第2講 人生の優先順位

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■ 第2講 人生の優先順位 音声
■ 第2講 人生の優先順位
[聖書箇所]
マタイによる福音書 10:34~39

† 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

[植竹利侑牧師]

こんばんは。みなさま。雨の中をよくお出で下さいました。何時も木曜日は公園伝道と言いまして、私達の教会は子供達に楽しい歌をいっぱい歌わせて、とっても楽しいお話しを聞かせるという、そういう集会を毎週木曜日に10箇所近くの場所で行っていますが、今日は雨で休ませていただきました。今夜は雨の中をお出でいただいて本当に感謝でございます。

今日お読み頂きましたマタイによる福音書の第10章は、聖書が日本語に翻訳されて日本に入って来た時に、大変ぶっそうな言葉としてキリスト教撲滅運動の理由になった、反対運動の理由になった箇所なんです。何故かと申しますと、ここには大変恐ろしい事が書いてあります。「地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。平和ではなく剣を投げ込むために来たのである。私が来たのは人をその父と娘をその母と嫁をその姑と仲違いさせるためである。そして家の者がその人の敵となるであろう。私よりも父または母を愛する者は私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は私にふさわしくない。」と書いてあるんです。家の者は敵になる、なんて大変恐ろしいことが書いてあります。これは日本古来の倫理・道徳に反することである、公序良俗に反することである、家の中をめちゃめちゃにするものであるということですね。日本には昔から人倫五常の道といいまして、君臣・父子・夫婦・兄弟・師弟などの間に長幼という秩序がありました。それを根底から覆すものであるといってキリスト教の非難のために使われた箇所なんです。しかし、よくよく読んでみますと、これは大変素晴らしい箇所でございます。今日はこの問題について、「人生の優先順位」と題してお話しをさせていただきます。

先程、証しをしてくださったNさんは、教会に行ったら教会の先生は、人間はみな罪人だと言われたというお話をされました。そうなんです。私は人間はみんな嘘つきだと思います。嘘をつかない人は一人もいないです。色々な嘘があると思いますが、一番大きな嘘は何かと言いますと、中でも男性は大変な嘘つきですよ。どういうことかと申しますと、男性は何でも仕事・仕事・仕事と言って誤魔化しているんです。奥さんが家に早く帰って欲しいと言っても、夫から「仕事じゃ!」と一言言われると奥さんも直ぐ諦めてしまいます。仕事と言っていれば大抵の事が通ってしまうんですね。日本という国は猛烈社員や働き中毒などとよく言われますが、とにかく仕事が第一なんです。人生における優先順位の第一は仕事だ!と思われている人が大変大勢いらっしゃいます。

数年前に警察官の結婚式に招かれ披露宴に出席したことがあります。席上、刑務所の所長さんが花嫁さんに訓辞をされました。「花嫁さん、我々の仕事は社会のために重要な仕事です。でありますから、仕事が第一です。朝早くから夜遅くまで徹夜をしたり、しばしば家庭が犠牲になることがあります。しかし花嫁さん、どうぞ腹を立てないでください。我々は社会に仕えているのであって、どうしても仕事が第一です。家庭はどうしても犠牲になりますが、どうぞ覚悟してよろしくお願い致します。」と言われたんです。次は私の番でした。私は開口一番「今のは嘘です!」と言ったんです。所長さんの顔がピピッと少し引きつったような気がしました(笑)。「男はみんな嘘つきです。花嫁さん、騙されてはいけません。仕事、仕事と言いながら、結構止まり木に止まったりホステスさんの手を握ったりするのも全部仕事の中に入っていますから。」と、ちょっとどうかと思いましたが、そう言ってお話しました。「世の中の男どもは全部嘘つきです。ゴルフも徹夜麻雀もみんな仕事です。そんなに仕事、仕事と言って仕事をしていたら、いつまでも平でいる筈がない!」と締めくくりましたら、所長さんも少し和んだ顔をされました(笑)。

仕事、仕事という言葉の中には嘘があるんです。大体の男の人は仕事が90パーセントだと思っています。家庭は10パーセントという感覚です。朝は早くから出て行き夜遅く帰って来る。徹夜をしたり、出張、出張の連続です。甚だしきに到っては単身赴任なんて、実に不自然なことも敢えてしなければならない日本の社会というのは、本当に厳しい社会だと思います。確かに仕事は大事です。仕事は遊びじゃないんですから。給料を貰うんですから、仕事をいい加減にするということは決して良いことではありません。男たるもの、確かに仕事は大事です。仕事に十分の時間と精力を傾け、十分愛情も注ぐべきものと思います。しかし、仕事というものは人生においては「手段」なんです。手段というものは何か目的のために使われるものであって、それ自体が目的になってはならないものが手段なんです。手段と目的を間違えると、本末転倒、主客転倒ということになります。

では、人生の主たる目的は何でしょうか? 本当は家庭の方なんです。家庭が大事なんです。仕事は本当に良い家庭を作るためのとっても大事な、大事な、大事な手段なんです。仕事をおろそかにしていては良い家庭はできません。男は仕事が大事で、稼ぎがないと奥さんもあまり良い顔をしなくなります。離婚の原因になったりもしますからね。しかし、仕事はもの凄く大事なんですが、仕事はあくまで人生の目的ではありません。それは定年退職になると良~く分かります。働きたくても仕事はなくなってしまいます。60歳の定年を迎え、あと80歳までの20年間。人生の本当の目的はここにあったのだと思う程ですね、仕事が終わってからの人生の方が本当は大事なんです。本当はここが素晴らしいんです。しかし、人生では子供を教育したり家を建てたり色々大事なことがいっぱいありますので、仕事も大事なんです。

勿論、仕事自身には色々な意味があります。例えば仕事はその人の人柄・人格というものを育みます。一週間の内ほんの数日の仕事で簡単に生活費を稼ぐことのできる男性にお会いしたことがあります。でも、そのように楽な仕事をされていると、何とはなしに遊び人のような印象を受けました。感じ、顔つきまでです。この方を見ましても、改めて朝早くから夜遅くまできっちり仕事をするということの大事さを感じました。やはり仕事というものは、その人の性格や人柄にとても大事な大事な影響力を及ぼします。20年ぶりに同窓会などしますと、医者は医者らしく、教師は教師らしい雰囲気を備えておられます。ラーメン屋さんは匂いまでラーメンの匂いがします。それ位、仕事はその人の人柄などに重要な影響力を持ちます。仕事を通して個性ができると言っても良いかも知れません。あるいは仕事を通して社会に貢献することができます。だから仕事は確かに大変大事です。男が仕事ができないようでは結婚もままなりませんし、たとえ結婚してもうまくいかないかも知れません。

だから仕事はとっても大事なんですが、仕事は人生の主たる目的ではない。あくまで手段なんです。目的はあくまで良い家庭をつくるということにあるのではないかと私は思います。皆さん如何でしょう? だから目的がしっかりしていますと、手段は非常に生かされてまいります。私は全国の教会に招かれますが、草鞋がけで歩いて来て下さいなんて言われますと断ります。飛行機があればそれを使いたいし、その他利用できる交通手段を使いたいです。先ず時間が勿体ないです。目的が素晴らしければ手段はどんなに素晴らしい手段を使っても悪くはない。手段も生きてきます。ですから、男性の方に申し上げます。どうぞ嘘をつかないでいただきたいんです。仕事、仕事と言って家庭サービスを疎かにしていますとね、今に手痛いしっぺ返しを食うことになりますよ。

以前、私は中国新聞の家庭欄に8回寄稿したことがあります。すると係の記者の方が原稿を読みながら、キリスト教の家庭論の素晴らしさに感心してくれました。その際、記者の方からこんな話を聞きました。上司の方か部長さんの一人が、ほんの数日前定年退職されたそうです。自宅に帰られて退職の報告をされたら、奥様は三つ指をついて迎えられ床柱を背に夫を座らせたそうです。そして長年のお勤めへの感謝の言葉の後に、私も退職させてくださいと奥様が言われたとのことです(笑)。貴方が一生懸命に仕事をされていたので私も仕事だと思って貴方に仕えて来たが、家のローンも済み子供も手を離れたので、私も今日退職させていただきますと言って離婚届を出されたそうです。そしてとうとう、その部長さんは離婚させられたそうです。そして会社に来られ「お前ら、気を付け、女は怖いぞ!」と絶叫されたそうです。「家庭を大事にせーやー!」と言われたそうです。皆さん、仕事、仕事と言って、お金だけ家庭に運んでいて事足れりと考えていたら大間違いですよ。

本当に仕事だけしていて、お金だけ家に入れていれば良いなんてものでは絶対にないんです。まして、最近の子供というものは、お母さん一人ではどうにもならないんです。母親一人で何とかできるような時代ではないんですね。子供の質がどんどん悪くなりまして、今日はどうしてこんなに変わったのかと思うほど大変な時代です。あるお母さんのお話です。息子さんが中学生の時には突っ張って突っ張っていたのに、高校生になりやっと良い子になり、子供さんから中学生の時に母親に悪態をついたことなどを謝られたそうです。でも、親父は知らんよと言ったということです。親父は自分とは関係ない、親父はおれのことを憎んでいるとも言ったということです。母親として夫のことをいくら取りなしても息子さんは聞き入れなかったそうです。父親が息子にかける言葉は、ついきつい表現になりがちです。父親の意に反して息子には、親父は自分を憎んでいる、出て行けば良いなどと思ってしまうというんです。思うなといっても思うんですから仕方がないでしょう。思うのは本人の勝手です。どんなに愛していても、どんなに心配していても、相手が愛されている、心配されているということを感じ取れなければね、感じさせなければ、愛していないのと同じなんです。憎んでいるのと同じなんです。愛というのは相手が受け取ってくれて初めて成立するものです。だから、親がどんなに子供を愛していても、心配していても、心が通じなければ駄目なんです。

登校拒否をしたとか非行少年になったとかという話を聞きますと、殆どその子供の中にお父さんの存在感がないんです。極端に言えば、親父はお金を運んで来る機械というイメージです。親子の間にもの凄い断絶があります。特に父親の問題が非常に大きいですね。子供からの質問に対しても、お父さんはつい母親に話を振り向けてしまい自分で答えようとしません。子供の進路、恋愛、就職などの大きな問題についても、母親に聞いてごらんと言っていないでしょうか。これでは父親の価値は全然ありません。一般的にお父さんが本当に愚図になり情けない存在になっているように思います。月給を渡しているのだから子供の教育は母親の責任だと言う父親がいますが、とんでもないことです。そんな甘い考えでは、これからの子供さんは絶対に育てられはしません。夫婦が本当に心を合わせなかったら、今の思春期の若者たちをきちんと指導することは、殆ど諦めた方が良いくらいです。父親の果たす役割は極めて大きいわけですね。それがね、仕事を口実に家庭を放っていい加減にしておいて、結構外で遊んだりしていると必ずそのつけが回ってきます。必ずです。本当にほぞをかむ時があります。親父は俺を憎んでいるなんて、そういう時に使う言葉を心外といいます。いくら心外だといっても始まらないですね。

男は一生懸命稼いで、土地を買って家を建てれば良いと思っておられる人がおられます。土地を買い家を建てれば良い家庭ができるのではありません。家庭とは家付きの庭と書きますが、字が悪いですね。そこには人間関係が全然入っていないでしょ? でも本当の家庭というものは、家を建てて芝生を植えれば良い家庭ができるのではないのです。そこには本当の心遣いがなければなりません。この教会の近所にも素晴らしい庭を持っておられるお家があります。美しいなあと感謝して眺めさせて頂いています。でもね、本当に綺麗な庭を造ろうと思ったら、もの凄い努力と辛抱とが必要ですね。近所のその方も、毎日作業着を着て庭の手入れを一生懸命されています。あれくらい手間をかけなければ良い庭はできません。良い家庭をつくろうと思ったら、美しい庭を造る努力にも増して、それ以上の努力が欠かせません。ご主人が仕事にかまけて家庭を疎かにしていたら、必ずつけがまわって来ます。だから、本当に子供をもっと大事にしないといけないと思います。

奥さんは本当に主人を信じることができなかったら、本当に愛することができなくなります。明日は夫婦の問題を十分にお話ししたいと思いますが、婚約時代や結婚初期には、あんなに話し合いお互いを大事にし合ったのに、全然話し合いができなくなってしまいます。結婚から2・3年すると、もうそんな家庭がいっぱいあります。3・4年もすると離婚を考えている奥さんがいっぱいおられますね。本当に良い家庭をつくろうと思ったら、純潔と申しましょうか貞節と言いましょうか、これが必要です。主人の純潔が信じられないような奥さんは、本当に主人を愛することができないです。そんな家庭では、本当の夫婦の素晴らしさというものを味わうことはできないのです。どうかご主人には、どうしても家庭を大事にしていただきたいと思っております。家庭は人生の一つの大きな目的です。仕事はそのための大事な大事な大事な手段です。

男の悪口ばかり言いましたが片手落ちですね。奥さんもね、これがまた大変な嘘つきですね。女も嘘つきが多いです。どういう嘘でしょうか。子供、子供と言って、ご主人をいい加減にしているんです。子供が90パーセントで、主人はいつの間にか10パーセントになっています。確かに子供は大事ですけれども、子供子供子供と言って、主人をほったらかしにしている精神そのものに間違いがあるんです。「先生、わたし主人の事は諦めているんです。だから、子供に全部期待しています。」なんて真面目な顔で私におっしゃった奥様がおられましたが、そんなに簡単にご主人を諦めてもらっては困るんです。男にとって仕事が90パーセントで家庭が10パーセントであるのが嘘であるように、本当は、心は、愛情は、精神は、家庭が90パーセントで仕事が10パーセントで良いのだということをいつも申し上げるんです。同じように主人を90パーセント愛することができれば、子供は10パーセントで十分なんです。何故ならば、主人を愛する愛と子供を愛する愛は、全然性質が違うんです。全く違う愛なんです。夫婦の愛というのは全人格的な愛なんです。全人格的な愛を注がないと、良い夫婦はできないんです。良い家庭はできないんです。何パーセントかはホステスさんだとか、何パーセントかは職場の女性とかでは、絶対に良い家庭はできないんです。夫婦の愛情というのは、全人格的な愛が必要なんです。例えて言えば風呂桶一杯に愛情が溢れていないといけないんです。

ところが、子供なんてものは、ある意味において玩具みたいなものです。ペットみたいなものです。ペットと恋愛する人はいないでしょ。何故なら人間の精神的な愛の構造や容積が100だとすれば、犬や猫は1パーセント、もっと少ないかも知れません。全然釣り合わない愛なんです。夫婦はね、100と100が結びついて、初めて満たされるようにできているんです。ところが、子供はちょっとペットと似てまして、夫婦が本当に愛し合っていると、そこからこぼれて来るおこぼれだけで、子供は10人いても満たされるようにできているんです。風呂から柄杓で一杯くんで来て10人の子供に注いでも、まだまだ残りができます。余りがあるんです。子供の容積とは、そんなに小さいものなんです。お母さんが子供を愛するのに、全人格的に愛する必要はないんです。小手先で愛していれば良いのです。勿論、手間はとりますよ。時間はとります。ご主人が仕事に90パーセントの時間をとられるように、子供に手はかけなくちゃあいけない。愛情は注がなくちゃあいけない。時間も手間もかけるべきです。私は親業という言葉が好きですが、ご主人が仕事に「業」として時間・精力を注ぐ程度に、お母さんは子供に手をとるべきです。それは親業といっていい程に、子供を育てるということは、もの凄く大事なことです。それくらい、子供に愛情と時間を注がなくてはなりません。昨日も申し上げましたが、そこを手抜きすると大変です。

最近、挨拶ができない、片づけはできない、忘れ物は平気、何を言ってもブスッとして答えない、直ぐ口答えするなんて子供のことを聞きますね。ろくな返事ができない子供が一杯いるでしょ。あれが商品なら欠陥商品です。欠陥商品は手抜き工事から生まれてくるんです。欠陥人間は親の手抜きが原因です。本当に子供に愛情を注いでいたら、欠陥人間は生まれないんです。本当はそうなんです。ですから、お母さんは業といえるほどに子供に時間と手間はかけるべきだと思います。昨日も申し上げたように、自動車を買うためや家を建てるために子供を放ったらかしにしてバイトに行くなんて、親としては下の下の精神だと私は思います。まあそれでも、そうしなければ仕方がないというのであれば仕方がないですが、そうであれば尚のこと、本当に心して子供をギューッと抱きしめることをしなければいけないと思います。

ところがどうでしょう。絶えず子供をどなりちらし、小言ばかりで接していないでしょうか。こんなコマーシャルを耳にしたことがあります。「ぐずぐずしてるとお父さんのようになりますわよ、という妻の声を後ろにして出て行く夫の心は・・・」というものでした(笑)。自分は顔も洗わず子供にご飯を食べさせたり、早く早くとせき立てる。主人が出勤してからお化粧し、主人の帰宅の頃には、また夜叉みたいな顔で出迎えるなんてことはないですか(笑)。それは本末転倒なんですね。子供というのは、夫婦が本当に愛し合って、信頼し合っているならば、子供は放っておいても大丈夫なんです。少しくらい思春期の嵐があってもね、必ず復元力がちゃーんとあって、お母さんの元に帰ってきます。

家庭というものは、英語ではホームと言いますが、日本の家庭はガーデンハウスです。ホームというのは、帰っていく場所という意味です。主人がね、仕事が終わると「今帰ったぞ!」と急いで帰宅したくなるような、奥さんの好きな物でも買って急いで帰りたくなるようなのが、それがホームという意味です。子供が夕方になっても家に帰りたくない、フラフラ夜中の1時までほっつき歩いているということは、家庭が家庭でない証拠です。帰りたくないんです。野球の選手でホームベースに帰りたくない選手がいますか? 3塁から2塁にちょっと飲みに行ってきたなんて、そんな選手がいますか? ホームに帰りたくてたまらない筈です。家庭というものは、帰りたく帰りたくてたまらない場所です。帰ったら1点つくんです。それがホームです。だから、毎日早く帰宅するご主人は、奥さんに対して365点稼いでいることになります。

でも、そのホームを演出するのは、やはりこれはどうしても奥さんの仕事です。主人が帰りたくないような、顔を見ると嫌な顔をして、稼ぎが少ないとか帰りが遅いとかブツブツ文句を言ったらね、男はやっぱりちょっとアバンチュールしてみたくなるかも知れませんね。ご主人も、ちょっとくらいはそんな気持ちになるもんですよね。だから皆さん、どうぞ子供を全部引き連れて、玄関の前でトランペットかなんか用意して、ご主人が帰宅されたら、パンパカパーン、ご主人様のご帰還~!と歓迎してあげてください。まあこれはちょっと大げさかも知れませんが、それくらいの心構えがあっても決して悪いことはないんですよ。本当に主人が帰ってきたら大歓迎しなければなりません。この点、よろしいでしょうか?

主人を愛せないようなお母さんというものは、奥さんというものはね、必ず子供に嫌われます。ほんとですよ。そういう奥さんは必ず子供から疎まれます。何故ならば、主人を愛せないようなお母さんの顔はヒステリックでイライラして、主人の悪口ばかり言ってるようになります。主人を愛せないようなお母さんというのはね、子供が重荷に感じるんです。だから、婆抜きの対象になりますよ。子供のエゴの方がお母さんのエゴよりずっと強いですよ。子供はもの凄く母親のエゴを感じるんです。歳とって親の面倒をみなくてはいけないとなったら、嫁さんのきてがあるだろうかと直ぐ計算しますよ(笑)。主人を愛せないような人の愛は、私は信じられない。奥さんを愛せないような人の愛は私は信じられないですね。何故ならね、奥さん以外は全部他人だからです。本当に自分の妻や夫を愛せないような人の愛というものは、絶対に嘘があります。全部余所行きです。嘘です。外交辞令です。何年か、それこそ何十年も連れ添う夫婦は、それこそ正に肉親です。そこで本当に優しい良い顔ができなかったら、その人は嘘です。そんな人の人格を私は信じられない。自分の妻を愛せないような人は信じられないですね。そこで判断します。この人の愛は本物じゃないなとね、直ぐ分かります。この人の人間性には嘘があるなと直ぐ分かります。

ですから、奥さんにもう一度申し上げますが、主人を愛せないような人はね、子供にも愛されません。子供が小さい時は分からないんです。子供が結婚するような年齢になってきますと、お母さんのエゴがちゃーんと子供に分かるんです。だから、嫌われますよ。お母さんはお父さんが悪いとばかり非難するけれども、お母さんだって結構悪いではないかと、母親のエゴを必ず指摘するようになります。子供って厳しいですから。子供の方がずっと厳しいですからね。

まあ随分失礼な事も申し上げましたが、そういう人間の嘘の本質は何かと言いますとね、結局エゴなんです。自己中心なんです。自分本位なんです。愛の本質については明日お話しますが、本当に可愛いのは自分なんです。自分が一番可愛くて、その自分を可愛がってくれる人を探して結婚しているわけです。幸せにないたいのはいつも自分です。それが人生の優先順位の第一位でしょう? だから、あれだけ熱烈な恋愛をしても、半年や一年してそれほど自分を相手が愛してくれないと分かると、直ぐ離婚話が出てくることになります。人間とは本当に骨の髄までエゴイスティックなものなのです。この点、明日はもう少し詳しくお話します。

人間のエゴとは罪なんです。インマニュエル・カントという偉いドイツの哲学者は、「人を愛するという一番素晴らしいことの中にも、いつでもエゴが働く。人を愛する場合でも、相手を目的として愛さないで手段として愛してしまう、それを罪というのだ。」と言っています。それを色々と詳しく説明しています。妻を愛する場合でも自分の為に愛しているんです。夫を愛するのでも、自分の永久就職のために夫を愛しているのです。ですから、本当の目的はいつでも自分です。相手を手段化しているのです。人格を手段化することを罪というとカントは言っています。人間とは本当に業の深いものです。いつでも、最後は自分がちやほやされること、自分が主人公であること、自分が愛されることを求め、そうでないと機嫌が悪くなってしまうわけです。満足出来ないことになります。

そういう人間のエゴというものが、これが罪なんです。それが解決されない間は、いつまで経っても人間関係は上手くいきません。直ぐに不平・不満・妬み・憎しみ・争い、いつでもそういうものが湧いてきます。それは例えて言えば、ブレーキがかかった自動車を運転しているようなものです。そういう状態ではブレーキは熱を持ってきますね。時には発火します。精神的にいつも自分、自分・・・というような、自分しか愛せないような、本質がそういうような場合には、必ず不平が出る、不満が出る、人のすることが気に入らない。他人はともかく、自分が一番親しい夫や親や妻に対して不平や不満が段々強くなって、たまにはこれを解消しようと努力しても、また直ぐそれをくり返してしまうことになります。これをストレスというのです。他人に対するこういう在り方では必ず精神的なストレスになってきます。

人間の健康というものは、そういうストレスがたまると直ぐバランスを崩すことになります。WHOという機関では、健康とはただ病気でないとか身体が弱くないということではないと書いています。健康とは肉体の健康、魂・心・精神の健康、社会的な健康からなり、それが揃わないと本当の健康ではないとWHOの本に書いてあります。健康というと、直ぐ栄養状態や食事内容、運動など肉体的なそれを連想します。しかし最近では、肉体的な健康が精神の健康と関連していないものは殆どない、病気は殆ど精神と関係があると言われています。勿論、後ろから追突されて鞭打ちになるなど事故は除きますよ。でも、それによる怪我の治癒には精神がもの凄く影響します。病は気からと言いますが、胃潰瘍や神経痛、リューマチとか、みんな精神的なものです。最近では癌の患者でさえも、患者さんに聞くと精神的に非常に強い不安やストレスを感じていた時期があったというような報告が出ています。そういう状態では癌さえ発生し易くなるという報告があります。人間の精神と肉体はもの凄く密接な関係にある筈でございます。

だから、人間は肉体だけではなく精神的な存在です。その精神がうまくいっていないと、直ぐ肉体的にも影響が出てきます。例えば円形脱毛症がありますね。一本の髪の毛の根本を顕微鏡で調べると、タマネギのような組織の中に十五の層があるそうです。その一つ人には全部役割があって、例えば毛髪の促進とか痛みを感じるとかなどです。その中の一つの働きでも損なわれると脱毛に繋がるわけです。菊の花のような神経組織に沿って円形に脱毛する仕組みだそうです。私たちは殆ど意識しませんが、一本の髪の毛にもどれだけ繊細な仕組みがあるか驚くべきことです。

人間の髪の毛は10万本あるそうですが、私たちはその一本さえ白くも黒くもできません。神様は10万本の髪の毛を全部数えていらっしゃると書いてあります。全部ですよ。なんて素晴らしいことでしょうか、凄いことでしょうか。愛する皆さん、人間業ではないんですね。人間の身体とは、絶対人間業でできているものではないのです。自分で意識して男や女に生まれてきたわけではないし、気が付いた時にはもう生まれて来ていたのです。私たちの命も肉体も全部神様のものです。神様が、私たちをこの地上で生きるようにとして下さったのです。創って下さったのです。そうではないでしょうか。神様はあなた方が生まれる前からあなた方のことを全部ご存知である、あなた方の髪の毛まで全部数えていらっしゃる、あなた方の精神も何兆という神経細胞も全部を一つ一つ、神様はちゃーんとスペシャルに創っていらっしゃるのです。

岩波書店の翻訳本に人間がどれだけ他の動物と違いスペシャルな存在か、ということを詳細に論じたものがあります。キリンや猿など他の動物は、親と同じ完全形になるのにそんなに時間はかかりません。人間の赤ちゃんは違いますね。人間は特別にできているのだということを、その本はしっかりと証明しています。人間の赤ちゃんは頭だけはしっかりと高等動物として生まれてきます。神様にお祈りすることも、お詫びすることも、信ずることもできるように、子供の時からそういう完璧な脳を持って生まれてくるということを岩波の本は述べています。人間は本当に特別な動物だということを色々な面から保証しています。人間とは凄いんです。肉体だけではなく精神的な働きをし、更に霊的な働きをするようにできているんです。だから、肉体的な面だけの健康は、健康の極々一部分に過ぎません。だからね、私は人間はむしろ精神的な存在で肉体的なものではないと思います。

精神的に健康な人には3つの性質があります。一つは「謙虚」だということです。精神的に健康な人は必ず謙遜です。威張る必要がないからです。偉ぶってはいけない、謙遜であろうなんて思う必要もないんです。そんなことを考える必要もないほど、精神的に健康な人は必ず謙虚な人になります。威張り散らすなんて、しようとしても出来ない訳です。自分の事ばかり考えないで全ての人の事を考えなさい、とピリピ書に書いてあります。へりくだった心を持っていなさい、とパウロは言っています。もう一つは「寛容」な人になります。精神の健全な人は必ず寛容です。コリント第一の手紙の第13章には、愛は寛容で情け深いとあります。愛は妬まない、誇らない、高ぶらない、非礼を行わない、不作法をしない、と書いてあります。これは霊的・精神的に健康な人はと読み替えたら良く分かります。精神的に健康な人は必ず寛容で、必ず情け深いです。精神的に健康な人は、妬んだり憎んだり不作法をしたりしません。自分の利益を求めません。高ぶらない、誇らない、不作法をしない、イライラしない、人を恨まない。精神的に健康な人は、必ずそういう豊かさを感じます。。第3番目は「直ぐ謝る」ことができるということです。直ぐ自分の非を認めお詫びすることができます。この3つができる人は絶対に健康な人です。お詫びができなかったり、人を許すことができなかったりするとどうなるでしょうか。その分は全部ストレスとなって自分の中に貯まっていきます。

更に社会的な健康ということがあると申しました。それは妻ならば妻として幸せであるかどうか、十分に能力を発揮して夫に喜ばれているかどうか、子供を愛しているかどうか。主婦なら主婦として十分なことができているという満足感があるかどうか。幸福とは肯定感です。不幸せとは否定感です。駄目だ駄目だ、困った、嫌になったというのは否定感です。幸福な人は必ず肯定感があるものです。何でも肯定的に受け止められる時、人はいつでも幸せです。肯定できないで否定ばかりしていると、その人はストレスが段々貯まってきます。夫や子供の行動を年中否定していると、その否定感は必ずストレスとなってきます。だから物事を肯定的に捉えられる人は幸せです。社会的な健康とは今の社会的地位とか、自分の仕事が心から肯定できている人です。上司に喜ばれたり、仲間に愛されたり、部下に尊敬されたり、自分の仕事が高く評価されたり、これらは本当に幸せです。まだ他人が自分を否定するのは我慢できますが、そのうち自分で自分が肯定できなくなると、本当にこれは悲劇になります。やがてノイローゼや鬱病になったりします。鬱病になる方がおられますが、そういう人にはいくつかの特徴があるそうです。先ず鬱気分。どうも気分がすぐれない、食欲がない、眠りが浅い、倦怠感、何をしても面白くなく興味が湧かない、一つのことに集中する能力がなくなった、自殺願望がある、自分などいない方が良いと考える、自責の念にいつもかられる、これらの特徴があります。それらがあっても、ちゃんと仕事ができて生活ができていれば大丈夫ですが、会社にも行きたくない、学校にも行きたくなくなると、そろそろ病気の段階に入ってきます。

これらはみんな全部「エゴ」から始まるんです。自己中心からその思いは湧いてくるんです。いつでもエゴの精神では、主人に対して不満、妻に対して不満、親に対して不満、子供に対して、先生に対して・・・不満が段々積み重なり、何をやっても不満の材料となります。それはいつでもエゴが第一だからです。イエス様が「妻よりも私を愛しなさい」とか「親よりも私を愛しなさい」「子供よりも私を愛しなさい」と言われたのは、自分自身さえも憎むものでなければ私に相応しくない、ということを言いたいがための一つのプロセスとして言われているのです。自分自身を捨てることができない、自分自身を手放すことができない、これはどういうことでしょうか? それは自分よりも大きな大きなお方、本当に私の生存・存在・いのちに対して責任を持って、私を無から有に呼び出して、私を一人の人間として生かしてくださった、私を愛して止まない、私のためには、一人子のイエス様さえも十字架につけて犠牲にしてくださる程に私を愛してくださる、私の思いも考えも、生まれる前から私を本当に愛して、死んだら永遠のいのちを与えて下さるためにイエス様を十字架につけて下さったという、本当に私の全存在を根底から愛し支えて下さる神様が信じられないと、人間は自分を手放しにすることができないんです。

人間は自分が愛されたことがない人は他人を愛することはできないんです。人間は自分が愛された分量しか人を愛することができないんです。許されたことのない者は人を許すことができないんです。許す方法が分からないんです。自分に罪があるということが本当に分かって神様の前にお詫びができないと、罪が赦されたという確信をもつことができません。ある方がおっしゃいました。「教会に来て天地を創造された神様の話を聴いて、神様の赦しや愛があることを知って、私は本当に初めて心が安らぎました。それまで3人の子供を中絶したので、そのことがいつも心に引っかかり、水子地蔵に行っても百日参りなどしても、あれこれ何をしても安心感がなかった。子供はもう死んでいるから誰にお詫びして良いか分からない。悩んで悩んでいたが、人類の創造者、天地の創り主である神様にお詫びをした時に、初めて神様が私の罪を赦してくださったという安心感が心の底から与えられた。」と感謝しておられました。本当にその方は涙を流して私に話され、それからその方の顔がぱーっと変わりました。また、軍隊で罪のない中国人を殺した経験がある方がおられました。病気などになるとその人の顔が思い出される。何も罪のない人だったわけです。こういう場合は誰にお詫びをすれば良いのですか? 中国に行っても地名さえ忘れているのですから肉親を捜し出すこともできません。

でも、本当に創り主である神様に心からお詫びができた時に彼はその思いから全部解き放たれたのです。東京で路傍伝道をしていた時、ある社長さんが涙を流してこんな話をされました。「実は私は子供の頃、雨上がりの増水した川の水を見に行きました。友達が向こう岸まで渡れるかと言い合いになり、渡れると言った友達を川に突き落としてしまった。その友達はあっと言う間に濁流に呑み込まれてしまった。家に帰り、事故だったということになったが、恐ろしい形相で流されていった友達の顔が心に焼き付いて、五十・六十歳になっても忘れられない。本当に悶々としてこれまでを歩んで来ました。」しかし、あなたが神様の前に本当に罪を告白するならば、神様は全ての罪を赦して下さるという聖書のことばを聞き、本当に喜んで郷里の警察に出頭されてお詫びをされたそうです。すると署長さんは6歳の時の事件で、それから50年が経過しているので時効ですと言われて許されたそうです。親戚などにも一生懸命尽くしたので、もう昔のことは忘れてくださいと言われたそうです。こうやって、その方は誰一人その人を憎む人もなく、本当にスカッーと許された喜びを持って明るい晩年を送られました。

誰が罪を赦してくださるでしょうか? 創り主である神様以外に赦すことのできる方はないのです。そして、本当にそのことが言えた時に神様が第一になります。男は神様が第一になったら家庭が第二で仕事は第三になります。第四には人のことが気になって、自分の事なんかなくたって良いとなるんです。本当に神様が私を愛してくれていたら、自分の事なんかどうでも良くなるんです。五でも六でも十番目でも良くなってしまいます。何故ならば、妻も神様が第一だったら夫は第二です。神様とは勝負になりませんが、神様の次は夫であり妻です。仕事が第三です。あるいは子供は第三です。子供はそれで十分なんです。おこぼれで十分満たされています。もし、その優先順位が決まらなければ、あなたはいつまでも自分が第一で不平と不満でぶつぶつ文句を言い、最後にはノイローゼになるのが関の山だと思って下さい。少なくとも地獄行きです。間違いありません。

本当に私たちは、その優先順位がピタッと私のために命を捨てて下さった神様を信じられると、その神の愛が信じられると、人生の優先順位がピシーと決まって、ストレスがなくなってしまうんです。全ての事を肯定的に喜んで感謝して、意気揚々と輝かしい人生を送ることができます。時間が来ましたので、今夜のお話はここまでとさせて頂きます。ありがとうございました。