終り、いよいよサンヘドリンの議会が開かれたのでございます。それはまだ夜が明け切らない午前五時ぐらいであったと思います。正式な議会は六時からで、その前の予備的な尋問が五時から行なわれたと思います。

時の大祭司カヤパのもとに送られたイエスに対し、彼らははじめから、死刑を宣告しようとして、裁判を開いています。これから善いか悪いかを決めるのではなく、頭からイエスを死刑にするという前提で、彼らはまず、予審というべきものを開きました。最初に集められたのは、大祭司たちの一番信頼できる、身近な議員たちだけであったようです。

サンヘドリンというのは、七十人の議員による最高法廷で、死刑執行に当ってのみ、ローマ政府の命令が必要でありましたが、実際に生殺与奪の権を持った宗教議会であります。いわば、神の代理を務めるべきその議会が、はじめから偽りの証拠を集めて、偽証によってイエスを失脚させよう。なんとか言葉尻を捕えてでも、イエスを有罪にしようとしたということは、大変恐ろしいことです。

最近、私たちは旧約聖書の申命記を読んでいますが、偽りの証言をした者は、彼が証言したことを彼自身に行われなければならない、と19章にあります。それなのに、今、彼らは、裁判によって合法的に、イエスを死刑に追い込もうとしているのでございます。

多くの人が、人れかわり立ちかわり、偽証人として立ちましたけれども、残念ながらつじつまが合わなくて、何一つ、イエスを訴える口実は得られなかったのです。二人の者が立って、

「イエスは、四十六年もかかって造ったこのエルサレムの神殿をぶち壊して、三日で再建することができるといいました」

などと、訴えましたけれども、もち論、そんなことは、実際に壊してから造れなかったのでなければ偽証にはなりません。ただ、大言壮語したというだけです。死罪に相当する罪が見当らないので、彼らは、ああもいい、こうもいい、なんとかしてイエスを陥れようと躍起になっていましたが、イエスは、誰がどんな証言をしても、何もいわないで黙って立っておられました。

ゲッセマネの園において「父が私に与えて下さった杯を、どうして飲まずにおられるだろうか」と決意されたイエスは、いささかのひるむ様子もなく、泰然として直立されておられたのでございます。カヤパは、

「なぜ黙っているのか、お前にとって、不利な証言が次々と出ているのに、なんとかいわないか」

と、いいましたが、イエスはそれに対しても、ひとこともお答えにならなかったのです。しかし、ことは急を要しています。一刻も早く、夜が明け切らぬうちに決着をつけて、ピラトの官邸まで連れて行かぬことには、いつ、民衆がこれを知って暴動を起こすかわかりません。カヤパは、ついに意を決して立ち上り、イエスにむかって、当時の誓いのしるしですが、指をこうして三本立ててですね、

「神に誓いなさい。誓って、あなたに聞くが、あなたはほむべき者の子、生ける神の子キリストなのか、私たちに答えなさい」

そこにいた大勢の議員の目が一せいに、イエスに注がれました。息づまる一瞬です、イエスは何と答えられるでしょうか。もし、そこで「私はキリストではない」といったら、彼は罪を免れるでしょうが、メシヤであることを自ら否定することになります。

ついに、イエスが命をかけて、自分こそがキリストである、救い主であると、宣言なさるときがきたのでございます。

イエスは、真正面からカヤパの顔をじっと見つめられました。今まで、どんなに不利な証言をされても、ひとことも口を開かれなかったイエスが、今、毅然として答えられたのです。

「そうだ。あなたがいわれるとおり、私はキリストである」

まるで、はち切れんばかりの緊張感がその場をおおいました。まだ、イエスが何かをいい続けようとするので、人々はなおも緊張して、一様にイエスの口もとに視線を注いでいると、

「しかも、やがてあなた方は、人の子が(ご自分のことです)全能の神の右にすわって、あなた方を裁くために雲に乗ってくるのを見るだろう」

それを聞いた祭司長たちは、もうなんともいいようのない憎しみと、恐れと、反感をむき出しにして、穴があくほどイエスを見据えました。しかし、もうそれ以上何もおっしゃらず、口をつぐんでしまわれたのを見ると、大祭司のカヤパが、まず大声を上げて、

「ああ、彼は汚しごとをいった。神を冒とくした。自分を神の子だといった。もうこれ以上何を聞く必要があるだろうか」

そういうなり、彼は着ていた上衣をびーっと裂いて、地団駄を踏んで怒り狂ったのです。

「ああ、何ということだ。歴史がはじまって以来、自分を神の子だなどといった者かいただろうか。彼は人間であるくせに自分を神の子だといった」

そうです。イエスは神の子です。<神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである>(ヨハネ1:18)

当時の宗教家たちは、どうしてもイエスを神の子と認めることはできませんでした。彼らがイエスに対して持っていた感情は、自分たちの人気を引きずり落し、民衆の信頼を独り占めにし、ことあるごとに我々をやり込めてきた、実に憎たらしい反逆者、にせ宗教家としてしか、見ることができなかったのです。一昨日もお話しましたように、カヤパ及び当時の宗教家にとっては、イエスをメシヤとして迎えるか、さもなければ、徹底的にイエスを抹殺するかしか方法がなかったのです。そして、そのときがきてしまった今、彼らはイエスを殺すという前提で裁判をするしかなかったわけです。

「諸君よ、お聞きのとおりです。あなた方はどう思いますか」

議員たちに同意を求めたカヤパに対して彼らは一せいに「死刑だ、死刑だ」「イエスを殺せ」と叫びたてました。実にイエスは、自分が神の子であるとひとことおっしゃっただけで、死刑に決まったのです。誰もイエスに罪があることを認めることはできませんでした。ただ、神の子であるといったというだけで、彼を殺すことに決めたのです。

ほんとうは皆、うすうすイエスが神の子ではないか、と思っているのです。

私は皆さんに聞いてみたいのですが、どんな人でも、神がおられることを知っています。

知らない人なんて一人もいないのです。ただ、神がいるとなると困る人がいるだけです。罪があるからです。ただそれだけの理由なのですよ。神はいない、とか、神なんて信じない、とか、無神論者だという人たちは、神かいない方が都合がいいだけのことです。本当にただそれだけの理由なのです。皆さんはあまり知らないかも知れませんが、ソ連のあのフルシチョフでさえ、死ぬ時はバプテスト教会の洗礼を受けているのです。人間は誰でも死が近づいてくると神の存在が気にかかるのです。

当時の宗教家たちは、イエスは、もしかするとほんとうに神の子であるかも知れないと、感じはじめていたはずです。だからこそ、彼らはそれを受け人れて礼拝するか、否定して十字架につけるか、どちらかに追られたのです。

皆さん、今日ここでお話を聞いている皆さんも、いつかほんとうに、イエス・キリストを神の子として受け人れるか、あるいはついに否定するか、どちらかに必ず追い込まれます。イエスの話を一遍でも聞いた以上は、必ず決断を追られるときがきます。それはなぜでしょうか。イエス・キリストは真理だからです。人間は誰でも、真理に逆らっては生きられないのです。

イエスの前に立って、中間ということはないのですね。神の側につくか、サタンの側につくか、それしかないのです。イエス・キリストは、あなたの心の扉をたたいておられます。あなたか扉を開くのを忍耐強く待っておられるのです。あなたが少しでも心を開かれるなら必ず心の中に人ってきて下さいます。受け入れたからといって、信じたからといって、立派なクリスチャンにはなりません。すぐになれる、そんな人は滅多にいません。それからも罪を犯します。でも、今までは悪いことをしても平気でおれたのが、イエスを受け入れた人は、今度は平気でおれなくなるのですね。そして、それがだんだん、だんだん、心の中に広がって行って、ついには、ほんとうにイエスに降伏し、清められ、聖霊を受け、神に生かされて歩む者となるのです。そうなるかあるいは、イエスを心の中で抹殺してしまうか、そのどちらかです。

ユダヤの国は、サンヘドリンの議会において、国家として、イエスを受け入れない決議をしました。今日にいたるもいまだに、公式的にはイエスを受け入れてはおりません。

こうして、サンヘドリンはついに、わずか二十分か三十分で議会を閉じました。しかしまだ六時までには時間があります。というのは、法律で、朝六時にならないと、正式の裁判は開けないことになっていたからです。

やがて、六時が近づくと、門番の女中は忙しくなりました。次から次と、七十人もいる議員たちが到着してくるからです。彼らは縛り上げられているイエスを嘲笑しはじめました。ある者は、イエスの前を通りながら、憎々し気に「けっ」とつばきを吐きかけて行きます。ある者は平手で打ちたたき、ある者は顔をゆがめて毒づきます。祭司であり議員である彼らは、自分たちの社会的な地位や身分をも忘れて、イエスを小突き、罵倒して通って行ったのでした。

<わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった>(イザヤ書50:6)

これは、受難のイエスの預言の一つです。

皆さん。イエスの受難の物語は、決して美しい物語ではありません。恐ろしい、残酷な、人間の歴史はじまって以来の無残な物語です。イエスは、静かに押し黙ったまま、顔を背けることをしないで、彼らの吐くつばきをまともに受けておられたのです。

私たちの罪が、決して夢や幻の物語でないと同じように、イエスが、私たちのために受けた刑罰や辱しめも、決して絵に書いたようなものではなかったのです。

それから、ルカによる福音書は、本議会がはじまるまでのしばらくの時間のことを記しています。

<イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、目かくしをして「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。そのほか、いろいろな事を言ってイエスを愚弄した>(ルカ22:63~65)

イエスを監視していた下役どもの行状が書かれてありますが、僕というものは主人の行いを真似します。良い所はなかなか真似ませんが、悪い所はすぐ真似をします。彼らは、自分の主人たちがつばきを吐きかけ、嘲弄するのを見て、今までは、イエスの毅然たる態度に気おされていたのですが、恐る恐るイエスをたたいてみました。それから、

「なあんだ、これがキリストか、メシヤか」

と嘲弄し、小突いてみました。しかし、何も起きません。

「なんだおまえは、偉そうなことばかりいって、これがメシヤだと。」

嘲弄は次第にエスカレートして、ついには棒でたたくやら、平手でたたくやら、こぶしでたたくやら、揚句の果てには、顔に袋か何かをかぶせて、ぼんぼんたたき、

「誰がたたいたか、メシヤなら当ててみろ」

という始末です。

一番最初、アンナスのところで、アンナスの軽卒がイエスの口を打ったとき、誰も止めようとはしませんでした。彼らの憎しみは、そのときからすでにあったのです。まだ有罪とならないので、誰もそれ以上打つことはしませんでしたが、今罪が決まったとなるや、残忍な男たちの手のなすに任せて、イエスはいたぶられたのでございます。イエスが、何をされても黙っておられるので、彼らは図に乗り、そうすることが主人たちの気に入ることであると思ってか、ほんとうにひどく取り扱ったようです。

やがて、六時になりました。次々に登場してきた議員の中には、イエスを弁護していたアリマタヤのヨセフや、ニコデモのような人たちもおりました。他の議員たちは、どうしても、にやにやと笑いがこみ上げてくるのを、抑えることができず、

「これがナザレのイエスか。なんというざまだ。これほど情け無いやつとは思わなかった。それにしても、弟子たちもなんという不がいのないことよ。全然抵抗しないとは」

口々にイエスをののしりながら、入ってまいりました。(私はヨハネが、どこかに隠れてその様子を見ていたのではないかと思うのです)

人間の心の中には、のぞき込まない方がいいような恐ろしいものがあるのですね。アウシュヴィッツであるとか、南京の虐殺であるとか、戦争中の軍隊のリンチ事件など、よく聞くことですが、これは誰の心の中にもあるのですね。いざとなると、人はどんな残忍なこともできる性質を持っているのです。普段は、行いすまして立派な大僧正のように振舞っている彼らの心の中に、聖なるものに対する憎しみがあることがわかります。

こうして、正式な裁判がはじめられようとしています。イエスの顔を想像して下さい。私たちのために嘲笑され、つばきされ、たたかれ、なぶられているイエスの顔を。

<悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしり返えさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである>(Ⅰペテロ2:20~24)

皆さん、損をしても、ひどい目に合わされても、ののしり返すことは罪です。痛みを持って、愛を持って、たしなめる以上のことは罪なのです。感謝することが沢山あるのに、さ細なことで不平をいったり、文句をいったり、不機嫌になったりするのも罪です。自分の境遇や環境が悪いからと自暴自棄になることも罪です。その人は、どうかイエスの顔を見て恥じて頂きたいと思うのです。

私たちのためにイエスの受けたこの辱めを思うとき、私は気難しいだけでも罪だと思うのです。<悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだといって何の手柄になるのか。人がもし善を行ってなお、苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることです>。まことに、嘲笑され打ちたたかれながら、イエスの目は正しく裁き給うお方に注がれていたことを思います。

いよいよ、正式な裁判のときがきました。しかし、もう偽証人を呼ぶ必要もありません。

カヤパは威儀を正して、

「イエスよ、もう一度お前に尋ねる。神に誓って答えなさい。あなたは神の子、キリストであるか」

イエスはすぐに答えました。

「あなたのいうとおり、私はキリストです。あなた方は必ず、私が神の右に立っているのを見るようになるでしょう」

「諸君、聞いたか。彼はまたもや己れを神と等しくした。これ以上何をいう必要があるだろうか。諸君の意見はどうか」

「彼は神を冒とくした。有罪だ、死刑だ」

第二回目の裁判は、なんと、わずか二、三分で終ってしまいました。アリマタヤのヨセフやニコデモの抗らう声はかき消され、カヤパは閉廷を宣告したのです。

イエスが神の子であるということは、信じる者にとっては救いですが、信じない者にとっては、これほど恐ろしい神への冒とくはありません。いつの間にか群衆は膨れ上り、それぞれ叫び合いながら、彼らはイエスをピラトの官邸へと引き立てて行ったのです。

このとき、小さなエピソードがあります。

群衆の間からその様子を見ていたユダが、イエスの有罪になったのをみると、たまらなくなって、まだ残っていた祭司たちに駆け寄りました。

「ああ、私は罪のない人の血を売るようなことをしてしまった。どうか助けてくれ」

ユダが真剣な顔でやってきたので、また何か新しい情報でも持ってきたのかと、緊張した彼らでしたが、ユダが単なる自責の念に駆られて後悔しているだけだとわかると、全然相手にぜず、

「ふん。今になって何をいうか、そんなことは自分で始末をしたらいい」

と剣もほろろでした。ユダは彼らからもらった金包みを神殿の中へ投げ込むと、ふらふらとさまよい出て行ったのでした。

ユダは一時、一番用いられた人でした。イエス集団の会計係であり、実権を持っていました。人間的にも力量的にもナンバーワンだったのです。ペテロは偉かったけれども、おっちょこちょいで信頼性がありませんでした。しかしユダは深謀遠慮、どちらかといえば陰気な暗い男でしたが、誰もが彼に一目置かざるを得ないほど、意志の強い、行動力のある、思慮の深い男であったと思われます。

ただ、彼の唯一の欠点は、イエスに心を開かなかったことです。正直でなく、いつも心に秘密を持っている人間だったのです。それが、彼の心にサタンの入り込む場所となっていたのです。

<きょう、神のみ声を聞いたなら、あなた方は心をかたくなにしてはならない>とヘブル人への手紙に書いてありますが、秘密を持つ人は不幸です。

さて、ユダは夢遊病者のようにふらふらとさまよい歩きながら、彼の脳裏には、イエスやその弟子たちと共に過ごした日々のことが、まるで走馬燈のように駆けめぐるのでした。

そしてこのわずか二日間の出来事が、とても長い長い時間であったかのように思え、魂の抜けがらのようになって、とうとう自ら首をくくって死んでしまったのでした。

なぜあのとき、彼はイエスのところに行かないで祭司のところに行ったのでしょうか。もし、引き立てられて行くイエスのもとに泣きついていたなら、彼は、あのペテロがゆるされたと同じように、ゆるされたでありましょうに。

こうして人々は、イエスをピラトのもとへと連れてまいりました。

さて、この悲しいイエスの受難のドラマの中で、世界中のクリスチャンが永遠に忘れられない名前、それはポンテオ・ピラトです。本当に悲しい役割を果した彼は、シリアに駐在したローマの総督でした。普段はカイザリヤという、海に面した、大変風光明媚な所に住んでいたのです。エルサレムは、都ではありましたけれど、堅苦しいだけの宗教的な町でした。それに比べてカイザリヤは、適当に遊ぶ所もあったので、ピラトはこのカイザリヤを好んで、ここに邸宅を建てたようです。

しかし、一年に一度のこの過越の祭りのときには、世界中から多くの人が集まってくるので、ピラトは任務上、エルサレムにあるアケラオの官邸に、何千人もの兵士を連れて、駐在していたのでございます。

彼は非常に粗野で頑固、公然と賄ろを取る乱暴な性質を持っていた男で、ルカによる福音書13章1節では、ピラトがガリラヤ人の血を流して、それを彼らの犠牲の血に混ぜたと、人々がイエスに報告するところが記されています。イエスが決して架空の人物ではなく、歴史上の人物であることを証明するためにも、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けている記述は貴重です。ピラトは大体ユダヤ人が嫌いでした。その在世中ついにユダヤ人に対して心を開いていません。

ユダヤ人というのは、過去の栄光にこだわり、いまだに世界征覇の目的を捨てようとしない、頑迷固陋な、宗教色の強い民族であるとピラトは最後までユダヤ人を信用しませんでしたし、ユダヤ人たちもまた、ピラトを愛しませんでした。当然ローマ政府もピラトのユダヤ総督任命は失敗であったとして、やがて彼は左遷され、非業の最後をとげた人物です。

彼は、まだ朝の六時ですからたぶん寝ていたと思います。

「閣下、緊急を要する件で大祭司カヤパが訴えてきました。すぐ起きて下さい」

と無理矢理に起こされ、

「ああ、うるさい。夕べのマージャンの疲れが残っちょるのに」

とかいって、不機嫌そのものの顔をして出てきたのですが、見ると、いかにも弱々しい男が一人、青白い顔をして散々いたぶられ、嘲弄されながら立っています。それを囲むようにして、カヤパを始めエルサレムのお偉方がずらりと並んでいるのです。

「どうした。一体何があったのだ」

「閣下、大変です。これはおおごとです。国家の治安を乱し、カイザルに税金を納めることを禁止し、自分はユダヤ人の王だと豪語している男を捕まえて来ました。どうか、閣下の公正なご裁判をお願いしたいと思います」

ピラトは仕方なしに

「ユダヤ人の王だと。それは聞き捨てならん。ユダヤ人の王は別にいるはずである。それで、その男はどんな罪を犯したのか」

「閣下、彼は治安を乱す恐れがあります。大勢の兵士や僕たちを集めて、都に暴動を起こそうとたくらんでいます」

一生懸命、いろいろなことをいいますが、その訴えの中に「彼は自分を神の子だといいました。メシヤだといいました」ということはひとこともいってないのです。そんなことをいえば「それはお前たちの宗教上の問題ではないか。自分たちで勝手に処分するがいい」とピラトから馬鹿にされるだけです。

「閣下、我々の律法によれば、彼は死罪に相当するものですが、残念ながら我々には死刑を執行する権限がありません。何とぞ、閣下のおゆるしをいただきたいのです」

ヨハネによる福音書18章を見れば、この経過が詳細に述べられています。これは、イエスがどのような死に方をされるか、預言されていたことが成就するためである、と書かれてあります。ユダヤの法律で、もし死刑が行なわれるとしても、それは石打ちの刑が最高刑であって、十字架はないのです。ローマの法律でないと十字架にはつけられないのです。ユダヤ人が最も恐れたのは十字架です。なぜなら、十字架は神に呪われた死を指すからです。それで彼らは、何とかしてローマの法律によりイエスを処刑したかったのです。

ピラトは、イエスだけを自分の奥の間に呼んで、もう一度尋問してみました。

「お前は訴えられてきているが、一体、何の罪で訴えられたのか。本当にお前はユダヤ人の王なのか」

「その質問は、あなた自身からですか、それとも彼らからの入れ知恵ですか」

このやりとりは、ヨハネによる福音書18章を見ていただきたいのですが、どっちが裁いているのかわかりません。そこには恐らく警護の兵士たちが大勢いたことでしょうが、イエスはその中で真正面からピラトの顔を見、ピラトの方がおどおどして、どうにも間が持てなくなり「お前はユダヤ人の王なのか」などと聞いたりして、反対に「それは誰からの質問ですか」とイエスに尋ねられています。以来、今日にいたるまで裁かれているのはピラトです。彼がどんなに無能力で、自己保身的で、情けない卑怯な裁判官であるかということは、いまだに裁かれ続けているのです。

ヨハネによる福音書18章37節。ああなんという素晴しい宣言でしょうか。

<そこでピラトはイエスに言った「それでは、あなたは王なのだな」イエスは答えられた「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」>(ヨハネ18:37)

ピラトは自分の名誉と地位と保身のことしか考えていない。だからこのあとイエスにむかって「真理とは何か」と聞きましたけれども、聞いたのは黙っているわけにはいかないから照れ隠しに聞いただけで、聞くなり出て行ってしまいました。要するに逃げ出したのです。真理に背をむけたわけですね。ヨハネはその雰囲気もよく書き表わしています。

でも、ただ一つピラトがわかったことがあります。「これは単なる宗教上の問題で、私が裁判すべき性質のものではない」ということです。「別に暴動を起こし、ローマ政府を覆すような男ではなさそうだ。これはきっと、ユダヤ人同士の問題に違いない」とそれだけはよくわかったのでした。

他の福音書を見ると、ピラトは、イエスがユダヤ人であるだけでなく、ガリラヤの人間であるとわかったので、丁度そのとき、ガリラヤの王であるヘロデが、エルサレムにきていることを思い出し「ヘロデの所で裁いてもらえ」とそちらヘイエスを送り届けたのでした。

ヘロデは″キツネ″とイエスからいわれた男で、彼は弟の奥さんを自分の妻にしてしまったため、バプテスマのヨハネにたしなめられたことを根に持ち、ヨハネを牢に閉じ込めていたとき、あの有名なヘロデアの娘サロメが、ヘロデの誕生日に舞を舞ったので「なんでも欲しい物を上げよう」といったばっかりに「バプテスマのヨハネの首を」といわれてヨハネを殺さざるを得なくなった、あの男です。

マルコによる福音書を見ますと、へロデはバプテスマのヨハネを恐れながらも、彼の話を聞きたいと思っていた、と書いてあります。悩みながらも喜んでヨハネの話を聞いたというのです。そういう男でしたから、彼はイエスがきたので、大いに喜んだのでした。彼は何か奇跡が見られるかと思い、手品師でも迎えるようにして、イエスにいろいろ質問をしたのですが、イエスはひとこともお答えになりませんでした。

求道心はあるけれども、全くこの世的な、ずるいヘロデを、イエスは無視し続けました。だからヘロデはどうすることもできない。その上、イエスがバプテスマのヨハネの生まれ変わりだという噂を信じているヘロデは、イエスを恐れていましたから、もう一度殺すなんて真っ平です。彼には今もヨハネを殺した悔恨がありました。

「お前は王様だそうだな、そんなみっともない恰好ではかわいそうだから、いい着物を、着せてやろう」

そういってイエスを愚弄し、兵卒どもと一緒になって散々侮辱したあげく、派手な着物を着せて送り返したのです。

一方、ピラトは、イエスをヘロデのもとに送り「よかった、もうこれですんだ」と、せいせいして、明日の過越の祭りに備えて朝風呂でも浴び、ゆっくりくつろごうと思ったやさき、またしても厄介者が帰ってきたので「ああ、またきた・・・」とがっかりしましたが、仕方ありません。もともとエルサレムで起きた事件ですから、自分が裁かねばならないのです。それでまた裁判のやり直しです。どの福音書も書いていることですが、ピラトは、ほとほとイエスを持て余したのです。

「どうしたらよいだろうか。私はどうしても彼に罪を認めることができない。じゃあ一つ、むち打ってから釈放するとしようか」

ピラトは「イエスに罪が認められない」とすでに何遍もいっているのです、それなら自分の権限でイエスを釈放すべきだったのです。しようと思えばできたのに、彼はしなかった、なぜでしょうか。彼は怖かったのです。ユダヤの民衆たちが、その支配者たちが。そして彼は、こんなつまらない男のことでユダヤ人たちから恨まれるのは困るので、別にむち打つ必要などないのだけれど、ユダヤ人を納得させるためにそうしようと思ったのです。

そのときふと、彼に名案が浮かびました。

ピラトは、祭りの度ごとに囚人を一人だけゆるしてやることになっているのですが、彼は今、バラバという男を思い出したのです。

この男は、誰ひとり知らぬ者のない悪人で、都で暴動を起こし、多くの人を殺害した恐ろしい囚人です。このバラバとイエスを並べて、どちらをゆるすか、と聞けば、まさかバラバをゆるせとは誰もいうまい。イエスをゆるせというに決まっている。

そこで彼は、イエスとバラバを連れてきて群衆の前に立たせました。

「諸君、あなた方の祭りの日に、囚人を一人ゆるす慣例になっていることは、ご存知のとおりである。余は、今からこの二人のどちらかをゆるしたいと思う。バラバにするか、イエスにするか、答えてみよ」

ところが、そこにいた群衆というのはほとんどが、大祭司の僕や手下と、彼らが狩り集めてきた連中です。彼らは大声で「バラバをゆるせ、バラバをゆるせ」と叫んだのです。

まさかこんな声が起こるとは思ってもいなかったピラトはろうばいしました。

「それでは、このキリストと名乗るイエスをどうするのか」

「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」

その叫びはいよいよ高まり、ルカは<その声が勝った>と記しています。ピラトはなんとかイエスをゆるそうと努力しました。このごう慢なピラトが、イエスのために何度か群衆にむかって哀訴したのです。しかし、そこまでしながら、彼はついに決定的な決断をしなかったのでした。

最後に彼は「もう私の手には負えない、この人の血について私には責任がない」と、人々の見ている前で手を洗って見せたとマタイは書いています。しかし、それでもなお、イエスに罪の判決を下したのは、ピラトなのです。そして、イエスはむち打たれたのち、十字架につけられるために、兵卒どもの手に渡されたのでした。

ところで皆さん、私たちは、ほんとうはバラバなのです。

近いうちに死刑になると覚悟していたバラバが、何があったのか知りませんけれど突然「出てこい。バラバ!」と呼ばれ「まさか、安息日に死刑になるとは思わなかった・・・」

と、刑吏に小突かれながら、手かせ足かせで長い鎖を引きずって出てきました。見ると、かつて自分がピラトから死刑の判決を受けたその場所に、一人の弱々しい、青白い顔をした男が、疲れ果てて立っているのです。バラバはその顔を見て思わず息をのみました。

なんという静かさでしょう。なんという優しさでしょう。なんという神々しさでしょう。血を滲ませ傷だらけのイエスと視線が会ったとき、イエスはほんの少し、バラバにほほえみかけたようでした。

呆然としているバラバの耳に「バラバをゆるせ、バラバをゆるせ」の叫び声が聞こえてきます。何が何やらわからないでいるうちに、彼は手かせ足かせを外され、

「この極道者め、全く運のいい奴だ、さっさと消え失せろ」

という怒声と共に、背中を一つどやされてよろめき飛び出し、気がついてみると、彼は全くの自由の身となっていたのです。彼はしばらく夢を見ているような気分でしたが、間もなくわけがわかったのです。

自分かつくべきはずの十字架に、イエスがつかれたのだ、ということを。