第1講 人生の四季

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■ 第1講 人生の四季 音声
■ 第1講 人生の四季
[聖書箇所]
伝道の書 3:1~15

† 天の下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたるものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人はその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変わることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。

[植竹利侑牧師]

今晩は。皆様よくお出で下さいました。この度は、私どもの教会が新しく出発して、創立しましてから満十周年を迎えますので、特別講演会を開催させていただきましたところ、最初の晩から大勢の方がお出で下さいまして本当に感謝を申し上げます。また、開催にあたっては大勢の教会スタッフの皆様が支えて下さり本当に感謝でございます。私に課せられております責任は、分かりやすく聖書のお話をするということでございます。暫くの間、よろしくお願い致します。

「伝道の書」の第三章に「天が下のすべての事には季節がある。」と書いてあります。そして「すべてのわざには時がある。」と記されています。確かに私達日本の国は、四季の移り変わりに非常に恵まれた大変素晴らしい国だと思います。今指揮をしました長女の日山かおるがヨーロッパで生活していますと、もうヨーロッパは冬が長くて夏が短くて、今年の夏は真夏でもセーターが必要だったと言っていました。ポーランドから十数名の方が、九月の末頃だったでしょうか十月に入ってからでしょうか、お客さんが来たんですが、その方達が十月でとっても寒かったのですが、今年のヨーロッパは寒くて寒くて、こんなに暖かかったら本当にラッキーだ、何処か泳ぐ所はないかと言っておられました。ヨーロッパの人達がどんなに寒い寒い生活をしているかということが良く分かります。二番目の娘がアメリカで長い期間生活しておりましたが、特にロスアンゼルスにおります時には、暑くて冬が本当に短くて殆ど夏のようだと言っております。しかし、本当に日本は恵まれたことに、春があって夏があって秋があって冬が来ます。四季の移り変わりがあるために引き締まった冬、あるいは温かい春、そして万物がもの凄い勢いで繁茂する夏、やがて実りの秋を迎えることができるのでございます。

スイスの医師で心理学者のポール・トゥルニエという人は、人生に四季があるということを申しました。ポール・トゥルニエという先生によりますと、人生の四季、先ず春、春は〇歳から二十歳までだと言うんです。もう二十歳で春が終わるとは、どなたかはもうちょっと困ったわと思う方があるかも知れません。春というのは、分かり易く申しますと、これは一つの準備の時です。それから迎えようとする夏の準備の時です。

春はどなたでも畑を耕したり種を蒔いたりする時期でございます。ですから人生二十歳までの春の時代というのは、これは準備の時です。準備の種蒔きの時にどんどんと収入があるとか、お金が儲かるという人は多分おられないと思います。種を蒔く時からお金を貰うようでは末が思いやられるわけです。だから私は若い人達にあまりアルバイトをしてはいけないと言います。もちろん家が貧しくて一生懸命やっておられる、親を助けておられる素晴らしい若者がおられます。これはもちろん議論の外です。そうではなく、ただ自分が楽しむためとか、遊ぶためとかのために手軽にアルバイトをしない方が良いと良く申し上げます。簡単にアルバイトをして簡単にお金を儲けるとロクなことはないのです。現在日本は非常に経済的な栄えておりますから、少し働けば食べることや遊ぶぐらいは直ぐできます。十何万円で短期間の外国旅行ぐらいは直ぐできます。日本は本当に恵まれているなあと思います。去年一年間で五百数十万人が海外旅行をしたと新聞は報じています。

このように日本は本当に恵まれていますから、食うには困らないので簡単に仕事を変えたり会社を辞めたりすることが平気になります。特に若い時に簡単に儲けることを知るということは、むしろ良いことではありません。私達はこの人生二十歳までは、十分に準備の時として時間を費やさなければなりません。仕事だってブロックを積んでモルタルで繋げたくらいでは、その人の人生で建つのはせいぜい物置かバラックです。ですから、この準備の時にしっかりと種を蒔くということはとても大切だと思います。私がよく若い人に申すことは、若い人はとても元気で体が美しくて、中学生・高校生はどんどん伸びて成長していきますが、この二十歳までの人生は本当に心して心して、今は自分の人生の基礎建築であるということをしっかりと心に添えて、簡単にお金を儲けたり、お金のことを考えないでいただきたいということです。また、お父さんやお母さんは、どうぞ子供さんを育てる時に、しっかりと基礎建設をしていただきたい。

最近よく、生後一年がとっても大事だということを言われる方がおられます。例えばソニーの名誉会長である井深大さんは、『幼稚園では遅すぎる』や『〇歳までの母親作戦』という本を書いておられます。その他、NHKなど色々なところで〇歳の赤ちゃんのことがよく話題になります。一歳までにその子供の生涯の基盤が決まってしまうと言われているようです。確かに思春期になってからノイローゼになったり、あるいは非行にはしってしまう子供は、一歳までの時間にほったらかしにされていることが非常に多いと最近発表している学者がいます。

確かにこの一歳までというのは、とっても大事な時なんですね。赤ちゃんというのは放っておいても育つように思うかも知れません。お母さんが生まれたばかりの子供さんを放っておいて、あるいは誰かに預けて、平気でアルバイトに行ったりパートに出たりしてされる方がおられますが、私は前から口やかましく申し上げるんです。事情が許さなければ仕方がないけど、子供とお金とどっちが大事なんですかとよく申し上げます。

子供は放っておいても育つけど、家は放っておいては建たない訳です。車は放っといては買うことが出来ません。だからお金を儲けなければ家も建たないし車も買えないと言って、子供を放っておいてお金を儲けていらっしゃる人がいます。しかし、子供の魂と、お金や家や車とどっちが大事でしょうか。人間の魂というものは、放っておいては絶対に育たないんですね。小さい時に放っておきますと、本当に大変なことになります。一歳までの子供というのは自我がないんです。自我がないから何でも受け入れるです。一歳までの子供は、恐ろしいほど環境の影響を受ける時なんです。

皆さんはこれから五日間お話を聞いて下さるわけですが、どんな良い話を聞いても、そうか、それならわしは一つ改宗してやろうなんて、そう簡単におっしゃる人は多分ないと思います。ちょこちょこっと五日ほど話を聞いて、もう私はクリスチャンになるなんて、そんな簡単に言うようでは、むしろ困ると言ってもいいくらいです。そんなに人生は、簡単には普通の人は変わらないことが多いわけです。人は誰でも良い話を聞くと、なるほどなるほどと理解して頷きますが、話なんてものは直ぐに忘れてしまいます。皆様も今日お帰りになった頃には、はて今日は何の話を聞いたかと思われる人も大分おられることと思います。先週の日曜日の牧師の話は何であったか、お聞きしても忘れておられる方がおられます。話した牧師自身が忘れているのですから無理もないですが(笑)。それくらい話なんてものは直ぐに忘れるものなんです。しかし、感じた事は非常に何か心に残ります。例えば良い話を聞くと、良かったな、楽しかったな、面白かったな、とそういう感じは心の中に残るわけですね。

ところが、大人は少しくらい感じたからといって、人生が変わるほど感じるということは、そうやたらにはない。それこそ女房に死なれて子供が交通事故を起こして人を殺して家が焼けて会社が倒産したくらい、それくらいの目に遭えば、その上自分が癌だったなんてことになるとですね、少しは人生を考えるかも知れませんが、そんなに簡単には人間は変わらないんですね、残念ながら。よっぽど打撃を受けるか、よっぽど感動するかしないと、あまり動かないわけです。

しかし、子供は違うんです。子供というものは、感じたことがそのまんま、その子供の性質になっていくんです。だから、一歳の子供なんて何にも分からないと思いますが、そうではないんです。分かる必要はないんです。子供の性質が変わっていくんです。例えばお母さんが忙しくてイライラ、夫婦は年中喧嘩ばかりしていたり、あるいはイライラ、ハラハラ、ドキドキしていたら子供はそういう風になっていくんです。お母さんの性格をそっくり子供は受け取ってしまうんです。小さければ小さいほど、子供は感じたことがその子供の性格・性質になっていくのです。

大人はそう簡単には変わりませんね。もう出来上がっていますから。相当辛抱することもできるし、発憤することもできるし反抗することだってできます。しかし、赤ちゃんには意志がないんです。人格がないんです。自我がないんです。だから、感じたことがそのまんまその子供の性質になっていくんです。一歳までで勝負がつくんです。次は三歳までです。四歳までと言う人もいますが。ですから、本当に子供に時間をかけ、手間をかけ愛情を注ぐということはとっても大事なことなんです。どんなに可愛がり過ぎても、手をかけても、かけ過ぎるということはないと私は思います。

乳児院と言うんでしょうか、養護施設で働いている寮母さんから聞いた話です。生まれて七ヶ月の赤ちゃんでもノイローゼになるんだそうです。ノイローゼになると寝なくなる、食べなくなる、便秘が始まるんだそうです。子供って寝るのが商売でしょう。年中寝てますよね。その子供が、七ヶ月の子供が寝られなくなるというんです。そのまま放っておいたら死んでしまうんです。その時どうするか。その施設では、事務所の中で一番人通りの多い事務所に近い所などに子供を置いて、先生方などそこを通る人が全員、その子供に声をかけるそうです。こうして、絶えず声をかけたり体に触れたりして愛情を注ぐと、ほんの一週間くらいでそのノイローゼは治るそうですね。皆さんもご自分のお子さんで試してみて下さい。生まれたばかりの赤ちゃんに、一言もしゃべらない、抱いてあげない、おむつを替えおっぱいをあげるだけで一年間放っておいてご覧なさい。先ず、言葉は完全に駄目になりますね。脳の発達は全く駄目になります。

小さな子供に対してはどれだけ愛情を注いでも注いでも、注ぎ過ぎるということはないんです。良い刺激がいっぱい必要です。そうするとその子供の性格が良くなります。頭脳は絶対に良くなります。それほど働きかけのあるなしで違うんですね。だから、小さなお子さんのために十分に十分に愛情を注いであげていただきたい。時間を使っていただきたい。それは人生において最も大事な時ですから。こういうお話は大事なお話なので、時を忘れて話してしまいますが次ぎに移りましょう。

親が子供に何かを与えることができるのは小学校二年生までだということをいつかお話したことがあります。本読んでとか遊んでとか、子供がお父さんやお母さんの傍に来るのは小学校二年生までなんです。それを過ぎた子供は何を言ったてそっぽを向いていますよ。三年生くらいから怪しくなり、四年、五年となったら呼んでも返事をしませんね。中学生になったら、ブスーとなって、高校生になると憎たらしそうな目で親を見たりしますよ。親の何かが効くのは小学校二年生までなんです。だから、それまでに如何に愛情を注いだかでその子供の品性・人格・性格が決まってくるんです。この時期を過ぎると子供の関心は親から離れ、今度は社会や友達や異性の方を向くようになります。だから、入れられる時にしっかりと愛情のインプットをしておかないと、親に扉を閉ざしてしまったら空っぽの人間になってしまうんです。ですから、種蒔きの時に親はしっかりと愛情を注いでいただきたいと思います。一歳までの子供はお母さんとの間に絶対的・基礎的な信頼関係があるんです。自分のことに全力投球していてくれる保護者がいるということがその子供の性格形成上、一番大事なことです。何をしていても、飛んで帰るとお母さんの懐が待っている、そういう時は一歳までなんですね。これがとっても大事です。

やがて思春期がやってまいりますね。十三歳から十八歳くらいまでですね。こういう時期に本当に夫婦が愛し合っていれば子供はまず間違いないです。三日目のまたこの問題はお話する予定です。思春期には色々な問題が起きてきますが、これはある意味において仕方がないと思いますね。思春期は危機の時期です。もの凄いスピードで身体は成長しますが、まだ精神的なことや社会的なものがついて来ないのです。ですから、非常に不安な状態になるのです。ちょっとしたことが、もの凄い劣等感になります。他人が羨む容姿をしていても本人は美人でないと悩んでいる娘さんもいます。他人の目とは関係なく、本人はほんの小さなことで深い深い劣等感を持ちます。そのくせ、何とかして親から自立するために親に対してはもの凄く激しく反抗したりするのです。反抗期がなければ自立できないほど、親子は本来べったりくっつき過ぎているから、それから自立するためには反抗する時期も必要なのだろうと思います。

よく牧師や医師の息子とかはジレンマに陥ることが多いですね。子供の実力や適性とは別に親は子供に期待するために非常に悩んで良い子をしてついてきますが、ある時がくると突然反抗したり、おかしくなってしまう話がよくあります。思春期は身体は強いが、本当はもの凄く弱いんです。高校生など身体は強くて瞬発力はありますが、持久力や忍耐力などは全然ないんです。高校生の女の子は本当に弱いです。ちょっとしたことで身体の不調を訴えます。直ぐ物事に飽きたりくたびれたりします。この時期、家事にしても何にしてもお母さんと競争するとお母さんにはかなわない。大きいのは図体だけです。高校生なんてそんなものなんですね。そのくせ偉そうなことばかり言って親を追い抜いたような顔をしています。だから、その時にしっかりと準備をしておかないと、やがて次ぎにくる夏に勝つことができません。

二十歳を過ぎますと人生の夏だと先程のポール・トゥルニエは言います。太陽がカーと照りつけ食欲モリモリの季節です。私は戦中派の終わりの方ですので、終戦時は十四歳くらいになっていました。少しだけ学校で軍隊教練を受けたこともあります。戦後、石原慎太郎という人がでて、「太陽の季節」という小説を書きました。太陽族なんて言葉が生まれまして、いわゆる戦後派という世代がもの凄く鳴らした時代があったんですね。二十歳からは正に人生の夏です。この教会の周りは山ですから、春になって枯れていた木から一斉に芽が吹き出しますと、毎日毎日全山がみるみるうちに緑が濃くなって、植物がウアーッと合唱しているのではないかと思うほどですね。朝は早くから小鳥の声で目が覚めて爽やかな朝を迎えます。太陽はキラキラと輝いて、全山がまるで燃えているように若さを謳歌している時があります。生命そのものを感じる季節です。

ところが、夏というのは案外あっけないですね。私は子供の頃には、夏休みが四十日というとヤッター、遊べるぞなんて思ってね、夏休みが嬉しくてたまらなかったものです。そして、さんざん遊んでもまだ三時、昼寝して起きたら、まだ四時といったぐあいで、本当に一日が長くて長くてたまらなかったものです。夏休みなんて、気が遠くなるほど遊べたような気がするんです。子供の時には時間の経つのが遅くて遅くて、気が長くなるほど時間の経過が遅かったような気がするんです。

ところが、段々年をとってきますとね、夏が過ぎ去るのがとっても寂しく感じるようになりました。初秋を迎えると、ああ夏も終わったなという感慨が一層深くなります。季節の移り変わりをとても早く感じます。時間の経過そのものが早くて早くてたまりません。一年なんて、あっと言う間に過ぎ去ります。特に夏はあっと言う間に過ぎ去っていきます。

人生の夏も、あっと言う間に過ぎ去っていきます。あんなに植物が繁茂し蝉がジーと鳴いてですね、ほんとに太陽がさんさんと輝いていた夏がね、八月の終わり頃には、もう秋の装いを始めるんですね。ポール・トゥルニエは、人生、夏は四十歳までだと言っています。四十になると秋が始まると言うんです。なんと早いですね。韓国では三十になると白髪が一本、地獄のお迎えと言うんだそうですね。早い人は四十で目がしょぼしょぼしてきます。何とはなしに歳をとってきた感じがもう出てきます。二十代、三十代では徹夜も平気、仕事も遊びも本当に気力が充実してましたね。一生懸命働ける時なんです。それが人生の夏です。女性も結婚、出産、育児と次から次へと馬車馬のようにできる時なんです。気力も体力も充実している人生の夏です。

ところが、四十歳を過ぎると、もうふっと秋を感じるんです。徹夜が出来なくなります。無理が利かなくなりますね。四十肩とか、身体のあちこちに故障が出てきます。人生はあっと言う間に峠を越えて秋になるんです。ポール・トゥルニエは、四十歳からは人生の秋だと言っています。そして、その秋がしばらく続きます。あんなに元気であったのにね、そろそろ成人病の心配が出てきます。四十歳を過ぎると時間の経過は加速度的に早くなります。あっと言う間です。若ければ若いほど、時間はのんびりと動くのですが、歳をとればとるほど時間のスピードは加速度的に上がってくるのです。

でも、皆さん、本当に感謝だと思いますが、人生の秋は実は収穫の時なのです。夏は建設の時、繁茂の時、活動の時ですが、人生の秋は収穫の時が来るのです。何時までも何時までも基礎工事をしている人はいないでしょう。何時までも建築工事をしている人はいないと思います。やがて家賃が入る時が来ます。収穫の時が始まるんです。そして、若い時には一生懸命働いても失敗ををしたり、叱られたり儲け損ねたり、あんなに一生懸命やっている割には収穫が少なかった筈です。出費も子供の養育費など多くありました。土地も買わなければ家も建てなければと、何時も何時もお金の心配がありました。

ところが、人生の秋が始まりますとね、ちゃーんと準備をして建設工事をした人には、今度は報いられることの方が絶対に多くなります。その時になって報いられることが少ないようでは本当は困るわけです。私にしても若い時に同じ説教をしても誰も感心してくれないのです。今はその時の同じ話をしても人は頷いて聞いてくれます。同じ精力、同じ努力でもね、若い時には収穫が少ないんです。報いられないんです。人が信用してくれないんです。ところが、ある程度歳を取ってきますとね、感謝なことに、同じ労力で若い時の十倍の報酬が来るんです。若い時に十年かかったことが一年で出来るようになるんです。ありがたいですね。身体の方は色々な意味において障害がおきてきますが、幸いなことに肉体的に衰えた分だけ、精神的には最も充実してくるのが四十歳から六十歳です。この時期になると人々が本当に信用してくれますし、その人の経験とか人柄とか実績とか、そういうものが働き出す時が来るのです。

この時期になると、昔はお願いします、お願いしますと頼んでもなかなか仕事をくれなかったのに、一生懸命やって四十から五十になると、向こうから一つ宜しく頼みますと、貴方でなくては駄目なんですよと言われて、向こうから仕事が入って来るんです。若い時には儲け損なっても、ある程度歳をとりちゃんと実績を積んで来た人は電話一本でかたが付いたり、電話一本で儲かったりするような、そういう季節が必ずやって来ます。ゴールデン・エイジ、収穫の時が始まるんです。感謝なことに、人間は肉体的なことや体力的なことだけで勝負していたら四十歳を過ぎたらもうお払い箱です。野球選手でも四十歳といったらもう限界ですね。どんなに張り切ってみても肉体的な美しさや体力は下降線をたどる時が必ず来るわけです。その時に、その人の霊的・精神的なことが顔を出してくるんです。その選手交代の時期が大体四十歳です。肉体的な美しさではなく精神的な美しさで勝負できる時が来るんです。知力とか経験とか、その人の精神的なもので仕事ができる時期が来るわけです。だから、四十代、五十代は正にゴールデン・エイジと言えると思います。視力が衰え、しわが増えてもです。神さまは公平だと思いますね。人生の秋は正に収穫の秋でございます。

やがて六十歳になりますと、人生の冬がやってまいります。これから老齢化社会が始まりますが、六十も過ぎますと、体力も気力も少し衰えてまいります。身体は衰えますが、精神的にはますます充実してくる時です。六十を過ぎたら、今度は円熟の時を迎えなければならない。ますます人間的に円熟して、収穫をしっかりと得て、もう自分のためには働かなくても社会のためとか、人様のために働くことが出来るような、そういう時期が来なければいけない。

今日は時間がありませんので、この五日間の間に、家庭とか結婚とかは改めて色々と触れたいと思いますが、この度は人生論的なお話をするつもりですので、教育の問題なども織り込みながら楽しくお話をさせていただきたいと思っております。

私はいつかこんな文章を書いたことがあります。中国新聞の洗心欄です。「歳をとるのは素晴らしい。ある人が老人の生理と心理を次のように言った。しわが寄る、ほくろができる、腰曲がる、頭はぼける、髭しろくなる。手は震える、足はよろつく、歯は抜ける。耳は聞こえず目もうとくなる。身に装うはずきん、襟巻き、杖、めがね、湯たんぽ、カイロ、溲瓶、孫の手。聞きたがる、死にとうながる、寂しがる。心が曲がる、欲深くなる、くどくなる、気短になる、愚痴になる。出しゃばりたがる、世話やきたがる。またしても同じ話に子を誉める。達者自慢に人は嫌がる。」と、こうです。

また、ある人は老年とは喪失の時代だと言っています。「悲しいけど若さを喪失し、体力を失い、職を失い、収入を失い、楽しみを失う。妻や夫まで失って、最後には自分の命まで失う。その上、愛も感動も慎みも失って、いぎたなく生きるのが老年期か。違う! 老年期はそんな薄汚いものとは違う。むしろ光り輝く素晴らしいものだ。私みたいなつまらぬ人間でも、ほんの少し精神的に生きて来ただけで、歳をとってからの方が人生万事素晴らしいんだ。昔、十年かかったことが一年で出来る。かけずり回って出来なかつく。同じ話をしても聞く人の姿勢が違う。同じ一日でさえも密度が違う。身体が衰えてみて初めて魂が人間なのだということが分かる。」それまでは肉体が人間だったのです。

「肉体の美しさが去って、初めて心の美しさが分かる。バラよりも老松の方が美しいことが分かる。肉体だけが資本なら四十歳はもう年寄りだが、精神が資本なら六十歳はまだ少年の域を出ない。私みたいな宗教家の端くれでもそうだから、本当に精神生活をした人の晩年は、どんなに輝かしいものだろう。『私が世を去るべき時が来た、私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通した。今や義の冠が私を待っている。かの日には公平な審判者である主が、それを授けてくださるであろう。』使徒パウロ」

「歳をとったら、自分を楽しませることしかしなかった人と、人を喜ばせることを心がけた人の差がはっきりと出る。」

楽しみというものは肉体的なものですが、喜びというものは精神的なものなんです。だから、肉体的な楽しみばかりを求める人は、精神的な喜びを持たないで終わる人がいます。十五や十六で儲けばかり考えて、ろくろく人生の基礎建設をしないで社会に飛び出しますと、戦前や終戦後など昔は仕方がない場合が多かったですが、今の若い人に本当に申し上げたいです。十七や十八で簡単に勉強を諦めて、お金儲けばかり考えると、三十や三十五で、もう夏が終わってしまうんです。五十になると相当な老人になってしまいます。本当にそうんなんですよ。そういう生き方は、三十歳や四十歳で老化現象が始まるんです。

三十歳まではお金よりも、本当に人生の準備期間として、しっかりと勉強しようと思う人がいれば、その人は五十になっても五十五になっても、まだ夏が続くんです。そしてね、八十になっても、まだ収穫期が続くんです。死ぬまで冬の来ない人もいるんです。ところが若い時に本当にいい加減な生活をしているとね、しっかり準備期間に勉強したり手に職をつけたり真面目にやらないで二十歳までの時代を過ごしますとね、もう三十くらいで直ぐに身体にガタが来て、社会的な基盤を失うことになります。中には警察のやっかいになるような人も出てきます。そして、秋が来ないでストレートに冬に行く人もあるんですよ。本当にそうですよ。

こんなお話で終わってしまいますと正に人生論ですが、そうではないんです。聖書の中に、神さまのなさる事は全て時に叶って美しい、と書いてあります。若い人にこういうことを言っていますね。「若い人よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見えるところを歩め。」若い人よ、遊んで楽しんでゆっくりやりなさい。ただし、その全てのことのために、神はあなたを裁かれることを知りなさい。必ずその結果が出て来る時があります。 「私はこの空しい人生において諸々のことを見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼして良かろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたは、どうして自分の時に来ないのに死んで良かろうか。」

この伝道の書には、人生の素晴らしい教えが一杯入っていますが、本当に人はどんなに一生懸命やっても、真面目にやっていても病気になることがあります。円が上がったために事業が倒産する人もいるかも知れません。たまたま交通事故にあったり起こした人もいるかも知れません。人生には思いがけない不幸や出来事が一杯あるのでございます。もう私は四十歳になったから駄目か、二十歳を過ぎたから駄目か、もう歳をとってしまったからだめか、そうではありません。聖書の中には沢山のそういうお話があります。

ルカ福音書の第十六章には、一人の惨めな不幸な人物の話が出てきます。「ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て毎日贅沢に遊び暮らしていた。ところが、ラザロという貧乏人が全身できもので覆われて、この金持ちの玄関に前に座り、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬が来て彼のできものを舐めていた。この貧乏人がついに死に、御使い達に連れられてアブラハムの懐に送られた。」

ここに貧乏人ラザロの話があります。彼はある時、非常に恵まれた結婚をし、立派な家庭をもっていたのですが、ある時、恐ろしい恐ろしい皮膚病にかかった。らい病だと言う人もいますが、病気のために彼は全部を失ってしまった。そして、全身ができものに覆われて、犬にまで舐められた。金持ちの玄関におかれて、その食卓から落ちる残飯で飢えをしのごうと望んでいたという、哀れな哀れな人物の話です。犬にまで舐められたとは可哀想ですね。畜生! 舐めるなとは、そこから出たんですよ。本当に畜生に舐められて、彼はぼろ屑のような人生を送っています。でも、このラザロは、やがて誰もいない真夜中に一人、飢えと寒さのために凍え死んでしまった。しかし、その時に天使達に携えられて天国へ行ったということが書いてあります。

もし人生をただ見えるところの成功だけで計るならば、この貧乏人は人生において最も惨めな人間です。本当に哀れです。しかし、この貧乏人はその極度の貧しさと不幸の中で、本当に静かに神さまを信じ礼拝し、一人で神さまの助けを求め、明けても暮れても永遠を想い、神さまのことを想い続けて生きていたために、彼は人間が死ぬ時に使われる最大限の賛辞である天の使いに携えられてアブラハムの懐に入ったと記されています。

私は人生はお金儲けや社会的地位や名誉を持つことではないと思います。もしそれが人生の全てであるなら、世の中には本当に不幸な人が一杯おられます。しかし、私は神さまは非常に公平な方ですから、この地上の人生の幸福だけが人間の幸せであるとは思いません。この地上でも、もし失敗しても、やり直しがきかなくて、立派に成功しなくても、死ぬまで惨めな地位にあったとしてもです、私は本当にその方がしっかりと神さまを信じ、心を神さまに向けて霊的・精神的な生活をすることを知っているならば、人生の最後において素晴らしい勝利を獲得できると思っています。

ある方が、人の一生とは飛行機に乗って旅をするようなものだと申しました。飛行機が離陸する時とは子供が誕生する時、出生です。飛行機の離陸時には、安全ベルトをしっかりと締めるようアナウンスがありますね。禁煙サインもでます。そして飛行機は黒煙を吐いてもの凄い勢いで上昇していきます。しかし、まだ禁煙サインは消えていません。これはね、人間の青年期です。嬰児期、幼児期、少年期、青年期。やはりおタバコはご遠慮いただくようちゃんと決まっているんです。危険性があるから、だからすってはいけないんですよ。ベルトも必要なんですよ。十六や十八で親に向かってどぎつい事を言ったりするとは、本当に馬鹿ですよ。多分、いずれその人は急降下するようになると思います。二十歳までは子供なんです。やがて水平飛行になると、ベルトも外し、喫煙もどうぞとなります。

ところが、世の中には何時までも何時までも飛べると考える馬鹿がいます。何時までも若いと思っている人がいます。それは間違いで、三十、四十でもうおかしくなってきます。やがて何処かに着陸する時がきます。またベルトを締め、禁煙タイムのサインが出ます。それは危険性があるからなんです。

私がこの会堂を建てる時、ある銀行に支店長さんに借金を申し込みました。八年前のことで四千万円でした。当支店では五百万が限度と言われ、ちゃちな所に来たなと後悔しました(笑)。でも支店長さんは私の話をしっかり聞いて下さり、全額引き受けて貰いました。その支店長さんは会堂の建堂式で祝辞を述べて下さいました。「植竹先生が来店時に私は前日、支店長会議で東京へ行っていました。そこで土光敏夫経団連会長の講演を聞きました。土光会長は、人間は四十になって宗教心を持たんような奴は馬鹿だ! 五十になってまだ宗教心のないような奴はきちがいだ! 六十でもそうなら人間じゃあない!」と言われたそうです。そういうことで、この支店長さんは自分は人間ではないのかと思いながら帰宅されたそうです。そして帰ってきたら、私が月曜日の朝にニコニコして来店し、必ず返済しますからと確信を持って言ったということです。それを聞いていて、この人にお金を貸したら、きっと功徳になるに違いないと思ったというんです(笑)。

愛する皆さん。人間は四十になって宗教心を持たない人は馬鹿ですよ。何時までも何時までも飛びつづけると思っている人はきちがいです。どこに降りるのですか? 天国ですか、地獄ですか? 人生の最後の着地に失敗したら、あなたは永遠の滅びですよ。まだ四日間ありますので、今日はこのへんで終わりたいと思います。

お祈りしましょう。愛する天のお父さま。最初の晩を祝福して下さいまして感謝を致します。どうかこれから五日間にわたって、聖書の中から人生如何に生きるべきかという最も重要な問題についてお話を進めていきたいと思います。どうぞ神さま、五日間の集会を祝福して下さい。今日初めてお出で下さいました全ての方に主が豊かにお報い下さいますように、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。