第3講 人生における愛と憎しみ

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■ 第3講 人生における愛と憎しみ 音声
■ 第3講 人生における愛と憎しみ
[聖書箇所]
Ⅰヨハネの手紙 4:7~12

† 愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛しあうべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

[植竹利侑牧師]

皆様、こんばんは。昨夜に引き続き多くの皆様がお出で下さいました。心より感謝申し上げます。先程司会者のお話もありましたように、私どもは二十数年間伝道しておりました教会を辞任しまして、ちょうど10年前の11月14日、開拓伝道を志して出汐町に出てきたのでございます。この会堂ができまして満8年になりますが、この10年間の間、本当に守られたことを思いますと感無量でございます。今日、あした、明後日と皆さんの愛に支えられて、無事に5日間の集会を終えさせていただきたいと思っております。今回の集会では人生論的なお話しをしたいと思っております。昨年はイエス・キリストの十字架そのものをズバリとお話しましたが、この度は少しだけソフトにお話したいと思っております。よその教会でお話しても当教会でお話していないこともありますので、この度は楽しくご一緒に聞いていただきたいと考えております。

人間の愛というものは、本当に素晴らしいものだと思います。もし私に人間の愛の美しさや素晴らしさを話せと言われれば、どんなにでも心を込めて素晴らしい愛のお話ができると思います。母親の愛、恋人の愛、夫婦の愛・・・、本当に人間の愛の美しさに無限の興味と関心を持つ者でございます。胸がジーんとするような、あるいは心がときめくような人間の美しい愛のお話がいっぱいあります。しかし、今日私は愛をただ讃美するだけではなく、人間の愛の表と裏側も一緒に学んみたいと思っています。どうして人間の世界に憎しみなどという恐ろしいものがあるのでしょうか? あんなに愛し合っていたのに、その愛がいつとはなしに色あせてしまう。あるいはその愛が憎しみに変わるということが人生にはあまりにも多いようでございます。

これから申し上げる人間の愛の兄弟は憎しみだと言われています。愛という言葉を嫌いな人は誰もいないと思いますが、愛という言葉をみんな誤解しておられるのです。私どもは聖書を知っておりますので、例えば聖書の中に「主は私たちのために命をすててくださった。それによって愛ということを知った。」と、そういう聖書の箇所をあげることができます。冒頭で読んでいただいたヨハネの第一の手紙の4章の7節を見てみましても、「愛は神からでるものなのである。」と書いてあります。ここに書いてある愛という言葉は、ギリシャ語ではアガペーという言葉が使われているのです。ところが、人間の愛はエロースという言葉が使われているのです。日本人は人間の愛も神様の愛も全く混同していますけれども、聖書では、人間の愛と神様の愛とは言葉自体が全然違う言葉で書かれています。ですから聖書を読む人にあっては、人間の愛と神様の愛を間違える人はいないんです。日本語は非常に厳密な言語ですが、残念ながら曖昧なところもあります。例えば罪という言葉がそうです。街を歩いている人に、あなたは罪があるでしょうと言いますとはり倒されてしまいます。私の何処に罪があるか!と多分怒られるだろうと思います。しかし、キリスト教の教養のある人に、あなたには罪があるでしょうと言いますと、それはありますよ人間ですから、いっぱいありますよ、と必ず言うと思います。また、私たち日本人は残念ながら法律上の罪と道徳上の罪と宗教上の罪の区別がつかないんです。みんな同じ罪という言葉で表しているからです。ところがよく聖書を読んでみますと、同じ罪でもちゃあーんと罪という言葉が全部違うんですね。すなわち、法律上の罪と道徳上の罪と宗教上の罪は何れも言葉自体が違うんです。だから聞けば直ぐ分かります。あなたは法律の罪を犯したと言われれば、何を言うか、わしは絶対にそんなことはない! 名誉毀損だ! となります。しかし、宗教的な罪を指摘すると、あるともあるとも、わしは本当に罪人のかしらだ、ああ神様赦してください、と直ぐに謙遜になります。ですから、言葉というものは非常に難しいものと思いますが、今日は愛という言葉について少し解説をしますので学んでみていただきたいと思います。

私たちが一般的に愛と言っていることは、聖書の言う愛ではないのです。これは「好き」という表現が一番よく表すところの感情でございます。私たちが誰かを愛するということは、実はよく調べてみると、それは好きになったということなんですね。好きになったということと、愛するということは全く違う概念なんです。二人が愛し合っているとよく言いますね。それは好きになっているということなんです。好きになったとはどういうことでしょうか? それは自分の好みに合ったということなんです。自分の好みの感情をくすぐられて、それが出てきたということです。ですから、これは極めて自己中心的な感情に過ぎません。好きになった、これを恋愛と言います。この場合、恋するとか愛するという言葉を使いますが、それは聖書の世界では愛しているとは言わないんです。日本人は本当に困ったことに、パンダに赤ちゃんが産まれるとパンダの愛なんて言いますが、パンダに愛は分からないんですね。聖書で言っている愛という言葉を簡単に使ってもらっては困るんです。

有名な伊藤整という人はノンクリスチャンの文学者ですが、彼は「聖書の愛という言葉は、相手のために相手を愛する愛」と定義しています。ところが、私たちの愛はそうではなくて、自分のために相手を好きになっているのです。両者は全然性質が違います。愛ということをお話する時に、避けることができないのはプラトンという人です。ギリシャの哲学者で紀元前500年前後の人です。彼は今から2,500年も昔に『シンポジオン(饗宴)』という大変有名な本を書きました。岩波書店などから非常に大部な全集が出ている偉大な学者で、政治も経済も哲学もいろんな分野を論じています。その中で彼が人間の愛ということを論じたのがこの『シンポジオン』です。シンポジウムという言葉の語源となりましたが、ソクラテスとその弟子達が次々と話を積み上げていくという、質問と答えという対話の形で書かれています。その中でプラトンは、ソクラテスの言葉として人間の愛のことを論じています。今から2,500年も昔にこんな事が論じられていたかと思うと、本当に唖然とするくらいです。私は戦後の神学生の時、この本が欲しくて欲しくて神田の古本屋街で手に入れた時は、本当に頬ずりしながら小躍りしながら帰宅した思い出があります。

この中でプラトンは次のようなことを言っています。人間の愛のことをエロスと言うんですが、エロス誕生の物語というのを書いています。その内容は、ギリシャで一番偉いゼウスという神様がいるのですが、そのゼウスが美の女神であるビーナスの誕生を喜んで世界中から神々を呼び集め饗宴をしたというんです。いわゆる宴会をしたわけです。アコヤ貝が開いて美の女神であるビーナスが生まれたという神話がありますが、世界中から集まった神々がその美しさを褒めそやします。招かれた神様の中にポロスという神様がいました。ポロスは富を象徴します。金ぴかぴかの白の縫い取りをした衣をまとい、金や銀の腕輪などした富の神様です。彼は非常にお酒好きなものですから酔っぱらって台所に水を飲みに行き、いぎたなくそこに寝込んでしまったそうです。ソクラテスがそう書いています。ところが、そこへペニヤという(poor という英語の語源になるのですが)貧しさ、貧乏、欠乏を象徴する女神がやってくるんです。ソクラテスは物乞いに来たと書いています。乞食の女神ですから。彼女が物乞いに台所に来るとポロス神が寝ていたのですね。ペニヤはそれを一目見るなり、「わー、私の恋するポロス様!」と言ってですね、血が上ってしまい一生懸命介抱するなどして、ついにはペニヤはポロスを籠絡したと書かれています。とにかく夢のような一夜を過ごしましたが、身分の違いもあり彼女は故郷に帰って行きました。そして懐胎したのがエロスだというんです。ペニヤはいわゆる貧民街の住人です。掃き溜めに鶴という表現がありますが、そこに玉のような可愛い可愛いエロスが生まれます。

エロスは男の子でギリシャ神話ですが、後にローマの神話ではこの愛の神様エロスはキューピットになるんですね。エロスとキューピットは同じ人物です。ペニヤは生まれつきペニヤである。故に、ペニヤはペニヤであることにいささかの痛痒も感じない。本質が貧乏神ですから貧乏でも平気なんです。先祖代々ばた屋をしているとそうであることに苦痛を感じない訳です。物貰いも平気です。ところがそのペニヤの子供であるエロスはペニヤの子供であると同時にポロスの子供でもあるので、ペニヤであることに絶対に満足できないとプラトンは述べています。エロスは絶えずポロスを恋い慕うと書かれています。これが人間の愛の定義だとプラトンは言うんですね。すなわちソクラテスの言葉として、人間の愛、すなわちエロスの本質は欠乏から出発した充足への限りない憧れであると言っています。人間の性質というものは、自分にないものに対する燃えるような憧れ、これが人間の愛なんです。エロス、すなわち人間の愛は、欠乏から充足への憧れです。人間の愛は全部そうです。人間は誰でもそうです。自分に無いものに対して激しい憧れを持つものです。男は女に、女は男に。ですから物語は、何時でも不世出の英雄と絶世の美女という組み合わせになるのです。もしその人が本当に男性的な人であるならば、もっとも女性的なものに愛を感じます。女性であれば男性的な人に憧れを感じます。自分に無いもの対する憧れが人間の愛ということです。だから、人間の愛は美よりも美、価値よりも価値、真理よりも真理を追求するという、そういうパターンをいつでもとります。自分に無いもの、上なるものに対する憧れという形をとるのです。人の愛は、いつでも下から上へというパターンをとります。もっと良いもの、もっと美しいもの、もっと素晴らしいものに対する憧れです。それが人間の向上心の源です。そこに科学や技術、文学や芸術が生まれます。宗教さえも、そういう人間性から生まれてきていると言っても良いと思います。

更にプラトンは、人間の愛の3つの問題性についてもきちんと述べています。一つは、充足すれば愛は止むと言っています。人間は本当にそうですね。釣った魚に何とやらと言いますね。自分のものになってしまうと愛が働かなくなる。恋人や婚約時代には、あんなに親しく話し合ったのにね、3年もすると殆ど会話が無くなってしまう夫婦が多いです。殆ど興味も関心も無くしてしまう。暫く一緒に生活しますと、獲得したものに対しては愛が働かないんです。ある男性は性的で美人で背が高くて素晴らしい奥さんがいるのに、この人がと思うような女性に心を動かされたりしています。あまりにも奥さんが素晴らしいと、素晴らしくない人が素晴らしく見えたりするんです。無いものに対する無いものねだり、無いものに対する憧れが愛だからです。

第二は、人間の愛は価値愛だということです。価値を愛している。「私は貴方を愛します。」ということは、「貴方の持っている美しさや優しさを愛します。」と言っていることと同じです。ところが、夜中にいびきをかいている奥さんを目にすると美しさが幻滅して、ちっとも美しく感じなくなってしまうんですね。初めのうちは綺麗だと思って結婚したのだけど、なんとまあ、となるわけです。とにかく美しかったものが美しくなくなってしまう。パスカルでしたか、「10年前には熱烈に愛していたが、今は彼と彼女は愛し合っていない。何故なら彼は10年前の彼ではない。彼女も10年前の彼女ではない。」と分かり切ったことを言っています(笑)。偉い人が言うととても素晴らしく聞こえます。とにかく、時間と共に愛が働かなくなってしまうんですね。相手に価値を見出すことができなくなってしまう。それは価値愛だからです。価値無きものを愛することは人間にはできないんです。しかも、その価値は自己にとってのものですから、人間の愛とは正にエゴそのものです。自己愛です。自分を愛することが目的なんです。貴方を愛しますと言うということは、貴方を愛しますから貴方の愛をください、と言っているんですね。自分を愛して貰うことが目的です。自分がいつでも目的です。相手を愛するのは、単なるその手段に過ぎない。方法に過ぎないんです。相手の愛を獲得するのが目的です。相手を自分のものにするとよく言いますが、ものにするということが目的なのです。自分が愛される、自分が楽しむということが目的で、相手を愛するとはその手段なのです。私の相手に対する愛は、そんな不純なものではないと言っても、よく調べてみると実際はそうなんです。

人間の愛はエゴです。だから少しでも愛されなくなると腹がたってむくれてしまう。自分は騙されたと直ぐそうなるんです。昨日もお話しましたが、エゴイズムというものは決して感謝ができないんです。人間の愛は自己中心ですから、必ず不平・不満があとからいつでも付いて回ります。詳しくは忘れましたが、先程のペニヤが別の男と交わって生まれた子供が憎しみだというギリシャ神話があります。愛とエロスと憎しみは兄弟、同じ母胎から生まれているからです。愛と憎しみは同じエネルギーです。自分にとって都合の良い時には肯定的な働きをしますが、そうでなくなると破壊的なエネルギーに変化します。仇や疎かに恋愛などすべきではありませんよ。愛の深さは憎しみの深さに変わります。本当に愛していたら激しい怒りと憎しみに変わります。昨日から申し上げていますが、夫婦の愛は全人格的な愛が必要なんです。恋愛出来るのは100パーセントと100パーセントの全人格的な愛が交流しないと本当の恋愛にはならないんです。本当の夫婦の愛にはならないんです。95パーセントで満足などできないんです。100パーセントでないと満足できないんです。そうでないと真実の信頼は生まれてこないものなんです。だから、人間の愛は美しいけれども、本当にはかないですね。本当に傷つきやすいものです。

聖書では、今申し上げたような愛を愛と言っていないんですね。「欲」と呼んでいます。欲とはヨハネの第一の手紙の第4章によると「目の欲、肉の欲、持ち物の誇りは父から出たものではなく世からでたものである。世と世の欲とは過ぎ去る。」とあります。同じく2章の15節から17節にも書かれています。欲はギリシャ語でエピチュミアです。エピとは上にということで、チュミアは心を寄せるという意味で、欲とは下から上に心を寄せることです。すなわち欠乏から出発した充足への愛で、人間の愛を聖書は欲と訳しているんです。肉欲、性欲、愛欲。恋愛とは愛欲です。勿論恋愛が悪いと申し上げているのではありません。ダイヤモンドに目がくらんでということではなく、十分な恋愛の後に結婚して欲しいと思います。しかし、その恋愛も聖書では欲と表現していることに注目願いたいのです。

欲とは何でしょうか? 欲とは上に心を寄せるということです。プラトンは人間の愛は段々昇華されて、段々高められていくんだと言っています。これを「愛(エロス)の梯子(階梯)」と言っています。梯子を登るためには当然下から登っていくのですが、下なるものをきちんと卒業しないと上に登っていくことはできない、とプラトンは言っています。一番下の段は肉体を愛する愛だと言っています。エロスの一番下の段階です。肉体を愛する愛とは、本能的な食欲とか性欲というものです。日本人がエロとかエロ雑誌とかエロ新聞とか言う場合のエロティックという表現です。本能的な愛、肉体的な愛のことです。ギリシャ語でクピリタスと言いますが、エロスの一番の基盤で面積も量も一番多い部分です。もし私たちが本能の世界だけで生きていたら愛は一つも昇華されない。獣とあまり変わらない。ところが人間には理性や道徳性がありますから、例えばお腹がすいたからといって他人の物を直ぐ食べたという人はいないと思います。自他の物の区別などします。誰でも本能の愛だけで生きてはいません。そうでないと絶えず警察や刑務所のご厄介になることになります。

次の段階は親子の愛です。親子の愛は、食べたい、飲みたい、遊びたいという全く本能的な愛より少し上の、精神的な程度の高い愛なんです。親が子供を愛そうとすれば、自分は我慢しても子供には与えたいと思います。親は自分を犠牲にしてでも子供を愛します。これは単なる肉欲といった本能的な愛以上の愛だということが分かります。少し段階が上なんです。若い時には盛りがついたように、どうなることかと思った娘さんでも、結婚して子供ができると母性愛を出してね、一生懸命に子供の面倒をみてますよね。子供は親の愛を引き出すものなんです。親は本能的に子供を愛するんです。神様は上手く造っておられますね。子供ができると愛が一ランク上に上がるんだとプラトンは言っています。しかし、これは本能的な愛ですから、親がいくら子供を愛し可愛がっても、文部大臣の表彰はありません。当たり前だからです。また愛してはいけないと言われると親は気が狂います。子供も親に対しては同じです。母を訪ねて三千里なんてことになります。親子の愛情は本能的で理性的ではないため、溺愛とか盲愛となる可能性もあります。

その上はリーベと言って夫婦の愛がきます。夫婦の愛は親子の愛よりずっと理性的であり、ずっと精神的な要素が濃くなってきます。夫婦は親子のようには上手くいかないんです。他人との間では難しくなるところでも、感謝なことに親子の間では上手くいくことが多いです。親子の間では努力が要らないんです。子供ためには我見境なしにとなりますよね。親バカと上にバカが付きます。でも、だから子供は育つわけです。子供は親が自己を愛する愛で、その延長で愛することができるんです。孫なんて、もっとそうですね。親子の愛は本能ですから表彰はされませんが、逆に愛さなかったら警察のやっかいになります。

夫婦の愛は努力が絶対に必要です。それなしには絶対に良い夫婦はできません。新婚時代は別として、感情に任せて良い夫婦関係にある方をご存知なら教えていただきたい。お互いに異性のライバルが無数にいる中で、努力なしには良い家庭は絶対にできません。直ぐ他の女性や男性に目移りしがちですが、それは本能だから仕方がないんです。むしろ、その方が本当なんです。正直なんです。一人の人を死ぬまで純粋に愛し抜くなんてことは小説の世界ならではのことです。大抵どこかで浮気したり、よからぬことを考えたりします。その心の動きが全部顔に出てきたら大変ですよ。人間なんて何を考えているか分からないのが本質です。夫婦の愛には非常な努力が要る。だから夫婦は選ぶ必要が出てきます。子供は選べません。そんなことをしたら大問題です。結婚式で他の異性に目が向くこともあるほど、それほど人間のエゴイズムは強いですよ。私たちは結婚式で誓約をしますよね。これは夫婦は本能に任せていては上手くいかないという前提で出発しているからです。キリスト教の結婚式では、本能に任せていたら必ず浮気をするという前提でしているんです。だから、「貴方は健やかなる時も病める時もこれを愛しこれを敬い、命の限り固く節操を守ることを約束しますか?」と牧師は尋ねるんです。その約束がなかったら駄目になるという前提で始まっているんです。

人間は理性的・道徳的な動物ですから、神様と人の前で約束したら、例え病気になろうとも、どんな困難に遭おうと、本当に生涯純潔を守ろうと決意すると守れるものなのです。私も守ってきています。だから偉そうなことが言えます。誘惑がきても負けないで済むものなんです。でも、神様の前で結婚していなかったら私は絶対に浮気してますね。神様の前で約束していますから、恐ろしくて恐ろしくて絶対にそんなことはできません。考えたこともありません。妻以外の女性は人間としては価値を認めますが、女性としては価値無きものに考えています(笑)。人間のエゴは本当に恐ろしく、ちょっと気に入らないことがあっても会話ができなくなる。直ぐに仲良くできなくなる。直ぐ不平、不満、怒り、憎しみ、疑い、恐れの虜になります。他人からの仕打ちに対しては我慢できても、夫婦では真正面から衝突してしまいます。だから、私は夫婦にあっては、お互いへの態度がその人の本質だと思います。他人に対していくら良い顔をしても、パートナーへの態度に問題があってはその人の人間性を疑います。全部嘘です。妻に対して、夫に対してどういう姿勢がとれるかが、その人の本質です。その人の本当の姿です。他人はいくらでも誤魔化しが効くんですが、夫婦間では効かなくなる。

よく鶏が先か卵が先かという言い方がありますが大抵の人は首を傾げます。しかし、聖書ははっきりと書いています。鶏が先です。夫婦が先です。神様は初めに夫婦を造られたと記されています。子供が産めるような夫婦を造ってくださった。あらゆる人間関係の初めとして、神様は夫婦を造られた。夫婦はあらゆる人間関係の基本であり、初めであり、根源です。夫婦として愛し合えないような人なら、私はその人の人間性を絶対に信じることができない。牧師としての立場を別として、生の人間である私としてはその人を軽蔑します。人間の本質は、自分の奥さんや夫をどれだけ愛せるかということを見れば直ぐ分かります。夫婦の愛であるリーベがきちんとしていれば子供は放っておいても大丈夫です。夫婦の間に誤魔化しがあったら、どんなに子供を可愛がっても全く値打ちはないのです。偽善です。誤魔化しです。主人を愛せないような奥さんが子供をいくら愛しても、それはそもそも土台が間違っているのです。

罪の定義は、愛すべきものを愛さないで、愛してはならないものを愛することです。また、罪というものは愛の方向違いとも言えます。愛が間違うと罪が生まれる。愛がなければ愛もない代わりに罪もないのです。愛があると罪が生まれるんです。夫婦は10日間のツアー仲間とは違い死ぬまでつき合うのですから、お世辞やおべんちゃらの効かない世界なんです。人間の本質が出る世界なんですね。だから、他人が約束を破って腹が立たなくても、夫婦が背いたり間違ったり、何か罪を犯した場合はもの凄く傷がつくわけです。愛すれば愛するほど、その憎しみや怒りや失望や妬みは大きいわけです。だから伴侶を失ってみてその愛の大きさが分かると言ってもいいくらいですね。夫婦が人間関係の基本であるということ。パスカルは独居の人は一種の不完全物だと言いましたが、人間としてどんなに素晴らしくてもね、結婚して初めてこれが人間なんだなということが分かりますよ。人間の世界のこと、子供の喜怒哀楽など、独身では人情の機微を見逃すことがあります。その意味でカトリックの神父さんが独身でいるのは本当に惜しいと思います。カトリックの信者さんに聞くと、神父さんに相談しても無理だと言われる方が多いです。

「神は初めに男と女とを創造された。そして二人の者は一体となるべきだ。」と書いてあります。この一体というのは夫婦生活のことを指しているのではありません。経済上の運命共同体としての一体を指しているのでもありません。全人格的な一体感を指しているのです。夫婦とは本当に愛して純潔を守っていると、歳をとるに従って、お互いに段々段々・・・と近づいてきて、終いにはピタッーと一致して、少し行き過ぎる程になることもあります(笑)。それ程に夫婦というものは一体感ということを感じるものなんです。逆に親子は段々と離れる関係です。生まれ落ちた時からそうなります。一体感を感じておれるのはお腹の中に居る時だけです。しかし、親子が離れれば離れるほど、夫婦の関係は段々と濃くなってきます。聖書の言う一体になるとはそういうことなんです。夫婦生活、肉体的なことを指しているのではなくて、人格的なことを言っているのです。本当に純潔を守った夫婦というのは、イエス様と私たちが一体化するように、教会とキリストが一体化するように、夫と妻は一体になると聖書に書いてあります。それ程素晴らしい世界なんです。

人間の愛の次の段階はフィリアです。フィリアとは兄弟愛、人類愛です。PTAにしても町内会活動にしても、夫婦関係が上手くいっていることが前提です。夫婦が上手くいっていて、初めて社会的な愛に広がっていって良いのです。その前提条件が満たされていないと、必ずおかしなことになってしまいます。時間が押し詰まってまいりましたので、急いで話を進めます。

5番目はカリタスです。ギリシャの神様イデアに対する愛です。真善美の極地に対する愛です。美よりも美、価値より価値、真理よりも真理を追求するというのがイデアに対する愛(カリタス)です。これを天的エロスと言いました。天的エロスと言うのはエロスが天的・神的にまで高められていった状態です。このことをプラトニックラブと言うのです。だから日本人は随分誤解していますね。プラトニックラブとは、俗世間を離れて山に閉じこもって修道生活をするようなのがカリタスです。カトリックというのはカリタスの宗教です。マルティン・ルターの修道院生活は、石畳を膝と肘で歩いて血だらけになるような難行苦行をしたわけですが、彼はどうしても救いの確信が得られなかった。ルターは自分の宗教の動機が何であるか考えた時に、彼は顔面が蒼白となってわなわなと震えた、と日記に書いています。すなわち、自分が救われたい、自分が地獄へ行かないように、天国へ行けるように、自分が浄められるように、全て自分の宗教の動機が結局はエゴだったということに気が付いたのですね。その時、顔面が蒼白になってわなわなと震えたと言っているのです。それがプロテスタント宗教のスタートなんです。

ジョン・カルビンという人は、人間はただひたすら神の栄光のために存在すると言っています。日本の宗教はそうではないですね。神の栄光のためとかではなく、商売繁盛、無病息災、天下太平、家内安全・・・ドンツクドンドンです。10円のお賽銭で膨大なお願いごとをします。御利益宗教です。ところが聖書の宗教はそういうところから出発しているのではありません。神の栄光というところが一番大きな大事なところです。ルターはその時からプロテスタントの宗教が始まったと言っています。どんなに神のようになりたい、天国に行きたいという宗教心さえも、それは人間の営みです。それは下から上へという、欠乏から充足を求めるエロスの愛なんです。欲なんです。宗教欲です。自分が救われたいというのがその眼目です。

ところが聖書ではどう書かれているでしょうか。ヨハネの第一の手紙第4章7節をご覧ください。「愛するものたちよ、私たちは互いに愛し合おうではないか。愛(アガペー)は、(人間の欠乏や欲から出るのではなく)神から出たものなのである。」とあります。クリスチャンになったら優しい人になるとか、良い人になるとか、愛の人になるとか言いますが、そんな簡単なものじゃあないのです。「ああ、私は悪かった。罪深い人間だった。女房を愛さなかった。今度から少し優しくしてあげよう。」といった、そんなことではないんです。慈善事業に寄付するとか、そんなことでもありません。人間の愛というものは、どんなに美しく、どんなに清いものでも、その本質は欲から出ているのです。出所が違う。愛は神から出るのです。この神の愛はアガペーという言葉ですね。アガペーは上から下へという性質を持っています。満ち満ちているものの中から、溢れて溢れて溢れて、上から下へ下へと流れてくるものです。「愛は神から出たものなのである。全て愛するものは神から生まれたものであって神を知っている。愛さないものは神を知らない。神は愛である。」この「神は愛である」という言葉は、神すなわち愛と書き、中国語では「神即愛」と書きます。神は愛そのものなんです。愛は神なんです。

神の愛はどういうものでしょうか。9節。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によって私たちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」 愛というのは、私たちが神を愛することではないと書かれています。愛というのは10節、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」いるのであり、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」御子を犠牲として「御子をおつかわしになった」十字架につけて下さった。「ここに愛がある。愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」と書かれています。

皆さん、愛というものは人間からは出てこないのです。人間から出てくるものは「欲」なんです。「エゴ」なんです。本当の愛というのは天地万有を創造された神、創り主である神が被造物である私たちを、本当に神の愛をもって愛されたということ。それは価値があるから愛するのではないのです。価値なきものを愛し、これに価値を与えてくれるのがアガペーという愛の本質なんです。本当の愛とは、価値なきものを愛することです。価値なきが故に特に愛して下さるのです。そして、価値なきものを価値あるものに変えて下さるものです。これがアガペーです。アガペーという言葉の意味は、うち負かされない行為ということです。神様の愛は絶対に負けないと言うのです。愛が負けないということは、愛することを止めないということです。愛が負けたとは、もう精も根も尽き果てた、愛想も尽き、もう愛しませんということです。愛が負けないとは、背いても背いても背いても・・・、十字架につけてもね、キリストは父よ彼らを赦し給えと祈って下さるのです。どこまで行っても、神様は私たちを愛し抜き、ついには捕らえて、これを造り変えて下さる。神様の愛の方向(道行き)、すなわち上から下へという方向で、人間を造り替えてしまう力があると言うのです。もはや価値のためではなく、自分のためではなく、気がついたら己を全く捨てて人を愛することができるようになってしまうのです。

だから本当のクリスチャンというのは凄いですよ。この教会にも本物のクリスチャンが何十人かおられますが、私の方が驚嘆するくらい凄いです。どんなに苛めたって平気です。どんなに献金しても奉仕しても、一つも自慢しない。傲慢にならない。どんなに何を頼んでも平気ですね。傲慢にならない、落ちこまない。本当に素晴らしいと思いますね。そういうように人間は変わることができるのです。明日は「人生の転機」というお話をしますが、人は本当に変わることができるのです。神様の愛に触れ、これに捕らえられたら変わります。そうすると、今度は神様の愛の方向性の中で生きられるのです。それまでは、どうしても報いを求める。可愛がってもらわないと気に入らない。年中不平や不満でいっぱいです。そういう人間が、「主は、わたしたちのために命を捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛(アガペー)ということを知った。」とヨハネの第一の手紙第3章16節に書いてあります。続けて「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」と言っています。こういう方向の中に巻き込まれてしまうのです。私たちが自分の心の中を顕微鏡で調べてみてもね、私は人間には愛はひとかけらもない、あるのはエゴだけだと思います。自己愛だけです。直ぐ憎しみや妬みや怒りに変わってしまう、あのエロスだけしかないのです。自分の子供でさえ愛せなくなりますよ。妻でさえ夫でさえ、殺してやりたいほど憎らしくなるんですよ。人間というものは恐ろしいものですよ。でもね、本当に神様の愛が分かると、人間は本当に変わる。人生の転機がくるのです。

コリント第二の手紙の第8章9節を読んで終わりたいと思います。

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに(ポロスであったのに)、あなたがたのために貧しく(ペニヤに)なられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさ(ペニヤ)によって富む者(ポロス)になるためである。

と書かれています。本当にイエス・キリストは私たちを富ませるために貧しい者に、地獄にまで堕ちて下さった。そういうお方です。罪とは愛せないということが罪なんです。愛に偽りがあってはならないと言うのは、愛は変化してはならないと読むことができます。人間の愛は、本当にころころとね、まるで猫の目のように、カメレオンのように変わってしまうものです。しかし、神様の愛は絶対に永遠に変わらない。明日は「人生の転機」という題でお話をさせていただきたいと思っております。今晩はここまでとさせていただきます。